どこにもつながっていないものの輝き――「海へ出るつもりじゃなかったし」について
すごく良いお話でした。すごく好きです。
特にこれといってまとまった考えがあるわけじゃないんですが、思いついた感想などを記録しておきます。
・大晦日の道
大晦日の道は特別だという話をしています。大晦日から年越しにかけての瞬間は、終わる時であり、始まる時でもある。だからその瞬間は特別な瞬間で、そうした時へ向かう大晦日の道は「どこにもつながっていない道」なんだ、と。で、「0時0分00000秒」にジャンプしようということになります。飛んだらどうなるのか。ただ地球上にいなかった的なよくある話だと思っていたら、「0時0分00000秒きっかりに飛んだら、きっとすべては消えて、ほんとの世界になる」とか透が(頭の中で)言う。
ここは超ゾクゾクしたところでした。「どこにもつながっていない道」というものを取り出す感性のすばらしさといったら……!! しかも、え、何、透あなたは「ほんとの世界」に生きていないの……? あなたは一体……
大晦日に集まったところで、プロデューサーへの仕事の返信を書くという話になります。そこで仕事のオファーを断ることになるんですが、その文面を考える4人はどういう書き方にすればいいのか悩みます。文章が上から目線になってしまうんじゃないかとか、プロデューサーに対する上下関係とか、そういうことを考えます。そこで雛菜が言うのは、「文章打つだけなのに上とか下とか大変だね~」と。
ここで腑に落ちました。ノクチルのこの4人という一塊は、どこにも繋がっていないんだ、と。上とか下とかは、人との関係の中で現れてくるもの。ノクチルの4人の中には(たぶん)それはない。ノクチル自体も、たぶんその外側との間で「上とか下とか」いった関係を作っていない(まだ作っていない?)。大晦日の道が「どこにもつながっていない」のは、それはまさにノクチルのことなんだと……
・オウム
今回のイベントシナリオに登場する最大の名脇役はオウムではないかと思います。最初登場したときは何とおもったんですけど、このオウム、「オウム返し」という言葉をただそのまま繰り返すということを浮き彫りにする役割を果してくれます。言葉をただそのまま繰り返す、というのは浅倉透の言語感覚の特徴の一つです。正確に言えば、隠喩的な意味をすっとばして言葉のその文字通りさを実行してしまう。春に初登場したときの「虹をかける」ために霧吹きをかけ始めたのを思い出すところです。
オウムの存在は透のこうした言語感覚の特徴を示すということを雛菜が暗示しています。「ア~」とか「ン~」とか言っているオウムについて「透先輩じゃん」と言ってくれているのです。
で、このあとおそらくイベントシナリオのタイトルの由来になった『海へ出るつもりじゃなかった』の本を示しながら、アイドルグループのノクチルはその登場人物に似ているという話を円香と小糸がしています。そこで円香が言っているのは「アイドルごっこ」と。
「ごっこ」というのは、何かのまねごとで、本当のことではないお遊びであるということです。だからノクチルは、アイドルのまねごとをお遊びでやっているようなものだ、ということがここで示唆されています。円香はこの「アイドルごっこ」ということをネガティブなかたちで言っているのですが、実はこれがネガティブなものではないものとして転じていくところがノクチルあるいは浅倉透という存在のポイントなのではないか、という気がしています。
・アイドルごっこ
いま書いていて気がついたんですが、「ほんとの世界になる」という透の言葉は、たぶんこの「アイドルごっこ」が本当へと転じていくということに繋がっているのではないかという気がしてきました。
ノクチル初登場のエピソードを改めて思い出します。あそこでは、283プロの先輩たちの写真を4人が見るところから始まります。で、そこで先輩たちみたいにできるかなという問いが立てられます。それに対して、アイドルは見ている人の心に虹をかけるんだ、とプロデューサーが言います。これは隠喩なんですが、透はその隠喩をすっ飛ばして、文字通り虹をかけることができるかどうか、霧吹きを使って試し始めるわけです。(もしよければ次の文章もご参照ください。)
「浅倉透はなぜ霧吹きをかけたのか――ノクチルのEXコミュを読む」
https://fusetter.com/tw/823cA9vn#all
で、この霧吹きをかけて虹をかけるという行為自体が、そもそも写真に写っていた283プロの先輩たちがしていたことで、アイドルになるということをその意味をすっ飛ばして行為自体をそのまま真似て実行に移してしまう、というところがポイントになってくるわけです。
円香が言った「アイドルごっこ」というのはつまりこうしたアイドルであるという行為を、アイドルであるとはどういうことかとか、アイドルとしてどうしていきたいかといった意味の水準をすっ飛ばして実行に移すノクチルの特徴を捉えた言葉であるわけです。
「ごっこ」という言葉のポイントは、そこには本当ではないというニュアンスが込められているところではないかと思います。だから円香が言ったネガティブな意味としての「アイドルごっこ」という言葉は、アイドルに対して真剣ではない、ただのまねごと、ただのお遊び、という意味になります。
これの「アイドルごっこ」の状態に対して、どう向き合うか。おそらく普通に考えられるのは、「もっと真剣にやりなさい」とか「ちゃんと真面目にやりなさい」とかそういう風にお説教することです。が、おそらくノクチルについてはそうしないし、4人もそうはならないと思います。そうはならない(と私は思います)というところが超超超超ポイントです。
つまり、「アイドルごっこ」のまま、そのまま本物になる(なってしまえる)というところが、ノクチルが進むところ、あるいはノクチルのポテンシャルではないかと思うからです。それは「ごっこをやめて真剣になる」とかそういうのとは違います。「ごっこ」のまま、「ごっこ」をしたまま、「ごっこ」をする行為者自体が本物になってしまうというような、そういう転換です。それは初登場のあの「虹をかける」エピソードの頃から一貫しているのではないかと思うのです。海だと思い込んでいた所が実は湖だった。けれど、たとえそうだとしても、ノクチルは海を知っているわけです。
ノクチルはよく「ロック」であるとか、「アイドルをナメてる」という風に言われますが、そんな風に言われるゆえんはこういうところにあるのではないか、という気がしています。アイドルとしてどうあるべきかとか、アイドルとしてどうありたいかということを真剣に考えることはとてもとても重要なことです。
でもノクチルはそういうのをすっ飛ばして、アイドル行為的なものを真似て実行してしまう。ノクチルのそうしたアイドル行為の実行は、「ごっこ」に対する本物の(そんなものがあるとして)アイドルが持つ真剣さや切実さを脱臼させることになるわけです。だからおそらく「ロック」とか「ナメてる」という風に言われるのではないか、と……
私個人的には、真剣さへと向かったりすることなく、「ごっこ」のまま、そのままで輝き始めるという方向へ行ってほしい、と思っています。
・どこにもつながっていない
「天塵」でも、透たちがアイドルをやる理由について明確になることはありませんでした。「海へ出るつもりじゃなかったし」ではプロデューサーが善村記者に、ノクチルの4人がアイドルをやることの理由がはっきりしないことについて、「あの子たち見てると、そういうこともどうでもいいように思える瞬間があって」と言っています。で、その後の善村記者の応答が最高に素晴らしくて、「いっぱい生きろってこと、伝えたいんですね」と。
ここのプロデューサーと善村記者の会話は、「ストーリー・ストーリー」の根幹にもつながってくるような、超超超重要なポイントだと思います。シャニマスがときどき示してくれる、存在論的な思想がここに感じられるわけです。何者であるか、何者であるべきかという意味の水準よりも以前に、ただただここに存在しているんだと。サルトルの有名な「実存は本質に先立つ」という言葉を思い出します。その存在する!ということそのもののすごさへのシャニマスの感性をこういうところに私は垣間見ます。(またもしよければ次の文章もご参照ください。)
「存在することの真理――「ストーリー・ストーリー」の霧子を読む」
https://fusetter.com/tw/myBGz5Zl#all
こういう風にノクチルを捉えると、「どこにもつながっていない」というノクチルのあり方は、そのものまさにただ存在しているというその存在論の水準の輝きのようなものを見せてくれるように思えてきます。それをノクチルが出演したテレビ番組から感じ取れます。
ノクチルが参加したあのアイドルの運動会の番組は、ある特定のアイドルグループを特別に取り上げた番組で、それ以外のアイドルは「賑やかし」なのでした。だからほかのアイドルグループが勝っても負けても、彼女たちが特別長く映されるわけではない。
その番組に出演したノクチルは、その番組のあるいはアイドルの論理を二重三重にすり抜けていきます。まずは、参加した騎馬戦に優勝しようとしたこと。ノクチルが優勝しても、カメラが追うのは主役のアイドルグループです。そして他のアイドルグループはおそらくそのことを知っているはずです。そうであるとすると、他のアイドルグループは、勝つことよりもカメラに映るために目立つことを目指すはずです。だから優勝を目指すというのは番組とアイドルの論理をすり抜けます。
第二は控え室です。控え室にはいくつもアイドルグループがいましたが、ノクチル以外のみんなは知り合い同士であるようでした。ノクチルだけ知り合いがいません。そして中堅のアイドルグループが控え室に来たときです。ほかのアイドルグループはみなかしこまって挨拶しましたが、ノクチルの態度は普通でした。そしてノクチルは場所を詰めるように注意されてしまいます。「上とか下とか」といった関係がノクチルにはないということが分かります。
そして第三に、優勝するためにカメラを避けることを選んでいます。アイドルですし、地上波放送のテレビ番組ですから、みんなカメラにたくさん映りたいはずです。だからカメラの映すところ、つまり主役のアイドルグループのもとにアイドルたちは集まっていくはずです。ノクチルはそこを避ける。
そして第三に、最後の三組に残って、派手にジャンプしたのにバラバラになってしまったという笑えるオチがあるのに、まったく放送に使用されていない!というところです。
このように、ノクチルはどこにもつながっていないのです。アイドル同士のつながりも、テレビ番組の論理にも、そして放送自体にも。
アイドルなのだから放送されなければ意味がない、と思ってしまうところですが、ノクチルに関してはそうではない、という気がしています。われわれはゲーム中のプロデューサーを通して、あるいは神の視線のようにして、カメラに映っていないところノクチルを見ることができますし、そこでのノクチルの輝きを知っています。
アイドルとしての論理や、テレビ番組の論理内部にいれば、アイドルとしてこれこれこうでなければならないとか、テレビ番組的にはこれこれこうしなければいけないといった意味の水準に絡めとられます。それは何かと繋がった状態ですが、意味の方に絡めとられて存在を失ってしまうおそれがあります。ノクチルはそうではなく、「どこにもつながっていない」。だから存在そのものの輝きを放ち得る。
ただしかし、「どこにもつながっていない」ということはカメラに映らないということです。存在論を強く推し進めると、意味も認識も追い抜いてしまうので、誰からも認識されなくなってしまうわけです。
「天塵」のラストでは、そうしたノクチルの輝きをどうすれば伝えられるのか、とプロデューサーは考えていましたが、今はまだそういう段階なのではないか、という風に思えてきます。
ノクチルはこのままずっと、存在論の水準で、つまりカメラの外側で、存在そのものとしての輝きを放ち続けるのでしょうか。それはそれで魅力的なような気もしますが、私個人的には、ノクチルが放つこうした存在そのものの輝きに、カメラの方が向いてくるという風になることの方が、よりノクチルらしいアイドルのあり方ではないかという気がしています。作中のプロデューサーは、そんな風にノクチルから目を離すことができなくなった者の一人、というわけです。