誓いのフィナーレ考察(〜最終楽章前編まで全作読了前提)
誓いのフィナーレにおける個人的に最大の原作改変箇所について
関西大会における一連の流れが、誓いのフィナーレと原作ではもはや全くの別物になっているということ
ここでは、誓いのフィナーレの関西大会における原作改変箇所を時系列順に整理し、1つずつ分析していきたいと思います。
改変理由が不明な箇所もいくつかありますが、そこはご理解ください。
1. 北宇治会場到着〜演奏前
・既に午前の部で演奏を終えていた立華が銀賞だったことが割愛されている
→立華は北宇治にとって先を行く存在であることを強調するため? サンフェスの立華、チャリ木梓とも関係していると思われる
・月永求が本番前に顔が青ざめるほど緊張している描写、他校(龍聖)の生徒と会うのが嫌だという描写が割愛されている
→原作ではいずれも久美子が緑輝にそう伝えられているが、誓いのフィナーレではどちらに関しても緑輝は一切口にしていない
・龍聖の部員と源ちゃん先生が北宇治の近くを通る場面が演奏前になっている
→原作では演奏後に樋口が求に対して話しかけに来ている。それに対して求がかなり強い拒絶反応を示しているが、この一連の流れは全て割愛されている。
・源ちゃん先生こと月永源一郎の名前が源三郎に変わっている
→理由は不明。別のオタクが参加した舞台挨拶では緑輝役の豊田萌絵さんが源三郎のことを月永求の「父」だと紹介していたらしいが、仮にこれが言い間違いではなく事実なのだとすると、原作では「祖父」だったのでここも改変されているということになる。ただ誓いのフィナーレでの源三郎は原作での久美子の源一郎に対する印象とかなり似通っており、自分の中では豊田萌絵さんの発言は単なる言い間違いなのではないかと思っている。しかし、源一郎という名前が源三郎に変わっていることは事実であり、こちらの改変理由に関しては皆目見当がついていない。ちなみに、誓いのフィナーレにおいて「月永源三郎」という名前を聞いたのは久美子と緑輝だけと思われる。
・さつきが美玲に2本の黒いヘアピンを差し出す描写が割愛されている
→さつきと美玲の距離が入部当初よりもかなり近くなっていることを示していると思われる。割愛理由は不明。
・優子が香織に対して言ったセリフが「今日も素敵すぎぃ!」から「マジ天使(エンジェル)!」になっている
→アニメ「響け! ユーフォニアム」の続編であることを強調するためか
・あすかと香織が左手の小指にはめているお揃いのゴールドのピンキーリングについての説明が割愛されている。
→これに関しては一切触れていない。アニメしか追っていない人達は相当注意を払っていなければほぼ確実に気付かないだろう。そもそも『ホントの話』に収録されている『だけど、あのとき』を読んでいなければ2人の関係性すらはっきりとは掴めないと思う。
・久美子が絵葉書の裏にあすかの字で書かれた見覚えのない住所を確認する描写が割愛されている
→原作を読んでいなければあの絵葉書の裏に書いてあることまでは推測不可能だろう。ピンキーリングと同様に『だけど、あのとき』の内容が関わってくる。
・夢が眼鏡をしていないことに関する説明が無くなっている
→物語全体に関わる話なので仕方ない。京アニさんは小日向夢の物語を映画化してください。
・本番直前の演説で優子が夏紀に「ありがとう」と言っている
→原作では「副部長が、私を支えてくれました」という台詞だったが改変されている。明確な「これまでの感謝を伝える言葉」にすることで「ここで今年の北宇治は終わる」という「フィナーレ」的な意味合いを強調したと考えられる。
・演奏直前、14番の兵庫代表の光川高校(銀賞)の自由曲が「ジェリコ」から「トゥーランドット」に変わっている
→原作では3行にわたり「ジェリコ」についての説明までなされている。つまりこの曲にもそれなりの意味があるにも関わらず改変された。理由は不明。
以下参考
『ヨシュアはジェリコとの戦いを始め、兵士達は手に槍を持って突撃した。ヨシュアはこの戦いは我が手中にあると言い、兵士達に叫べ、角笛(羊の角を使ったトランペット)を吹けと命令した。すると笛と声によってジェリコの城壁は崩れ落ちた、という「ヨシュア記」6章の内容が歌詞となっている。』
──Wikipedia 「ジェリコの戦い」より引用
『群衆は愛の勝利を高らかに賛美、皇帝万歳を歌い上げる中、幕。』
──Wikipedia「トゥーランドット」より引用
余談だが、吉川優子役の山岡ゆりさんが埼玉栄高校時代に2006年の全国大会で金賞を取った時の自由曲が「トゥーランドット」だったらしい。これが改変理由に含まれているのかどうかは不明。
・中川夏紀が岸部海松に「副部長」と呼ばれ、別の場所へ連れて行かれる
→原作では無かったシーン。優子が同学年である梨子に「部長」と呼ばれていたことに関連して、夏紀も同学年の人間から「副部長」と呼ばれていることを強調するためか。最終楽章で部長の久美子は、秀一を除き同学年の人間から「部長」とは呼ばれていない。秀一も「副部長」とは呼ばれていないし、麗奈も「ドラムメジャー」とか「メジャー」とは呼ばれていない。麗奈が吉川優子政治に対して批判していたことと何らかの関係があるのではないか。
・黄前久美子が久石奏に「中学最後のコンクール」の話をする
→ここが一番の肝。このシーンも原作では無かった。話していた内容は、「中学最後のコンクールで泣けなかった」「自分はダメ金でほっとしていたが隣で周りが引くくらい大泣きしていた子がいた」「それがうちのトランペットのエースである」といったものであり、最後の台詞を聞いた直後、久石奏は「えっ」と言い、麗奈の方を振り向いた。
その後、恐らく今作で唯一の独白である「それが多分、私の始まり」という台詞が入る。
僕は今作を2回目に視聴した時から関西大会の一連の流れについて何か違和感を覚えていた。その最も大きな要因となっていたのが「中学最後のコンクール」の話と、久美子の独白の追加である。
今作を鑑賞した後、程度の差はあれど「今年の関西大会」が久美子の「中学最後のコンクール」と似たような展開だと感じた人は多かったのではないかと思う。そしてそう感じた理由は恐らく、黄前久美子が泣かなかったからであり、このエピソードが北宇治の演奏前に挿入されたからであり、久石奏が「悔しくって死にそうです!」と叫んだからだろう。後述するが、「悔しくって〜」に関しても原作とは大きな相違点がある。
「それが多分、私の始まり」の解釈についてだが、個人的な推論は「それが多分、私の始まり」という台詞が示す「それ」が「中学最後のコンクール」ではなく、「これから関西大会で敗北すること」なのではないかというもの。
もっと言えば、そもそもこの独白は「現時点での台詞」ではなく「これより未来のある時点からこの時を思い返した時の台詞」であり、「それ」という指示語が原則として前の事象を指すことにしか使えないという点(これはソ系の指示語全般に言える)を鑑みても、「未来のある時点から見た過去の事象」としての「それ」が「関西大会での敗北」なのではないかと考えている。
そしてもう1つ重要なのが、「関西大会での敗北」が無ければ「フィナーレに誓う」ことも無かったのではないか、ということだ。
仮に北宇治がこの年に見事目標を達成し、全国大会金賞を獲得していたとしよう。それで次の年に誓うことがあるのか? という話である。
そもそも「誓い」という言葉には下記のような意味がある。
『将来、ある事を必ず成し遂げようと決心または約束すること。』
──デジタル大辞泉「誓い」より引用
これを見ても分かる通り、目標が達成されなかったからこそ「誓う」必然性が生まれてくるのである。
同時に、これは来年もその目標を追いかけることの出来る人間にしか出来ないことでもある。今年が最後のコンクールである吉川優子や中川夏紀ら3年の部員達は「誓う」ことが出来ない。それに対して2年の久美子達は「誓う」ことが出来るのである。また、「フィナーレ」という言葉は「終わり」を意味するため、「最後のコンクールで全国金賞を取ることを誓う」「全国金賞を取ることを誓えるのは今年が最後」といった意味になるのではないかと考えられる。「誓いのフィナーレ」をこの両方の意味で解釈できるのは2年だけである。
そして、「それが多分、私の始まり」という独白は黄前久美子によるものであり、何より「響け!ユーフォニアム」という物語の主人公は黄前久美子である。
また、主題歌である「Blast!」の歌詞にも注目してほしい。
『果たされてく金色の誓い』
というフレーズがあるが、このフレーズの「金色」というのが「全国大会金賞」であるという想像は割と容易につくだろう。そして同時に、これは「黄前久美子自身」ということでもある。Blast!の歌詞は最初から最後まで一貫して「黄前久美子」と「ユーフォニアム」の掛け合いが描かれている。ユーフォシリーズでは「人間=楽器」と喩えられているので、「黄前久美子=ユーフォニアム」ということになる。北宇治の久美子のユーフォは金色なので、「黄前久美子=金色」になり、「金色の誓い」とはすなわち「黄前久美子の誓い」ということになる。
これらの点から、
「フィナーレを誓うことが出来るのは現在の2年しかおらず、その中で金色のユーフォニアムを吹く黄前久美子こそがこの誓いの先導者である」
と導き出せるのではないか。
ここでもう一度、「それが多分、私の始まり」という台詞について考える。
「関西大会での敗北」が「久美子の始まり」なのだとしたら、「誓いのフィナーレ」も「久美子の始まり」であるということになる。
これが何を意味するのか。
それは、京アニ側に「ユーフォ映像化をここで終わらせるつもりは毛頭ない、むしろここからがスタートだ」という意志があるということ、もっと言えば、「最終楽章の映像化こそが我々の最終目標なのだ」というメッセージであるとも受け取れる。
そして恐らくだが、「それが多分、私の始まり」という久美子の独白は、最終楽章がアニメ化された際には再び用いられるだろう。
何故なら、前述の通りこの台詞は「未来の黄前久美子の台詞」であり、それはつまり「最終楽章時点の黄前久美子の台詞」である可能性が高いからだ。
言うなれば、この独白は、そして黄前久美子は、「誓いのフィナーレ」と「アニメ・最終楽章」を繋ぐ架け橋なのだ。
まとめると、
「誓いのフィナーレ」というタイトルは「関西大会での敗北」を経て「久美子達がした誓い」ということであり、また、京アニ側が「最終楽章の映像化をしたい」という意思表示をするために「黄前久美子の独白」が必要不可欠だったのではないか。
ということである。
2. 北宇治演奏後〜会場離脱
・去年北宇治に敗北したことで全国に進めなかった秀塔のあかりちゃんの話が割愛されている
→あかりちゃんは去年コンクール直前に事故で骨折をしたせいで本番に出れなくなってしまった先輩に代わりソロを務めたが、不運にも本番で音を外してしまい、本人はそれが秀塔の敗因になるのではないかと思い込んでしまう。実際去年秀塔は全国出場を果たせなかったが、その悔しさを胸に日々努力に励んでいたのだろう、あかりちゃんの努力が今年の関西では見事に報われ、見事全国行きを果たしたというもの。
以下、去年と今年の関西大会でのあかりちゃんの台詞を抜粋。
『「悔しいんです。自分が上手くやれへんかったことが。こんな結果で、任せてくれた先輩にも申し訳なくて。死にたいくらい自分に腹が立ってるんです。自分が不甲斐なくてしゃあない。うちのせいで、ほんまにすみません。先輩、ほんまにごめんなさい」』
──『響け! ユーフォニアム2 北宇治高校吹奏楽部のいちばん熱い夏』p.313より
『「あかり、やったな! アンタの頑張りのおかげやで」
「うち.......うち、ほんま、吹部続けてよかった」』
──『響け! ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部、波乱の第二楽章 前編』p.329より
去年の関西大会でのあかりちゃんの台詞は「悔しくって死にそう」と大方同じような意味を持っていると思われるが、しかしこれが麗奈や奏のそれと違うのは、「自分のミスのせいで先輩に迷惑をかけてしまった」という罪悪感から来ているものであるということだ。ここからは推測を含むが、去年関西に出場できなかったあかりちゃんの先輩は当時3年(「先輩はこれで最後やのに!」という台詞から)であり、あかりちゃんは結果発表の後、全国大会出場を先輩に「最後に誓った」のではないかと思われる。つまりここにもう1つの「誓いのフィナーレ」があったということであり、そしてそれは見事に果たされた──とも考えられるのではないだろうか。
「誓いのフィナーレ」においてはこのエピソード自体の割愛はやむなしとしても、秀塔の歓声がほとんど聴こえなかった点に関しては少し残念だと感じた。
・久美子が「関西大会でのダメ金でも泣けなかった」という明確な描写が割愛されている
→これはつまり「涙のような滴が手の甲に落ちたが、それは額の汗だった」という描写のことであるが、割愛された理由は不明。そもそも久美子は「関西大会での敗北」を「悲しい」とは思っていないのだが、これは「近くにいた大阪東照の生徒達が声もなく崩れ落ちた」こと、つまり『「自分達だけが負けたわけじゃない」ということに安心した』ことが原因なのである。このシーンも同じく割愛されているので、久美子の細かな心情の機微などは原作を読んでいなければほぼ確実に分からないだろう。それにしても、この描写があるのと無いのとでは久美子の性格が非情に見えてしまうのもある意味当然とも言える(実際非情だと思うが)。
・結果発表後の「陰鬱なオーラ」が一瞬にして消えている
→原作では優子が演説するまでの間ずっと北宇治の部員は暗いムードだった。確かに久美子の隣では麗奈と奏がうなだれているし、優子も廊下で泣き崩れているのだが、立ち直りが早すぎるのではないかと思わざるを得なかった。というよりは、久美子の空虚感をはじめ、もう少し「敗北」による「陰鬱なオーラ」を描いた方が良かったのではないかと思う。個人的にはその方が自然だと思うのだが、制作陣の真意は不明。
しかし、ここで「陰鬱なオーラ」を描かないことで効果の薄くなるシーンがある。それは、大会終了後の優子の演説だ。何故なら、本来原作では優子の演説によって北宇治の部員達は「陰鬱なオーラ」から解放されるという流れなので文脈的に整合性が保てているのだが、「誓いのフィナーレ」では優子の演説が開始される時点でもう既に「陰鬱なオーラ」から解放されてしまっているので、「お通夜じゃないんだから」「顔を上げて!」という台詞もどこか違和感を覚えた上、心に響きにくくなっているのではないかと感じた。
・黄前久美子が久石奏を挑発するように笑いながら「悔しい?」と尋ねる
→これに関しては久美子がシンプルに性格悪いという結論しか出なかった。
お前は悔しくないのかよ。
・「悔しくって死にそう」という台詞の話者が高坂麗奈から久石奏になっている
→上記の「中学最後のコンクール」の話と関連する重要事項。「敗北」が無ければ、もっと言えばダメ金でなければ、この台詞はいかなる場合においても成立しない。中学最後のコンクールにしろ、今年の関西大会にしろ、そして「悔しくって死にそう」とは少し違うものの、去年の秀塔の関西大会にしろ、いずれも同じことが言える。
これに関する推論は、劇中で久石奏が久美子の吹く「響け!ユーフォニアム」を2回聴いていることと合わせて、
「久石奏が響け!ユーフォニアムの継承者であることを暗示しているのではないか」
というもの。
また、これも今作の主題歌「Blast!」の歌詞とも関わっているとみられる。
『受け継がれてく想い』
このフレーズを久石奏の「悔しくって死にそうです!」という台詞に当てはめると、
「高坂麗奈という先輩から、黄前久美子という先輩を通じて、久石奏という後輩に受け継がれてく想い(台詞)」
であると解釈できるのではないか。
また、結果発表時の麗奈、久美子、奏という並び順もこれを暗示していると考えられる。
そして、「響け!ユーフォニアム」に関しても同様のことが言える。
「田中あすかという先輩から、黄前久美子という先輩を通じて、久石奏という後輩に受け継がれてく想い(曲)」
ということである。
上記で黄前久美子が「誓いのフィナーレ」と「アニメ・最終楽章」との架け橋であると述べたが、それはこの点においても言えることなのだ。
「誓いのフィナーレ」で「悔しくって死にそう」が久美子を通じて受け継がれたことにより、「アニメ・最終楽章」では「響け!ユーフォニアム」が久美子を通じて受け継がれる。
また、「誓いのフィナーレ」という作品自体も「響け!ユーフォニアム2」と「アニメ・最終楽章」の架け橋になっている。
これについては賛否両論あると思うが、個人的には賛同したい。
アニメというのは言ってしまえば商売であり、BDや関連グッズの売上で続編の制作が左右されるなどどうしても売上至上主義な面が浮き彫りになることが多い。そんな中、制作陣がこうして自分達はこのアニメ作品をまだ作り続けていたいという想いがあるともとれるメッセージを作中で残してくれているということは、実に喜ばしいことなのではないか。
制作者側がユーフォを好きでいてくれて良かったと思うし、自分自身もユーフォを好きで良かったと改めて思った。
といった具合です。
この考察に対して何か意見、批判、感想などがあればぜひお知らせいただければと思います。
ここまで駄文にお付き合いくださりありがとうございました。