【つづく、】「リバ ス」とジャングルジムの記憶から浅倉透について考えてみる
初出:2021年7月5日Privatterに投稿
◆
カセットテープの機械を事務所倉庫で発見するところから始まる今回のSSRのエピソード、今回もまたまわることが主題となることがここに予感させられます。【ハウ・アー・UFO】や【まわるものについて】にもある通り、まわることが浅倉透の主題であることは間違いないと言っていいと思うのですが、それではその主題はいったいどんな問題系となっているんだろうと考えると一筋縄ではいかないところがあります。
今回は、【つづく、】のうちの「リバ ス」から出発して、WING編のジャングルジムの記憶について捉え直すことで、浅倉透の問題系について少し考えてみたいと思っています。
◆
◇
「リバ ス」は、街頭モニターでテレビドラマの映像が流れているのを透とプロデューサーが見るところから始まります。そこで透は、以前銃で撃たれて死んだはずのキャラクターが生きているところを目撃し、驚きます。が、実は透がその死を目撃したドラマと、いま街頭モニターで流れているドラマは、全く別のドラマなのでした。
その後に透とプロデューサーの間で交わされる会話が、すごいのです。少しずつ見ていきましょう。2人の会話が次です。
透「巻き戻ったかと思ったのに。時間」
P「え?」
透「撃たれたけど、先週。時間戻って、なかったことになったのかもって」
P「あぁ…… ははっ、あれ撃たれたシーンが見せ場なんだぞ。大体、巻き戻ったらさ、透だって撃たれたこと覚えてないんじゃないか?」
透「え、うん。だから、なんでかなって、私だけ、覚えてるの」
P「ははは、不思議なこと言うんだな。――――でも、残念。俺も覚えてるよ。撃たれたの」
透「……巻き戻ったのかも、じゃ。ふたりで」
ここの会話に、私は哲学的なセンスを感じました。
「巻き戻ったのかも」というのは、街頭モニターを見て透が抱いた最初の印象です。死んだはずの人物が生きて活動している。死は不可逆であるのだから、死んだ人が生き返るはずはない。死んだはずの人がこうして生きているのだから、時間が巻き戻ったのではないか……というわけです。
それに対してプロデューサーは、「巻き戻ったら」「透だって撃たれたこと覚えてない」と言います。最初に哲学的なセンスを感じたのはここです。本当に時間が巻き戻ったのだとしたら、記憶すらも消えてしまうはずです。プロデューサーは言っていませんが、もし巻き戻って記憶もなくなってしまうなら、巻き戻ったことにすら気づかないはずです。この巻き戻り、幽谷霧子の【夕・音・鳴・鳴】「でんごん」に出てくる妖怪による移動に近いものです。どちらも記憶ごと操作されるので、操作されたことの記憶はなく、記憶がないために操作されたことにすら気づけません。透たちの会話を追っていくためには、この前提を押さえることがポイントです。この前提を押さえていること、そしてこの前提を押さえた上で話が展開するところに哲学的センスを感じたのです。
本当に時間が巻き戻ったなら、巻き戻った記憶すらなく、巻き戻った記憶すらないのなら巻き戻ったことにさえ気づけない。しかし透は、死んだはずの人が生きているのを目撃し、「巻き戻ったかと思った」のです。透は、プロデューサーが言ったことを理解しています。それで透は「私だけ、覚えてる」ことに疑問を抱いたのでした。
しかし、街頭モニターに映る人物が先週銃で撃たれて死んだことを覚えているのは、透だけではなく、プロデューサーもまた覚えていたのです。そして透はこう言う。「巻き戻ったのかも、じゃ。ふたりで」。
時間が巻き戻ることが本当に起こったのなら、そんなことが起こった記憶すらなくなる。そんな記憶もないのなら、巻き戻ったことには気づけもしない。けれどここで透は「巻き戻ったかと思った」。巻き戻って消えるはずの記憶をなぜか保持している。そしてそれはなんと透だけではない。プロデューサーもそうなのだ。これが本当ならば、すごいことです。巻き戻ったのに記憶を保持しているということがまず不思議であり、その不思議は自分だけでなく目の前にいるプロデューサーにも起きている。二重の不思議がここにあります。
ここまで時間が巻き戻るということを本当に起こることであるかのように書いてきましたが、本当にはそんなこと、起こるはずがない、と考えられています。透もプロデューサーも、ここで本気でそのようなことを考えているわけではないと思われます。そもそも、透とプロデューサーが見た、銃で撃たれて死ぬところと、その後に生きているところは、ドラマの世界であり、現実世界の出来事ではないのです。だから透が感じた「巻き戻ったかと思った」というのは、いわば錯覚です。
以上を整理すると、次の3点がポイントになります。
①本当に巻き戻るのならその記憶すらなく、巻き戻ったことにさえ気づけない。
②記憶すらなくなるはずなのに、それを覚えているという不思議。そして自分だけでなくプロデューサーも覚えているという不思議。
③透が「巻き戻ったかと思った」ことの事象は、ドラマの世界(しかも別の作品)のことであり、現実世界のことではない。
◇
透とプロデューサーの会話はまだ続きます。「リバ ス」の中で一番私に刺さったのは、次の透の発言でした。
透「――――ないのかな、そういう時間。そういう…… 切れ端みたいな。カセットテープの。誰も知らなくて、自分だけ覚えてる時間」
特に刺さったのは、「誰も知らなくて、自分だけ覚えてる時間」という部分です。こういう類のものにシャニマスで出会うのは、【我・思・君・思】「かなかな」以来で、あまりにも衝撃的でした。私がずっとずっと考えてきているのは、こういう時間のことなのです。
私にとってかなり切実な部分にこの言葉が飛び込んできているので、私にとっては深く深く刺さってくる言葉なのですが、私以外の人にとってもそうであるのかどうかは、よくわかりません。が、こういう言葉が印象的に登場してくるということは、少なくとも浅倉透にとって、あるいはこのシナリオを書いている人にとってもこれは重要な問題であるということが考えられ、私はまたこうした問題について関心のある人を新しく見つけることができたことを嬉しく思うのです。
この問題、何がどう切実か、どうしてこれほどまでに重要であるのか、説明するのが非常に難しいのですが、トライしてみます。透が言っている、「誰も知らなくて、自分だけ覚えてる時間」というのを、まずパラフレーズしてみます。それは文字通り自分だけが覚えていて、現実の出来事の歴史としてはなかったことになっている時間です。なにがしかの出来事が起こり、それを自分が体験したり目撃したりする。しかしふと気がつくと、その体験したり目撃したりした出来事を自分以外の誰も覚えていない。覚えていないというか、そもそもそんな出来事起こらなかったことになっている。
胸がふわっと浮かび上がるかのような、立っている足場が消えてしまうような、そんな感じがしませんか。自分にとっては本当に起こったことのはずなのに、誰もそのことを知らないし、そもそもそんなこと実際には起こらなかったことになっている。まるで自分だけがおかしいような、自分だけが本当の真実を知っているような…… 現実とされている世界の中から、自分の居場所がふわっと消えるような、そんな感じになります。
このことを念頭に置いて、少し先の会話を見てみましょう。
透「――――一緒って気がする。ドラマの中のこととかも。起こってるしね。起こったことに、してないだけで」
P「――――想像したことは、実際に起ってるのと同じ……みたいなことか」
透「ふふっ、おー…… すごい。そうかも。くっついてるから、時間。頭の中のことにも」
「一緒って気がする」というのは、「ドラマの中のこととか」もまた「そういう時間」ではないか、と考えているということです。「ドラマの中のこととか」は、ドラマの中の出来事としては「起こってる」けど、現実の出来事としては「起こったことに、してない」。ドラマの中で、ある人物が銃で撃たれて死んだとしたら、確かにそのドラマの中ではその銃撃とその人物の死は「起こってる」。しかし、現実の世界の歴史としては、その銃撃と死は「起こったことに、してない」、起こったことになっていないわけです。確かに起きたはずなのに起こらなかったことになっている、という点で、「誰も知らなくて、自分だけ覚えてる時間」と「ドラマの中のこととか」は似ています。
プロデューサーはこの発言に対して、「想像したことは、実際に起ってるのと同じ」と解釈します。透はここで、ドラマの中の出来事や、頭の中で想像したことを、現実に起こっている出来事と同じレベルで捉えようとしているわけです。普通は、ドラマの中の出来事や、頭の中で想像したことは、現実世界の出来事からは締め出されます。それらは現実に起きた出来事として数えられることはありません。でも、透はそれらを現実に起きた出来事と同じレベルのものとして捉えようとしているのです。透が「巻き戻ったかと思った」のがテレビドラマの映像であるということが、ここに効いてきます。
私にとってもう一つ重要であるのはここです。分かる人にはすぐに分かると思います。この「誰も知らなくて、自分だけ覚えてる時間」の最たるものは、夢です。眠っている間に見る夢。ここで透は夢の話をしていませんが、夢は、見ている間は現実に出来事が起きているかのようにことが進んでいくのに、目が覚めると全て現実には起きていなかったことになるものです。そして夢に見た出来事を覚えているのは(覚えているなら)自分だけ。透が考えている「誰も知らなくて、自分だけ覚えてる時間」にぴったり合います。
私にとって切実なのは、こうした「誰も知らなくて、自分だけ覚えてる時間」であり、その最たるものとしての夢です。プレイステーションのRPGの「クロノ・クロス」や、新海誠監督の「君の名は。」が私にとって他に代えがたい重要性を持つのは、こうした「誰も知らなくて、自分だけ覚えてる時間」を捉えて描き出してくれているからです。浅倉透もまたそうした時間に関心のある人物だったということが分かり、またシャニマスがこうした時間のことを取り上げてくれており、私は嬉しくなったのでした。
◇
そしてもうひとつ、残っているポイントがあります。それは、覚えているのは透だけではなく、プロデューサーも覚えている、ということです。覚えているのは実は自分1人ではなかった! プロデューサーは言うのです、「俺も覚えてるよ」。
これはすごいことです。このプロデューサーの言葉がどれほどすごいことかということを感じ取ってもらえるでしょうか。「誰も知らなくて、自分だけ覚えてる時間」というのは、いわば眠っている間に見る夢のようなものです。夢は1人で見るものです。そして夢の中で体験したことや目撃したことは、現実世界では起こらなかったことです。そしてプロデューサーは現実世界に存在する(はずの)他者です。ならば、「誰も知らなくて、自分だけ覚えてる時間」をプロデューサーが記憶していることは、ありえません。それはいわば、眠っている間に見た夢の中の人物が、現実世界に現れるようなことです。そんなことは起こりえるはずがありません。ですが、プロデューサは「俺も覚えてるよ」と言うのです。ありえないはずのことが起きている!
「クロノ・クロス」のエンディングでキッドがセルジュを探し続けているのも、「君の名は。」のラストで三葉が瀧と出会ったのも、いわば夢の中の人物が夢を飛び出して現実世界の中に現れるようなものです。だからすごい。プロデューサーが「俺も覚えてるよ」というその言葉は、それほどのスケールのものなのです。
ビルの屋上で透はプロデューサーに「実験」を持ちかけます。まず透はプロデューサーに目をつむるように言います。そしてこう言います、「いくよ、あのシーン。撃たれるから。――――――ばーん」。その言葉とともにプロデューサーの頭の中である映像が生まれます。それは、透が銃で撃たれてビルの屋上から落ちていくところでした。プロデューサーは思わず「透!」と叫びます。そのとき、「でも、巻き戻る」と透が言う。【つづく、】のアニメ―ションは、この「実験」においてプロデューサーの頭の中に浮かんでいた映像であったことが分かります。頭を打ちぬいてビルから落ちる透。しかし時間が巻き戻り、ビルの屋上へと戻ってくる……
この映像の時間、これは透とプロデューサーの想像の中においてだけ起こった時間です。これこそが、「誰も知らなくて、自分だけ覚えてる時間」です。透が銃で撃たれてビルから落ちるなんてことも、そんな時間が巻き戻って透が死んだことがなかったことになるということも、現実には起こっていません。現実の歷史の中にはそれらの出来事は書き込まれていません。ですが、2人の頭の中では、確かにそれらは起こったのでした。この銃撃、落下、巻き戻りの時間は、ドラマの中や、夢などと同じです。この時間を透は「ヘンな時間」と言い換えています。現実の歴史の中には組み込まれない時間です。
そしてもう一つ重要なのは、透だけでなくプロデューサーも覚えている、ということです。夢ならば、それを覚えているのは自分1人です。でも今の「ヘンな時間」は透とプロデューサー2人で共有しました。夢をモデルにして「誰も知らなくて、自分だけ覚えてる時間」を考えるならば、共有するということはありえないことであり、それができたとしたらそれはありえないことが起きたというわけでとんでもないことです。それを、今、2人は「実験」したのでした。この「実験」を受けて、透は次のように言います。
透「あるとしたらさ、もし、ヘンな時間が。巻き戻ろ。一緒に。何回も。」
この言葉でこのコミュは終わります。「ヘンな時間」を共有するということ、「一緒に」「ヘンな時間」を体験する(記憶する)ということが、透にとって重要であるということが、改めてここからうかがえます。
◇
以上を整理すると、次のポイントを取り出すことができます。
1.「誰も知らなくて、自分だけ覚えてる時間」=「ヘンな時間」の存在について考える。
2.ドラマの中のことや想像の中のことを、現実に起こった出来事と同じレベルで捉える。
3.「ヘンな時間」をプロデューサーと共有することを重視する。
これらのポイントを抑えることによって、WING編におけるジャングルジムについてのエピソードについて改めて考え直せる部分があるのではないか、という気がしています。
◆
◇
WINGで優勝すると、透とプロデューサーは昔一度会ったことがあるということが透の口から語られます。優勝後のコミュでの回想によれば、それは次のようなものでした。プロデューサー青年はバス停にいます。幼い透がそこに居合わせ、バスがまだ来ないので歩いた方が早いことをプロデューサー青年に伝えますが、バスを待つことにします。2人がバスを待っている間、透がちらちらと近くの公園?のジャングルジムの方を見ているのにプロデューサー青年が気づきます。行ってきていいと言いますが、透は行こうとしません。そこでプロデューサー青年は、「きっと行きたくなるよ」「俺が、行くからさ!」と言って自分からジャングルジムを上りに行ってしまうのでした。
回想では透は「少女」となっていますが、プロデューサーの記憶では相手は「男の子」となっていました。なのでこの子供が「少女」であることを知っているのは透だけで、そのことからこの回想はプロデューサーのものではなく、透のものであることが分かります。これは透の記憶です。
【つづく、】「リバ ス」を読んでから気になっていることが一つあります。それは、このジャングルジムの記憶は、透にとってずっと現実の記憶だったのだろうか?ということです。私が何を考えているのかを先に言うと、このジャングルジムの記憶は、透にとっては夢のような出来事、つまり「ヘンな時間」だったのではないか?ということです。だからこそ、プロデューサーとの出会いは透にとって重要だったのではないか……
このことを裏づけてくれるはっきりとした証拠は残念ながらなく、これは私の踏み込んだ読み方でしかない、というのは先に言っておくべきことかもしれません。ですが、このような読みを排除するような根拠もないような気がしています。順番に見ていきましょう。
・「あって思った」
プロデューサーはバスに乗り遅れ、そこで少女と出会います。駅に行くなら歩いた方が早い、と少女は教えてくれます。プロデューサーはその少女をスカウトしようとしますが、少女は迷惑そうにして去ろうとします。で、プロデューサーは気を使って、自分の方が駅へ歩くことにすると言います。そこで言ったのが、「俺が、行くからさ!」。
ジャングルジムの記憶の中でプロデューサー青年が言った言葉と全く同じであることが、WING優勝後のコミュから振り返ると分かります。この言葉が、透のジャングルジムの記憶を喚起します。そこで「あって思った」ようです。
ではここで透は何を「あって思った」のか。この人物(プロデューサー)はあの子どもの頃に出会った、ジャングルジムを一緒に上った人だということを思ったのだということだと考えられます。
・「人生」
このコミュの冒頭で、透が子供の頃から繰り返し見る夢の話が語られています。
「のぼってものぼってもてっぺんに着かない、へんなジャングルジムの夢。のぼる前は、たいした大きさに見えなかったけど、ひとつ足をかけると、もう上が見えない。それでこう思う、ああ、長いなぁ……」
この夢は、透にとっての代わり映えのしない人生のメタファーであるということはよく語られていますし、実際そのようにシナリオでは用いられていると思われます。
ですが、ここではちょっと違う読みをしてみたいと思います。それは、これを文字通り夢として読むということです。そこでポイントになるのは、この夢は小さい頃から見ている夢だということです。
・「あれって思った」
オーディションの帰りにバス停でバスを待っています。そこは透とプロデューサーが出会ったバス停のようです。そこでプロデューサーは昔の記憶を思い出して語ります。それはジャングルジムに上ったという記憶でしたが、プロデューサーの中ではその相手は「男の子」ということになっていました。コミュタイトルの「あれって思った」の「あれっ」というのは、ここでプロデューサーは相手を「男の子」だと思っているということ、すなわちそれを自分=透だと思っていないということが分かったということだと考えられます。このことから翻って、透はずっとプロデューサーが自分を過去に出会った人物であると認識していると思い込んでいたということが分かります。
・「ていうか、思い込んでた」
コミュは「へんなジャングルジム」についてのモノローグから始まります。
「のぼってものぼっても、てっぺんに着かない。へんなジャングルジム。降りれないし、終わらないし、長いなーって。……でも気付いたんだ。『向こう側に誰かいる』って。誰かがいて、一緒にのぼってくれてる。言葉は交わさないけど――」
このモノローグは、夢であるとか、具体的な何かについての語りであるという感じではありません。映画における主人公のナレーションのような感じで、透自身の人生を俯瞰で見た語りであるかのようです。ですのでここで語られる「へんなジャングルジム」は、透の人生そのものの象徴であると考えるのが最も自然であるように思います。
人生の象徴であるとすると、「向こう側に誰かいる」というのは、WING優勝後のコミュから振り返って考えてみれば、幼い透にジャングルジムのてっぺんへと連れて行ってくれたプロデューサー青年の存在であり、その青年と再び出会うことができたという運命めいた何かであるという風に言えるかもしれません。すでに指摘があるように、透は変わり映えのしない日常世界から抜け出したいという願望があります。ジャングルジムのてっぺんに連れて行ってくれた人物というのは、そうした日常生活から脱出させてくれる存在であると考えられ、その点で透にとって重要な人物だということになると考えられます。
・「ちゃんとやるから」
このコミュで再び、プロデューサーがジャングルジムの記憶について語ります。プロデューサーによれば、一緒にジャングルジムにのぼった「男の子」は、「夢の中でもよくのぼる」「でも『てっぺんに着く前に目が覚める』」と語っていたと言います。「人生」のコミュのモノローグでも、「へんなジャングルジム」は小さい頃からよく見る夢であるということが語られていました。
◇
WING優勝後のコミュから振り返る形で、ジャングルジムの記憶について順番に辿ってみました。ジャングルジムは、①透の代わり映えしない日常世界の象徴として読む、②てっぺんまで一緒にのぼったのは現実の過去の記憶として読む、ということが基本であると思います。私もこの読みが正しい読みだと思います。
が、ちょっとここから違う読みをしてみたい…… 書きながら自分でもちょっと強引な感じがしてきていますが、その別の読み方の可能性について考えてみます。
すでに上で書きましたが、私がここで考えているのは、プロデューサー青年と一緒にジャングルジムに上った記憶は、透にとっては他のジャングルジムの夢の一部のようなものだったのではないか、ということです。夢の一部とまでは言えないとしても、現実の出来事の記憶としてはっきりと記憶されていたものではなかったのではないか、と考えたくなります。
のぼってものぼってもてっぺんにたどり着けない「へんなジャングルジム」の夢は、小さい頃から繰り返し見ており、現在でも見ているように思われます。というのも、「人生」のコミュの冒頭でこの夢についてモノローグで語られますが、そのモノローグの終わりに目覚まし時計の音が鳴って、透が目を覚ましていて、ここで見ていた夢こそがその「へんなジャングルジム」の夢だったのではないか、と思われるのです。
現在まで「へんなジャングルジム」の夢を見続けているのだとしたら、過去にプロデューサーと一緒にジャングルジムのてっぺんまで上ったという事実は、「へんなジャングルジム」の夢を打ち消すには至らなかった、と考えられます。このことから、プロデューサーと一緒にジャングルジムのてっぺんまでのぼったということは、はっきりと現実の出来事として記憶されていないのではないか、もっと言うとジャングルジムに関する夢の一部のようなものとなっていたのではないか、と考えたくなります。
そうは言っても、ジャングルジムのてっぺんまで一緒に上ったという記憶は、スカウトのときに「あって思った」ということとスカウトを受けたというところから、完全に忘れてしまっていたわけではないし、透にとって全然無意味な記憶でもないということがうかがえます。むしろ透にとってそれはとても重要な記憶だった。
しかしその出来事と記憶は、「へんなジャングルジム」の夢を打ち消すにはいたらなかったわけです。てっぺんまで一緒に上ったということよりも、「へんなジャングルジム」の方に、透にとってのリアリティがあるのではないか、と考えたくなります。だからジャングルジムのてっぺんまで一緒にのぼったという記憶は、現実に起こった出来事の記憶ではなく、しかし全く起こらなかったことでもないということになります。それゆえこの記憶は、透にとって「ヘンな時間」の記憶だったのではないか……
このように考えるとすると、一緒にジャングルジムのてっぺんまでのぼったプロデューサーとの再会は、単に昔出会った人物との再会というだけでなく、現実にあったかどうか分からない、もしかしたら夢の中の人物だったかもしれないような人物との再会というニュアンスを帯びてきます。このようなニュアンスを帯びたものとしてプロデューサーとの再会を考えてみると、この「再会」は、「リバ ス」において見た「ヘンな時間」の共有へと近づいていきます。
夢を誰かと一緒に見ることはできません。夢の中で出会った人物と、夢から覚めて再会することはできません。夢は「誰も知らなくて、自分だけ覚えてる時間」だからです。ですが、その「誰も知らなくて、自分だけ覚えてる時間」の中の人物が目の前に現れた。プロデューサーとの再会は、このような意味のあるものだったのではないでしょうか。
透にとってプロデューサーとの再会が重要だったのは、てっぺんまで連れて行ってくれた人との再会や、過去一度会ったことのある人の再会というだけでなく、現実にあったかどうか分からないような、「誰も知らなくて、自分だけ覚えてる時間」の中の人物との再会というニュアンスもあったのではないでしょうか。透が「あって思った」のは、そういうことも含まれていたのではないでしょうか。やや強引であると自分でも思いますが、このように考えたくなります。
◇
「誰も知らなくて、自分だけ覚えてる時間」=「ヘンな時間」がなぜ重要なのか。フリーハンドになってしまいますが、このことについて少し考えてみます。
おそらく透は夢から覚めて現実へと脱出することを願っているように見えます。しかしその現実は、われわれが一般に考えているような、眠りから覚めたこの日常世界のことではないようです。透にとって日常世界は、「へんなジャングルジム」の夢で象徴されています。透はジャングルジムのてっぺんに至ることを願っており、それはすなわち眠りから目覚めたこの日常世界を脱出するということを願っているということです。だから夢から覚めて現実へと脱出するということは、眠りから覚めてこの普通の日常世界へと至るということではない。
では透が求める「現実」というのはどこにあるのか。それは、この日常世界ではない、夢の向こう側へと突き抜けることではないか、という気がします。図で示すと、次のようになります。
日常世界 → 日常世界の中に位置づけられない場所/ヘンな時間 → 現実
普通考えられるのは、日常世界と、日常世界の中に位置づけられない場所/ヘンな時間との間の往還です。眠りの中で夢を見ても、眠っている人物が存在しているのは日常世界の中においてであり、その夢から覚めるのは日常世界に向かってです。でも透の場合は、その夢から日常世界に戻ってくることではなく、夢から日常世界とは反対方向(?)へと突き抜けていくことを願っているのではないか、と考えたくなります。その向こう側にこそ、「現実」があるのではないか。
だからこそ、ドラマの中の出来事や想像の中のことを、現実に起こったことと同じレベルで捉えられるのではないかと思います。より正確には、ドラマの中の出来事や想像の中のことを現実として考えているというよりは、現実とされる世界=日常世界の方を、ドラマの中の出来事や想像の中のことと同じレベルで捉えている、と言った方がいいかもしれません。「現実」は現実とされる日常世界ではないように思えるのです。
「海へ出るつもりじゃなかったし」では、「ほんとの世界」は、大みそかとお正月の間のどこにも属していない瞬間、「いつでもない時間」から飛べる場所になっています。また【ハウ・アー・UFO】で空想されるUFOが侵攻してくるという世界も、UFOという現実には存在が確定していないようなものを経由しています。そしてジャングルジムのてっぺんにたどり着くというのも、「へんなジャングルジム」の夢を経由しています。「へんなジャングルジム」の夢は、てっぺんに辿り着く前に目が覚めてしまいます。ジャングルジムのてっぺんは、夢の中にあるのです。
このように、「ヘンな時間」を経由することによって、現実へとたどり着く道が開けてくるように思えるのです。だからこそ、「ヘンな時間」が透にとって重要なのではないか。
透は、プロデューサーはその「ヘンな時間」を経由して「現実」へと連れて行ってくれる重要人物だと考えているのではないか、という気がします。「ヘンな時間」を経由して「現実」へと脱出するということが重要なのであり、それを可能にしてくれる存在としてプロデューサーが期待されているのではないか、という見方です。
それはまずは、プロデューサーがジャングルジムのてっぺんまで一緒にのぼってくれた人物だからです。そして、そうした人物が目の前に存在するということが、ジャングルジムのてっぺんまで上った記憶=「ヘンな時間」の実在を示すことでもあるからです。プロデューサーかつてジャングルジムのてっぺんまで一緒に上ってくれた人であり、そして「ヘンな時間」から現れ出た人なのです。
◆
以上、【つづく、】「リバ ス」の私に刺さったところから、WING編で語られるジャングルジムの記憶とプロデューサーとの再会について考えてみました。「リバ ス」については、ある程度は読めている感じがしますが、ジャングルジムの記憶に関しては強引さが拭えていない気がします。とはいえ、このように考えると私個人的にはとてもしっくりくるというか、自分なりの浅倉透像ができたという感じがしています。
透のプロデュースコミュを見ていると、プロデューサーを相手に恋をしているかのような、そんな印象を抱きます。この印象が正しいのか間違っているのかは、私には分かりません。ですが、プロデューサー相手への思いだけで全てではない、という風に今回思うようになりました。というのは、プロデューサーに出会うよりも前から透は「へんなジャングルジム」の夢を見ていたからです。つまり、日常世界から「現実」へと脱出したいという願いの方が、プロデューサーとの出会いと再会、そしてプロデューサーへの思いに対して先立っているという風に思えてくるということです。このように考えると、プロデュースコミュとサポートコミュを、共通の土台で理解できるようになる気がします。
◆
この文章を書くにあたって、夏目草さんとkokonenyaさんの浅倉透についての次の文章を参照させていただいています。特に浅倉透が脱出を願っているという発想はもともと私にはなく、お二方の文章から学びました。
夏目草「浅倉透の時間意識」
https://note.com/neffle/n/n32087b7019fe
kokonenya「浅倉透の世界」
https://koko-nenya.hatenablog.com/entry/2021/06/15/183355
また、透の言う「誰も知らなくて、自分だけ覚えてる時間」=「ヘンな時間」のようなものについて、夢という観点から私がどういう関心を抱いていたのかについてもしご興味がある場合は、次の私の文章を参照してください。
「消えてしまったものと再会する奇蹟――『君の名は。」感想文と少しの考察」
https://hibikihare.hatenablog.com/entry/2016/09/26/015806
【我・思・君・思】幽谷霧子について(2)――霧子とデカルトのズレ
https://fusetter.com/tw/qCEcH
*Privatterの投稿は削除済み