凋叶棕さんの新譜『夢』について、内容とは直接の関係はないんですけど、思ったところがあったので書きます。最後まで聴いてから読むか読まないことを推奨します。
突然ですが、まずは夢違科学世紀からふたつの言葉を引用します。
ひとつめ。
「ねぇ、他人の夢の話ほど、話されて迷惑な物はないわよ?」
宇佐見蓮子の台詞ですね。まあこれは冗談です。私はこれから凋叶棕の『夢』に見た夢の話をします、というだけの注意書きということで。
ふたつめ。
「私には、何が現で何が夢なのか判らなくなってきたの」
マエリベリー・ハーンの言葉です。夢と現を行ったり来たりするようになった彼女が、蓮子にカウンセリングしてもらう中で出てきた言葉ですね。これからこういう話をします。
ということで『夢(うつつ)』の話をするのですが、さて、凋叶棕さんのこの作品は《何が現で何が夢》なのでしょうか?
……秘封的な話をする上で、夢か現かなんて視点によって変化してしまいますから、まずはこの作品の主人公らしい宇佐見菫子の視点に立ちましょう。ジャケットで中央にいますし、「悪夢の果てに見るユメ」で主役ですし、アルバム全体を考える上では彼女についていけば良さそうですから。
菫子にとっては《何が現で何が夢》でしょうか?
『夢(うつつ)』で描かれる物語の多くは、幻想郷の少女達の夢です。それらが幻想少女本人達にとって夢か現かにかかわらず、菫子にとっては全て夢の世界の住人の物語です。ですから、このCDに収録されている音楽は《夢》です。吉夢であっても、凶夢であっても、夢であることに変わりはありません。迷い込んでしまった「無終祭」だって、夢の世界の話です。
さて、帯の裏側に記載されているURLのページを開くと、CDだけでは見えなかった現実が見えます。そこにいるのは病床から窓の外を覗く菫子。そこでは、無終祭の悪夢に侵されつつある菫子が、「本当の現実」を取り戻そうとする《現》での物語が歌われます。
細かいストーリーの考察はあなたに任せるとして、今注目していることを簡潔にまとめると次のようになります。
・CDで描かれる物語は夢の話
・Webで描かれる物語は現の話
菫子にとって《何が現で何が夢》か、という問いの答えはこのようになります(よね?)。どちらも「一つの魂が経験すること」という意味では「現実」ですが、幻想郷での話と、外の世界での話ということで、明確に区別されています。
区別が明確なのは、媒体によるところも大きいでしょう。CDで夢を見て、Webで現を見る。Webに隠しトラックを掲載した例には『密』もありましたが、今回はその方式に別の意味を与えた(『密』は、CDの外に隠し事がある、といった意味合いだった)のがミソなのです。
……何か、おかしいと思いませんか? それとも、相対性精神学の常識に慣れたあなたなら「当然でしょう」と思うのでしょうか。
・手元のCDという、リアルな存在に収録された音楽が、夢の話。
・インターネット上に、ヴァーチャルに存在する音楽が、現の話。
リアルが夢で、ヴァーチャルが現なんです。
ヴァーチャルとリアル。夢と現。これは、秘封倶楽部、夢違科学世紀と卯酉東海道で語られたテーマです。
メリーが見た夢の世界の話を蓮子がカウンセリングする。ヒロシゲのカレイドスクリーンというヴァーチャルな映像刺激を浴びる。そんなお話を通して、夢と現は区別できるのか、ヴァーチャルとリアルは区別できるのか、という議論が交わされます。「議論が交わされる」と表現するほど白熱はしませんが。
いずれにしろ、秘封倶楽部を語る上での「夢と現」とは「ヴァーチャルとリアル」でもあるのです。凋叶棕の『夢(うつつ)』の構造は、そこに挑んでいるように見えたのです。
CDがリアルで、Webがヴァーチャルだとして、それらは区別できるのか?
この問いかけを幻視して、私は今の音楽を取り巻く状況に思いを馳せてしまいました。オンラインでのダウンロード販売が広まり、CDとしては売れなくなっていること。CDとしてのみ販売した音楽も、望まれない形でWeb上に流通してしまうこと。
仮に「悪夢の果てに見るユメ」が、今の音楽を取り巻く状況の暗喩なのだとしたら、否定する幻想とは、取り戻す現実とは、何のことなのか? それは誰の意志なのか?
ZUNさんが卯酉東海道あとがきで綴っていたのは、ヴァーチャルとリアルとは分けられないということ。そうでないと、音楽では人に影響を与えないことになってしまうから、と。
では、RDさんはどういう考えなのか?
そして私は音楽を楽しむ者として、どう考えればいいのか?
問いかけは尽きず、それこそ永遠の課題なのかもしれませんが、こんな夢を見てしまいました。
「ヴァーチャルとリアル」というテーマに挑んだ(ように私には見えた)凋叶棕の『夢(うつつ)』は、間違いなく「秘封倶楽部」の二次創作なんです。
余談。
物理的な世界とインターネットの世界とを、リアルとヴァーチャルとして区別できるのか?という問題は、別に音楽だけに留まる問いかけではありません。
だって、凋叶棕の新譜というリアルなCDを手にするために、その情報はどこから仕入れたでしょうか?
例えば、リアルな世界で手に入れたCDについて語るとしたら、どんな場を選ぶでしょうか?
『夢(うつつ)』が頒布されたコミックマーケットは東京都江東区有明というリアルな場所で開催されます。ここに多くの人の作品が集まって、作品が手渡しでやりとりされる祭、ハレの舞台です。
一介の凋叶棕ファンが書いた文章をここまで読むようなあなたですから、普段は当然RDさんのツイートを追うなどしているのでしょう。即売会という祭に対して、それはケ、日常と呼べるかもしれません。
日常と祭、ケとハレは、リアルとヴァーチャルの、どこにあるでしょうか。夢と現のどちらなのでしょうか。
日常という言葉はTrack.1F「日常、或いは友のまどろみに添えて」という曲名にも用いられていますね。原曲の「衛星カフェテラス」は、夢違卯酉に続く大空魔術に収録された曲です。ついでに言うと、Track.ER.「無終祭」の原曲「永遠の幻想祭」は、夢違卯酉の直前とも言うべき、蓮台野夜行最終トラックです。このあたりも、考えるヒントになりそうです。
と、少し話を広げ過ぎているきらいがありますが、私が『夢』に見た夢は、そんなふうに広がっていってしまうのでした。
いつしか自分の見た夢が悪夢となって、私自身を呪いそうです。