「Naked Sleep」
大晦日の夜の前に一度だけベッドを共にするイブルイSS
(※健全ではないですがいやらしくもないです)
オレンジ色の光にぼんやりと輪郭を映す二本の影は、はるか遠くの記憶にある夕暮れの木立を思い起こさせた。
もうすっかり忘れかけていたそれは、売り飛ばされる前によく本を読んでいた公園のはずれの景色だ。遊具が少ないその公園は小さな子どもは寄り付かず、比較的静かで過ごしやすかった。
古ぼけた木製のベンチに座って、暗くなるまで図書館で借りた図鑑や児童書なんかを読んでいたはずだ。本を読むのは昔から好きだった。現実逃避のひとつの手段として。
アルバムに入れ損ねたまま忘れ去られた一枚の写真を、「忘れるなよ」とそっと差し出されたような、こそばゆい気持ちになる。
自分の記憶からもほぼ抹消されていたようなことをこうして思い出すのは、薄暗く狭苦しいこの世界を身ひとつで生きてきたいままでにはなかったことだった。
隣で健やかな寝息を立てている、一匹の牡鹿に出会うまでは。
こちらから手を伸ばす気など、はじめからなかった。
深い琥珀色をした両目で見つめられるときの心地も、さりげない会話の端々に気を許した響きが聞こえたときの気持ちも、そんなたぐいの感情がいくつも積み重なっていく日々への思いも、伝える気などありはしなかった。
願いもしないし祈りもしないのは、それらに縋(すが)って生きてこなかったせいかもしれない。
「ただここにいて、日々が続いていけばいい」とだけ望んでいる自分に気付いたときにはもう、根付いてしまった感情を無視するには手遅れだった。
そうならないよう用心することすら不可能だった。自分の感情の種類を慎重に見極めようとするもまったく意味をなさず、三十余年生きてきてはじめて抱くこの情動をどう対処したらいいものか、見当もつかないのだ。
持ち合わせの言葉で表現しようとすれば、途端に嘘くさいものになってしまう。しかし陳腐で俗っぽい響きは、自分にとってはいっそふさわしいのかもしれない。
たった一匹の相手に対する感情ひとつ持て余しているようなこの身には。
丸く曲線に整えた指先で恐るおそる触れた小さな頬は、この世の何よりも特別なぬくもりだった。「壊れ物じゃないんだから、きちんとさわれよ」という言葉とともに上から重ねられた手のひらの温度に、なぜだか涙が出そうになった。
線引きをしていたはずだった。
万に一つもあり得るはずのない彼の手が、こちらに差し伸ばされたことが信じられず確かめるために掴んでしまったと、誰に向けるでもなく言い訳がましい考えが頭を駆けめぐる。
いい歳をしてそんな腑抜けた反応をする壮年のライオンを目の前にして、すべて承知の上だと微笑みながら口づけてくるのだからたまらない。大人のこうしたずるさまでも、彼は受け入れるつもりでいる。きっと一生かなわないのだ。敗者はおとなしく──それらしく身勝手に──舌を差し出すことしかできない。
驚くほどなめらかな被毛は、手にしたことのあるあらゆる高級品の記憶を色褪せたものにさせた。夢のよう、と例えるにはあまりに刺激的でもあった。どこもかしこも、触れてみても舐めてみても戸惑うくらいに素晴らしい心地にさせる。
ためらいから動きがぎこちなくなるたびに、何度も腕を引かれた。数え切れないほど振りかざしてきた鋭い凶器の気配など、微塵も感じさせたくはなかった。
こんな図体の肉食獣に組み敷かれて、緊張しているのは彼のほうだろうに、ふたつの瞳はいつもと変わらない色合いでとろりと熱をはらんでいた。飴玉のようなそれを口に入れたら甘すぎて火傷をしそうだな、とバカな考えが浮かんだ。
「じっと見過ぎだ」とたしなめるように耳を引っ張られ、すかさず謝ると「恥ずかしいだろ」と口ごもりながら返事をされる。視線の引き剥がしかたをすっかり忘れてしまった自分の無我夢中さにあきれてしまう。
衣服を介さずありのままの姿で向き合うことにも、興奮から無意識のうちに漏れ出てしまう喉の唸りにも、腕の中の痩身は強張ることがなかった。
彼という存在に怖がられないということが、こんなにも満たされた気持ちを作り出す。慣れていない自分には“幸福感”というものは毒と同じだな、などと思う。まったく耐性がない体のすみずみまで行き渡る容赦のない充足感に、胸が詰まりそうになる。
ありあまる幸せにひとは泣きたくなるものなのだと、その瞬間にはじめて理解ができたのだった。
見つめていた口元が小さく動いて、また閉じられる。
何か夢を見ているのだろう。深い呼吸をくり返す様子から、起きる気配はまだ感じられない。
風邪を引かないよう柔らかい毛布をかけられて眠る姿は、どこまでも無防備だった。意志の強さがあらわれる瞳はどちらも目蓋の奥に隠され、寝顔は年齢より幼く、ひどく無垢なものに見える。
ベッドの上で情事のあとこんなにも穏やかで、離れがたい気持ちになるものなのか。あどけない寝顔をいつまでも見ておきたかった。自分の視神経の奥深くまで、消えないようにこのままの視界を閉じ込めておきたい。むしろ感覚のすべてに、この時間を余すことなく焼き付けておきたいくらいだった。
こんなことは知らなかった。知らないことだらけなのだと、彼に出会ってから思い知らされてばかりいる。
ここは紛れもなく裏市の中で、組織の塒(ねぐら)の一室で、それなのにどこまでも静かで、穏やかで、平和だった。自分自身も無防備な状態になっているからそう感じられるのだと気付く。浮ついているのとも違う、ただ落ち着いていて、何も過不足がないと感じる。
暗く湿った空気の中を一匹で歩いている。
街灯はなく、ここがどこなのかもわからない。感覚的に夢だなと察知しながら、先へと続いている舗装された道へ足を進める。何かが焼ける匂いや正体の知れないものが饐(す)えた嫌な匂いが立ち込めてくる。引き返したいのに体が言うことを聞かない。──そうだろう、ここから離れて一体どこへ行けば?
そのとき、はっきりとした声で名前を呼ばれた。
無理やり体ごと振り向くと、よく見知った姿が真後ろに立っていた。角のある小さな頭の下で、細い両腕に目いっぱいに何かを抱えている。果物にも似た色とりどりの何かの欠片(かけら)のようで、尖っているものもあれば球体に近いものもあったが、いずれも形がいびつだった。ここには一片の光も差し込んでこないのに、ひとつひとつがきらめくように輝きを放っている。
「綺麗ですね、それは何かの宝石ですか?」と聞くと、「自分で落としていったのも忘れたのか?」と笑われる。そんな覚えはなかったし、そんなものを持っていられるはずもなかった。
「全部、お前のものだよ」と真っ直ぐな声で言われて、「ああ、そうか」とごく自然に思えてくる。
欠片を抱えたままの彼を丸ごと抱きしめると、積み上げられたそれらは音もなく消え、自由になった腕が背中に回された。
牡鹿は満足そうに、本当に綺麗な笑みでこちらを見上げてくる。その顔を見て、消えていった欠片が体の中できらめく音が聞こえてくるような気がした。
ふと、いつの間にか閉じられていた目蓋を持ち上げる。
傍らから聞こえる規則的な寝息と近くにある体温に、うつらうつらしているうちに眠ってしまっていたようだった。
隣で眠り続けている頬を手の甲でそっとひと撫でし、浅い眠りの中で見た夢のおぼろげな内容を反芻する。
無用なものだと捨て去って、いまさら取り戻したがらくたのような記憶や感情が輝いたものに思えるのは、彼がここにいてくれるからにほかならない。彼がいなくなれば、あっという間にまた一片の光りも宿さない無駄なものに成り果てるだろう。けれど、そうなることが惜しいわけではない。
視線の先の細い肩が身じろぎをして、ずれ落ちた毛布から赤茶の被毛があらわれる。音を立てないよう注意しながらかけ直すと、深い寝息がひとつ聞こえた。
これきりにすると言ったら、彼はきっと怒るだろう。一度だけにする約束などしていないのだから当然だ。そんな約束を提案したところで了承してもらえるとも思えない。
いくつか断るに足る言い訳を用意しておかねばと考える頭の片隅で、もう二度と機会が訪れないことも十分あり得るのだと、そんな予感めいたものが浮かぶ。ネコ科の勘というものなのか、それよりもたんに思考の逃げ場が欲しいだけなのかもしれない。どちらにしろ結論は変わらない。
また今夜と同じように、こんなにも無防備な夜を過ごすことができないのは、ほんの少し残念ではあった。ありふれたランプに照らされたどこにでもあるベッドの上が、穏やかな寝息ひとつでこの世界でここにしかない安寧の居場所のようにさえ思える。
それでも、思いが強まれば強まるだけ決意は固くなるだけだった。いつの日か失うときが訪れる恐ろしさと同じだけ、いざというときに彼自身を手放せなくなってしまうことが、そうなってしまう自分が恐ろしい。
力任せに引き留めて傷付ける血塗れの悪夢は死んでも見たくない。手の離しかたを覚えていられるうちに手を離すべきだ。繰り返し繰り返し、言い聞かせるようにゆっくりと目を伏せる。
せめて、と願おうとして自分が正しい祈りの捧げかたなど知らないことを思い出す。
彼のために祈ることすら満足にできない。ただ大きいだけの両手も脅威になるほどの力も、無様なくらいに無力だった。それでも祈らずにいられなかった。
願わくば、──彼の眠りが今夜のように、誰にも邪魔されることなく、いつまでも穏やかなものであり続けますように。ここからは見えない夜空の片隅にある星々にまで届くよう、心の底からそう祈った。
end.