「君たちはどう生きるか」における高畑式演出と宮崎ファンタジーの致命的な相性の悪さ
冒頭の火事のシーン、大平晋也の圧倒的イメージ作画は、眞人の「お母さんが死んじゃうよ!お母さん死なないで!」という恐怖と慟哭を映像で表現するために他ならなかったのに、見た人の大半にそれが伝わっておらず、ただ作画がすごかったとしか思われてないの、これはもう演出の敗北に他ならないでしょ。全編そういうシーンばかりじゃねえか。
やっぱ情感演出の基本を高畑勲方式にしてるのがよくない。主人公の心象風景で現実を切り取る手法(冒頭大平パートがまさに典型)でいろいろ補ってるけど、やっぱ肝心なところ「お母さん死んじゃった!死んじゃったよ!」という主人公の悲しみが「自分ごと」として伝わってこない。今ようやくそこに辿り着いて俺は泣いてるんだが、遅すぎる。
面白くないにしてもせめて泣ける映画であるべきだった。過半数が「よく分からなかった」だけで終わって泣けてないのは勿体なさすぎる!分かってみるとめちゃくちゃ泣ける映画なのに!もっと上手くやれたただろ!
あんなに尺を使って「母を喪失した子供の悲しみ」を丁寧に描写してたのに、1ミリも感情移入できなかったのはなぜ!?なんで自分と同一視できなかった?→感情移入させて同情を誘う演出こそ高畑勲が最も否定してた手法であり、「同情するより理解しろ」こそが高畑演出であり、それに倣ってるから。だから観客はしっかり「理解」はしてる。でも誰も「同情」できてない。
狙い通りで大勝利なんだけど…やっぱり「同情」は必要だよ!俺は高畑勲を否定する!「君泣き」させてくれ!ていうか絶対本音では感情移入させたかったでしょ!パヤオ!!!!!!!高畑さんへの弔いとして今までで一番忠実に高畑勲の教えを守って映画作りたかったのは分かるけど、やっぱ致命的に向いてないって!高畑演出と奇想天外ファンタジーは最悪に相性が悪いんだ!だから高畑作品って全部地に足ついた地味目の話になるんだよ。感情移入させずにキャラの情感を理解させるには、それを妨げるノイズを排して引き算する必要があるけど、そこに人外にしか見えない不気味なババアどもとか、訳の分からんアオサギだとか、面白いことをしちゃうからそれがノイズになる(ていうかこれらが「主人公の心象風景で現実を切り取る手法」の一環なんだけど、それが逆にノイズになっちゃってる)。観客に情感を理解させるために必要な「間」、本来なら「ダレ場」として必要な尺に全部宮崎ファンタジーぶち込んじゃってるからいけないんや!次から次へと情報が追加されてくるから誰も咀嚼しきれない!そうなるんだったらもっと感情移入させやすい御涙頂戴君泣きクソエモ演出で下品でいいから描写すべきだった。本来宮崎さんそれ得意じゃないっすか!その得意手を封じてファンタジーやるからこういうことになる!というか奇想天外ファンタジー作品でキャラの情感を演出するにはもうその「下品な演出」しか取りようがないでしょ!
火垂るの墓は1ミリも草太に感情移入できないけど、劇中で起こっている事実が単純に辛すぎて、誰もが悲しくなる。これが高畑演出。キャラの周囲の環境とキャラの所作を丹念に拾うことで客観的に「事実ベース」の情感を積み重ねていくことで観客に「理解」させる演出。
でもこの手法は宮崎駿がやりたい奇想天外冒険活劇ファンタジーと致命的に相性が悪い。だから高畑勲の手を離れて監督始めたんでしょうが。宮崎駿の「涙!顔のドアップ!キャラの一人称視点!泣き声!全身の芝居で大げさに感情を表現!」は感情移入しやすいし「同情」できるし、分かりやすい。だから売れる。でも自身のその演出法を宮崎さんはずっと後ろめたく感じていて、ずっと高畑さんに申し訳なくて(そういう演出こそやっちゃいけないとずっと教わってきたのに)、でもこれまでは張り合う気持ちからそれでも自分の演出を貫いてたけど、高畑さん死んじゃった今こそ逆に高畑さんを無視できなくて、だから今作はここまで高畑的な演出にしてるんだと思う。それが災いしてる。致命的に。高畑演出で奇想天外ファンタジーやるから単純に観客はわけ分かんなくなってる。そうか、それを自覚してるから「訳が分からなかったでしょう」と言ってたのか。ああ〜…腑に落ちた。