「おかえりなさい」と「ただいま」のその先に――幽谷霧子の世界観とさん付けされる隣人を通して
初出:2020年1月19日Privatterに投稿
初出時より一部修正
◆中心の転換
◇「おかえりなさい」から「ただいま」へ
【霧・音・燦・燦】「ほしをひとまわり」で、霧子とプロデューサーはうさぎ座を探すんだけど結局見つからない。見つからないんだけど、うさぎ座にむかって「おかえり」と霧子は言う。天を一回りしたからだとプロデューサーは気づく。プロデューサーはその後で、でも回っているのは地球の方なんだと言った。そこで霧子はプロデューサーに対して「プロデューサーさんも、おかえりなさい、です」と言う。
ここにはいわば天動説から地動説への視点の転換がある。天動説から地動説への移動とは、運動しているものの中心が自分のいる場所ではなく自分以外のどこか別の場所にあるということに気づくということにほかならない。最初は運動しているものの中心に地球があり、二段階目ではむしろ運動しているのが地球の方になる。
実はこのコミュにはもう一つ中心(の転換)が隠れている。霧子はうさぎ座に対してもプロデューサーに対しても「おかえり」と言っている。「おかえり」と言うのは基本的には家にいる人の方で、「ただいま」と言う方が家に帰ってくる運動をする。その拠点となる場所は「おかえり」を言う者の場所である。つまり、「おかえり」と霧子が言うとき、中心は霧子の方にある。霧子は地球と一緒に回っているようで、実は回っていなかったと言える。霧子は自分をものの数に数えない癖があるのだが(cf.「みえない献身」)、ここにもそれが表れている。そしてその後の選択肢の一つに、「霧子もおかえりだぞ」があるのだ。プロデューサーは霧子に対して「おかえり」と言うことで、霧子を地球と一緒に回っている人のうちの一人にしているのである。ここにもう一つの中心の転換がある。(ただその直後に「行ってらっしゃい」と霧子に言われてしまうのだが、コミュでは描かれていないが霧子に向かってプロデューサーもまた「行ってらっしゃい」と続けてもいいはずだ。)
「みえない献身」の選択肢に「それは、霧子のためになるって思うぞ」があるように、霧子に対するプロデューサーの仕事の一つは、霧子を数に数え入れることだと言える。霧子はただ謙虚になっているだけだとも言えるのだが、「ほしをひとまわり」にあるように認識の中心点として消えてしまうかのようなところもある。それは人間を超越しているのではないかと思わせる霧子の雰囲気にもよるものであるのだが、プロデューサーはその上で霧子を一人の人間として、一人のアイドルとして見守っていかなければならない。
WING優勝後に霧子がプロデューサーに向かって言うのは「見ていてください」である。感謝祭終了後にもアンティーカという船を「見守ってください」と言う。認識する側になって(認識世界の中心として消えて)しまいがちな霧子のことを客体としてプロデューサーが認識することによって、霧子はこの世界に普通の人間の一人として確かに存在することができるのだ、と言うことができる。(その上で【天・天・白・布】の「おひさまと布」を見ると、プロデューサーは「霧子がお日さまなんだ」と零していて、霧子の雰囲気に圧倒されて飲み込まれそうになっているのが興味深い。)
◇鏡像段階について
天動説から地動説への転換に見られるような、中心点を自分の場所からよその場所へと移す転換は、自分中心な世界観から客観的な世界観へと転換することを可能にするものである。それは数学の歴史で言えば、原点Oを設定して座標系を導入することによって、座標を示せば物の位置などを客観的に指定することができるようになることに相当する。それは絵画の歴史で言えば、見る場所を指定する透視図法によって三次元のものを二次元上に立体的に描くことが可能になったことに相当する。
これらに共通しているのは、世界を記述するための基準点を自分以外の特定の場所に設定することによって、自分だけでなく誰であっても同じように記述される世界を認識することができるようになるということだ。基準として設定された場所から眺めれば、誰であっても同じように世界を認識することができるからである。
この中心点の移動という話は、人間の発達においても重要な問題となる。以前書いた記事で、ラカンを参照しながら霧子の鏡像段階について考えたことがあった。
見えるものと見えないもの――幽谷霧子と杜野凛世の「心」について
https://fusetter.com/tw/aF0DU3Uo#all
鏡像段階とは、鏡に映った像を自分の像であると認識する(鏡像への同一化)ことによって、初めて自分という人間が他の人間と同類の人間であると認識できるようになるというような、発達的なプロセスである。
目が顔の正面に張り付いている人間は、自分の顔をその目で直接認識することができない。だから自分という存在について、自分以外の人間とは見え方が違う。自分に見えている世界の中で、自分だけは現れ方が違っている。
鏡は光学的な装置であり、それは見える世界というものを提示する。その見える世界というのは、”自分に”見える世界ではなく、”誰からでも”見える世界である。鏡に映った自分の像は、”自分に”見える世界の中の他の人間と同じ姿をしている。その鏡の中の自分の像を、まさに自分の像として引き受ける(同一化する)ということはつまり、”自分に”見える世界から、”誰からでも”見える世界へと移住するようなものなのだ。それはいわば鏡の世界の中に飛び込むようなものである。
この鏡像段階において、ラカンは親(身近な大人)が重要な役割を果たしていると指摘する(cf.『精神分析の四基本概念』)。その重要な役割とは、鏡に映った像を示して「これがあなただよ」と子供に向かって言うという役割である。ここで親は、天動説から地動説へと転換するときに見られたような、移動した中心点の役割を果たしているのである。座標系で言えば原点Oである。ラカンはここでの親の視点をこう述べる。「主体がそこから自分を見るようになる点です。それはちょうど「ひとの目から見るように」と言われるようなことです」(『精神分析の四基本概念』岩波書店,p.361)。そうした親の視点を経由することによって、鏡に映った像が自分の像であると認識できるようになるのだとラカンは考える。
◇親の不在?
ラカンがこうして提示する鏡像段階は、いわばモデルのようなものであり、全ての人がこのように鏡像段階を経験するわけではなく、人それぞれのやり方がある。おそらく霧子には霧子の鏡像段階がある、と私は考えていて、上に添付した記事で考えたのは霧子にとっての鏡像段階はどういうものだったかということだった。
それは包帯や絆創膏が内面の存在を身体表面上に示すものであるということであり、おそらく同時に身体像上における傷を縫合したり治癒したりする目的があるのではないか、ということであった。加えて、自分をものの数に数え忘れるという霧子の癖や、自分を認識の中心点において消えていってしまうような霧子の存在は、まるで鏡像段階を経ていないかのようでもある(だからこそプロデューサーは霧子を見る必要がある)。
霧子が、モデルのようには鏡像段階を経験していないのはどうしてなのか。ここからは想像にさらに想像を重ねていくことになるが、それはひょっとすると両親が自宅にあまりいなかったということが関係しているのではないか。
偶然であるのか必然であるのか、これも「ほしをひとまわり」で語られている。「小さい頃から…… 両親が……帰ってくるのが遅くて…… あんまり…… ただいまとか……おかえりとかって……」と霧子は話す。「ただいま」をあまり言ったことがないというのは自分が(おそらく学校から)帰ってくる時間に親が自宅にいないということだが、「おかえり」をあまり言ったことがないというのは親が帰ってくるのは自分が寝てしまった後だということだと考えられる。
子供にとって一日の大半を過ごす場所は学校である。学校には親はいない。そして霧子の場合、学校から帰ってきて、その後の時間を自宅で過ごすとしたら、眠りにつくまで親がいない状態が続く(ことが多かった)ということになる。
【菜・菜・輪・舞】「日曜日の」では、(おそらく幼少期の)日曜朝の一場面が想起される。そこに両親が登場するが、父親がいることに関して「パパもいる」と言われている。霧子の父親は日曜も病院勤務だということだが、「パパもいる」とやや感動的に言われていることから、平日でも日曜でも、父親に会えるのはあまり多くなかったのかもしれない。
こういうところから、鏡像段階において親が果たす機能が霧子の場合は少し弱かったのではないかと想像したくなるのである。
◆霧子の世界観の大きさ
◇宇宙というスケール
「ほしをひとまわり」でもう一点興味深いところがある。それは、霧子が宇宙というスケールの視点を持っているということだ。うさぎ座が一周してきたという霧子の話に対して、地球が回っていると言ったのはプロデューサーの方であるが、そこですぐさまプロデューサーも地球と一緒に回ってきたと霧子が返すところにそれは現れていると言える。
私たちはふつうおそらく、自分が地球と一緒になって宇宙を移動していると考えながら生活したりはしないだろう。天動説と地動説という話はたぶん多くの人が知っている知識だと思われるが、地球が太陽の周りを回って運動しているという話を、自分の生活レベルの視点と直結して考えながら生活する人は多くないと思う。科学的な知識としては運動しているのは地球の方だということを知ってはいても、地上で生活する中でその運動を意識したりはせず、地上は動かないものであって動くのは太陽や星空の方だとだいたい思っているのではないか。おそらく地球が運動しているというような宇宙規模の世界観をカッコに入れて、生活レベルにおいて運動しない地上の上で日常生活を送るという世界観を採用しているのではないかと思う。
プロデューサーもまた地球と一緒に一周したと言うことで、霧子はカッコに入れられていた宇宙規模の世界観を前景へと引き戻すのである。
この宇宙というスケールは、感謝祭エンディングのコミュにおいてはっきりと提示される。アンティーカという船が無事に航行できるようお祈りする霧子は、思い描く海図をこう描写する。「事務所と……日本と……世界と…… それと……宇宙がある地図です……」ふつう、アイドルが宇宙というスケールを想定する必要はないはずだ。けれどここには宇宙が登場するのである。
(ところでこのお祈りにおいても、霧子はアンティーカの他のメンバーに対して「いってらっしゃい」と呼びかけているのが興味深い。お祈りをしなくても「元気に…… 帰ってきてくれる」とも言っている。ここでも霧子は誰かを見送り、誰かを迎え入れる拠点(中心点)になっている。霧子に倣ってお祈りを終えた
プロデューサーに向かっても「おかえりなさい」と言う。)
◇霧子の生きる空間
宇宙は確かに実在するし、宇宙には宇宙の歴史がある。だが宇宙の大きさや歴史の長さは、あまりにも巨大なので、人間の大きさや歴史とは比べ物にならない。現生人類であるホモ・サピエンスが地球上に登場したのはおよそ30万年前だが、地球と太陽の歴史は46億年である。地球から一番近い恒星のケンタウルス座のα星であっても、4.3光年の距離である。……
宇宙はスケールがでかすぎる。でかすぎるので、それを前提にして日常生活を送るのは難しい。だから日常生活の中では、宇宙のスケールの世界観はカッコに入れられている。いわば忘れられて、無いことになっている。霧子は、そういう存在しているけれど無いことになっている前提的な巨大な世界観を、生きている可能性がある。
その一つが、霧子の心配性だ。たとえば「みえない献身」では、レッスンルームの埃で他の人が気管支喘息になってしまわないか心配している。ほかにも、プロデューサーや恋鐘が手などを怪我した際に、霧子はばい菌が入ったら大変だ、と心配してちゃんと手当てをする(cf.【283プロのヒナ】「バンソウコウ・マジック」、【包・帯・組・曲】「お手当てします」、【綿毛ノ想】「憧れ」)。
ふつうの人ならば、霧子のこうした心配のことを「考えすぎだ」と受け止めるだろう。実際プロデューサーも恋鐘も、怪我については放っておけばそのうち治るといったスタンスだった。ここで注意したいのは、確かにおそらくふつうの感覚では霧子の心配は考えすぎなのだが、霧子の心配は絶対に起こらないことではないということだ。
レッスンルームの埃から気管支喘息になるとか、手を切った怪我からばい菌が入って悪化するといったことは、そんなに頻繁に起こらないことであるとはいっても、全く起こらないことではないのである。重要なポイントはここだ。ふつうの人は、起こりうること全てを思考や心配の対象にしているのではなく、起こりそうなことだけを思考や心配の対象としているのである。だからふつうの人の思考や心配の中には、起こりうることだがほとんど起こらない(と思われている)ことはほとんど存在しないことになっている。
哲学者の野矢茂樹(『語りえぬものを語る』講談社)は、「そんなにたくさんは考えられない」と言う(pp.182-3)。
「論理空間には含まれながら実際には一顧だにされない可能性が大量にある。「なんだそりゃ」と言われるだろうが、例えば今夜隕石が落下して私の勤務先の大学が破壊されるかもしれない。例えば財布に入れておいた一万円札が勝手に増殖して二万円になっているかもしれない。そんな可能性でも、論理的には可能である以上、論理空間には含まれている。『論理哲学論考』の意味において思考可能であり、語ることもできる。だが、それは私の行動に影響を与えるようなものではまったくない。誰が隕石の落下やお札の自然増殖を当てにして日々の行動を決めるだろう」(野矢茂樹『語りえぬものを語る』講談社,p.183)。
論理空間とは、論理の水準おいて可能なことの総体だ。だから今夜隕石が降ってくる可能性や、一万円札が増殖する可能性も、そこに含まれる。論理的にそれは可能なことだからだ(論理的可能性と物理的可能性は違う)。でもその論理空間にある可能性全てを考慮に入れながら生活しているわけではない。生活のレベルで、行動に影響を与える可能性と与えない可能性とに分けることができる。野矢は、行動に影響を与える可能性が開く空間を「行為空間」と名付ける(p.183)。行為空間は論理空間の部分集合となる。
この議論を参照すると、レッスンルームの埃で気管支喘息になるかもしれないとか、怪我した手の傷にばい菌が入って悪化するかもしれないというのは、多くの人の行動に影響を与えない可能性だと言える。いわば行為空間の外側にある可能性だということだ。だが霧子はそうした可能性を考慮の対象にして行動を決定する。霧子は、ふつうの人よりも多くの可能性を考えながら生活しているのであり、いわばふつうの人よりも大きな行為空間を持っていると言えるだろう。
◇病院という場所
霧子がこんな風にふつうの人よりも多くの可能性を考慮して生活している理由としてまず考えられるのは、病院という場所が身近にあるということである。
病院にいるのは、実際に病気にかかった人や怪我をした人たちである。それらの病気や怪我は、ふつうの人の生活の中においては、ほとんど起こらないと思われていたことであるかもしれない。病気にかかることや事故にあうかもしれないといったことを常に考慮しながら生活する人はあまりいないと思う。でも病院の中にいるのは、そうしたほとんど起こらないと思われていたことが実際に起きてしまった人たちなのだ。
そうした人たちを身近に生活することによって、霧子の可能性の世界は養われているのではないか。だから霧子にとって、埃で気管支喘息にかかってしまう可能性も、傷にばい菌が入って悪化してしまう可能性も、起こりうる可能性として現れているのだと思う。
◇夢に対する態度
だが、霧子の世界観のスケールの大きさは心配性にとどまらない。
ふつうの人よりも大きなスケールを持つ霧子の世界観がよく現れているのが、霧子の夢に対する態度と”さん付け”に見られる事物に対する態度だと言える。まず夢に対する態度から見ていこう。
夢(と現実)は霧子のテーマの一つで、【霧・霧・奇・譚】はコミュ全てが夢(と現実)をめぐるエピソードになっているし、【娘・娘・謹・賀】の「三峰結華」は初夢のエピソードである。【白・白・白・祈】「エビさん」はプロデューサーが見た夢に関するエピソードだ。そして最もはっきりと夢を主題として前面に打ち出しているのが【我・思・君・思】で、この2番目のコミュ「かなかな」はデカルトの夢の懐疑をめぐる印象的なエピソードとなっている。
これらの夢にまつわるエピソードの中で浮かび上がるのは、霧子がふつうの人が考えるような現実世界とはちょっと違う世界を生きているということだ。たとえば【白・白・白・祈】「エビさん」では、事務所でうたた寝をするプロデューサーの夢に霧子が登場する。夢の中の霧子は、プロデューサーがエビさんであってこれからてんぷらになるのだと言う。これはプロデューサーにとっては悪夢で、プロデューサーは絶叫とともに目を覚ますのである。
一般に夢というのは、夢を見た人の脳や精神が作り出した幻覚だと言われている。だから夢の中で何が起きようと、その責任は夢を見た人(の脳や精神)にあるのであって、夢の中に登場した(実在する)人物にあるのではない。だから夢の中で誰かに殴られて、目覚めた後でその人に会ったとしても、その人に夢の中で殴られたことの責任を追及したりはしない。夢の中で起こる(起きた)ことは、一般に現実世界とされる目覚めた世界の中では起きていないことなのだ。夢の世界は、一般に現実世界とされる世界から除外されるのである。
だが霧子はちょっと違う反応を見せる。「夢の中に霧子が出てきてさ」の選択肢を選ぶと、霧子は「ごめんなさい」と言うのである。「うなされていたので…… いい夢じゃないんだなって……」と言う霧子に対し、プロデューサーは「霧子のせいじゃないよ、もちろん!」と言うのだが、霧子はそれを受け止めた後で「プロデューサーさん……わたし、次は…… いい夢にでてこられるように…… 頑張ります……!」と言うのである。
他人の夢に登場するにあたって、一体何をどう頑張れば、いい夢に登場することができるかまず分からないのだが、それよりも注目したいのは、プロデューサーの夢の中に登場した霧子と、霧子自分自身とを同一視しているということだ。いや確かに、「お前が夢に出てきたんだけど悪夢でさ」と言われたら、誰だってあまりいい気分はしないかもしれない。そういう悪夢を見たのはあなた自身じゃないかと返したくなるが、ひょっとすると私に対する印象が悪いせいで悪夢を見られてしまったのかもしれない。だから私の印象を良くすれば、良い夢に出られるかもしれない。霧子が言っていたのはこういうことであるかもしれない。
だが他のコミュを参照すると、そうだとも言い切れないのである。夢の中の人物と夢から覚めた現実世界の中の人物との間の連続性や同一性について霧子が考えているらしいというのは、【霧・霧・奇・譚】や【我・思・君・思】「かなかな」に表れている。【我・思・君・思】「かなかな」では、今が夢である可能性(夢の懐疑)を経た上で、今話し相手になっている咲耶と、目が覚めた後で再開する咲耶が同一人物であるのならば、今が夢であってもそうでなくてもどちらでもいいと霧子は言うのである。
一般的に夢から覚めている現実世界には、夢で起きた出来事の居場所はない。夢で起きた出来事というのは、端的に起きなかったことだとされるのである。だが霧子は、そこで夢世界の咲耶と現実世界の咲耶の連続性/同一性の可能性を提示することで、夢世界と現実世界を切断されたものではなく連続したものとして捉えようとしているのである。
◇さん付け
もう一つは”さん付け”に見られる事物に対する態度である。
霧子が人間や動物に対してのみならず、植物や無機物にまでさん付けをして語りかける様子はコミュの随所で見ることができる。
たとえば【伝・伝・心・音】「どなたですか」では「ゼラニウムさん」や「ユキノシタさん」と植物に対してさん付けで語りかける様子が見られるし、オーディション合格後のテレビ収録の後で「カメラのレンズさん」と言っているのを聞くことができる。
動物にさん付けするのは小さな子供(との会話)が使うのを聞くことはあるが、植物に対するさん付けはもっとあまり使用されないものだと思う。今パッと使用場面が思い浮かばないが、全く使用されないことはないと思う。だがさん付けをして語りかけるということは、その相手がその語りかけを聞いているかもしれないという可能性を考慮しているということだ。それは、単なる生命以上の、意識に近い何かがあるということが想定されているはずである。
すると、「消しゴムさん」「カメラのレンズさん」「接着剤さん」「カモミールさん」となると、そのさん付けはかなり特殊な例だと思えてくる。植物は生物であって、生き物としての主体はあるかもしれないからさん付けをすることは不可能ではない気がするが、消しゴムやカメラのレンズや接着剤やカモミールが生命としての主体を持っているかということが話題にのぼることはあまりないだろう。ましてやそれらが意識を持っていることなど。
だがさん付けをして語りかけるということは、その対象が生命を持ち、その語りかけを聞く意識を持っているかもしれないという可能性がそこにあるということを示している。霧子はもちろん、それらが本当は生きていないということを知っている。【伝・伝・心・音】「どなたですか」では、鉢植えに張られたメッセージを「ゼラニウムさん」からのメッセージかもと一瞬思ったうえで、それは違うと結論づけている。霧子のさん付けと語りかけは、本当に相手に生命や意識があると思って行われていることではなく、それはいわばごっこ遊びのようなものなのだ。
だがごっこ遊びのようなものであるとしても、植物や無機物にさん付けをして語りかけるという行為を日常生活の中で実際に行うということ自体が特殊であるということは変わりがない。たとえごっこ遊びのようなものだとしても、日常生活の中でそういうことをする人はあまりいないだろう。日常生活の中でさん付けと語りかけを行っているというところから、霧子はふつうの人が生活している可能性の空間よりも大きな可能性の空間の中に生きているということが分かる。
◇霧子にとって自宅はどういう場所だったのか
霧子の心配性は、身近にあった病院という場所で養われたのではないか、と考えた。それでは、霧子の夢と現実に対する態度と、さん付けをする事物への態度は、どこで養われたものなのだろうか。
ここでまたさらに想像を加えたい。それは自宅ではないか、と思われるのである。また「ほしをひとめぐり」のコミュに戻るのだが、そこで霧子はただいまやおかえりをあまり言ったことがないと言っていた。まるで霧子は家に一人でいたかのような雰囲気だと私は思った。
だが、【鱗・鱗・謹・賀】のTRUE「家族写真」で、霧子に兄がいることが判明する。子どもの頃の霧子は、家で兄と一緒だったのだろうか。兄のことが語られたのはこの「家族写真」のコミュのみであるので、家で兄と一緒だったのかどうかは今のところ全く分からない。本当のところは分からないのだが、今のところ分かっていることもある。それは、おかえりやただいまをあまり言ったことがないということ、そして兄についてほとんど語られていないということだ。
もし霧子と兄の年齢差が6歳未満であるならば、霧子と兄は同時に小学校に通っていた時期があることになる。もし2人ともが小学生であるならば、兄妹間でおかえりやただいまを言うことは何度もあったのではないかと思う。もしそうであるとしたら、おかえりやただいまをあまり言ったことがないという霧子の話に反する。だから、兄はけっこう歳が離れている可能性がある。そしてさらに、家族についての話は何度か出てきているのに兄についてはほとんど語られていないということそのものが、兄が身近にいないことを感じさせる気がする。
これらは私が受け取った印象と、そこから発展させた想像にすぎないのだが、子どもの頃の霧子は自宅で両親と過ごす時間が短く、寂しい思いをしていたのではないか、という気がするのだ。兄が側にいなければ、一人きりだったかもしれない。霧子の背景に孤独を透かし見てしまうのである。繰り返すが、これは私の印象と想像にすぎない。
だが霧子は「ほしをひとめぐり」の「星が見えないことはあるけどな」の選択肢の先で、こうも付け加えている。「見えなくても…… いてくれますから……」と。霧子にとって、見えないということは、いないということではないのである。物理的な距離において近いかどうかは、霧子の精神にとって近いかどうかとは異なるのだ。発達心理学者の麻生武は「現実の世界を把握するためには、想像力が不可欠」と言う(麻生武『乳幼児の心理』サイエンス社,p.152)。
「子どもたちは想像の世界と現実の世界とを区別したうえで、想像の世界に向かっていくわけではない。そもそも、現実の世界を把握するためには、想像力が不可欠なのである。「父親が会社にいって今不在だ」という現実を理解するには、不在の「父親」をイメージし、しかも「会社」という見たこともない場所を想像する力が必要なのである」(麻生武『乳幼児の心理』サイエンス社,p.152)。
霧子の両親が自宅に不在がちだったということは、ここで麻生が言うように、霧子にとって想像力を働かせるきっかけにもなったのではないかと私は思う。そもそも、麻生が指摘しているように、現実世界を把握するためには想像力が不可欠である。それは子どもだけでなく、大人にとってもそうである。ふつう現実世界というのは、実際に見ることができるものであると思われているかもしれないが、現実世界の全てを自分の目で見ることはできない。地球の隅々を見ることはできないし、まして宇宙の全てを実際に見ることはできない。だから現実世界のほとんどは想像によって構築されていると言える。
ならば、どうしてその想像の場所に、夢で起きたことや空想的な生き物が入ってこないと言えるのだろうか。植物や無機物が生命と意識を持って生きているという可能性が入ってこないと言えるのだろうか。霧子の生きる世界が一般の人にとっての現実世界よりも大きな世界であるのは、こういう由来があるのではないかと考えたくなるのである。
◆孤独と繋がり
◇家族写真とピザトースト
霧子は家で両親と過ごす時間がたくさんあるわけではない。さらに兄とは今は離れて暮らしている。物理的に身近にいるわけではないが、だからといって霧子(たち家族)にとって自分たちが家族でなくなるわけではない。家族という概念は、物理的には離ればなれになっていても、そういうものたちをひとまとめにすることができる器のようなものである。それが目に見える形となって現れたのが、家族写真だ。写真の中に写されているメンバーは物理的には離ればなれになっているかもしれないけれど家族であるということを、家族写真は示すのである。
霧子のコミュには、こうした家族写真によく似たものが登場する。その一つが【菜・菜・輪・舞】「日曜日の」のピザトーストだ。ピザトーストは、(幼少期の)霧子の家族の日曜日の朝ごはんだったので、それは家族の繋がりを示すものだとまず言うことができる。
だがそれだけではない。霧子の(おそらくCMで使われる)セリフを聞いてみよう。霧子のセリフは冷蔵庫城の舞踏会を描き出す。「ダンスホールは真っ白食パン」。そのダンスホールに登場するのは、外交官のツナ缶氏、宮廷画家のコーンさん、近江隊長のコンビーフ殿たち。彼らはケチャップ夫人とのダンスを望んでいる。ケチャップ夫人は「それならみんなで踊りましょう」と言うのだ。これがカードタイトルにもなっている輪舞である。そしてこの輪舞こそ、ピザトーストのことにほかならない。
ピザトーストはつまり、食パンというダンスホールの上で繰り広げられるケチャップ夫人たちの輪舞のことなのである。ツナ缶も、コーンも、コンビーフも、ケチャップも、それぞれ由来も異なる別々の食材である。だがそれらが食パンを舞台に踊ることで、ピザトーストという一つの絵ができあがる。これは物理的には離ればなれになっていても一枚の写真に写ることで家族であることを示すことができる家族写真によく似ている。
霧子はこんな風に、遠くにあって繋がりがないと思われたものをひとまとめにするのが得意だという特徴がある。この特徴がもう一つ見られるのは、同じく【菜・菜・輪・舞】の「夜がいっぱい」である。夜の事務所の窓を開けて、霧子は「夜の音」が聞こえると言う。「ほんとだ、夜の音だ」を選ぶと、具体的にどんな音が聞こえるのか、一つ一つが明らかになる。電車の音や車の音、誰かが歩く音、ドアが閉まる音、犬が吠える声、咳払い。これらは特に関係がある音ではなく、それらは一つ一つただ音として存在しているだけだ。だがそういう音たちを、霧子は「夜の音」としてひとまとめにして聞くのである。そして「みんな……お月さまに…… 照らされてます……」と。「ごはんのにおいもするな」の選択肢を選ぶと、直接には聞こえない各家庭の台所の音を2人は想像する。
◇繋がりの重視
霧子にとって、繋がりは重要なものであるようだ。ここでいう繋がりは、もちろん物理的な繋がりではない。朝コミュの一つに献血をしてきた霧子との会話がある。「うれしそうな表情だ」を選ぶと、霧子は「だって……自分の血で…… 誰かの命が強くなるって思うと……嬉しいです」と答える。献血について霧子は「少しでも……患者さんたちのお役に立てれば…… うれしいなって……」と言っており、一見すると役に立つこと自体が霧子にとって重要なように見える。
ここでsR【283プロのヒナ】の「BBAOAB」を見てみよう。霧子は咲耶と摩美々に血液型を聞く。「輸血のときのために…… 知っておけたらいいなって……」というのである(摩美々は「完全に想定外」と反応するのが興味深い。霧子の行為を決定する可能性の空間の大きさがここにも表れている)。
アンティーカのメンバーの血液型を聞くと、霧子は誰にも輸血することができないことが明らかになる。恋鐘と摩美々がB、咲耶はA、三峰はOであるが、霧子はABだからだ。それを知って霧子は「誰にも輸血できないね……」と言って落ち込むのである。そんな霧子に対して咲耶は、「AB型は、どの血液型を輸血されても大丈夫じゃなかったかな?」と言う。「霧子がいざというとき、私たちの血が役に立つんだからね」。それを聞いた霧子は嬉しそうに照れるのだ。
このことから、霧子が献血するのは自分が役に立つということだけでなく、誰かと繋がるというところにも意味があったのではないかと考えられる。この繋がりは、霧子にとってとても重要なものであるように思われる。家族(家族写真)も、ピザトーストも、夜の音も、距離の遠いものや関係のあまりないものを関係づけてひとまとまりにしたものだ。霧子が想像力を働かせたり、ふつう現実とされている世界よりも大きな世界観を持っていたり、ふつうの人が考慮しないような可能性まで考えて世界を眺めたりしているのは、こうした繋がりを形成することに直結しているように思う。
◇孤独について
なぜ繋がりを形成することを重視するのかというと、これはありきたりな発想なのだが、そこには孤独や寂しさ、心細さのようなものがあるのではないかと思う。
ただこれは極めて重要なことだと思うのだが、霧子が自分の口で寂しい(寂しかった)と自分の気持ちを言ったことはたぶんコミュの中ではない。そしてその一方で霧子は、植物や事物の孤独を敏感に感じ取っているのだ。このことは非常に重要なポイントではないかと思う。
例えば信頼度レベルが上がると聞ける話に、病院に咲いている「コデマリさん」の話がある。コデマリさんは寂しがっている、と霧子は言っている(Lv.3)。これはさん付けされていないのだが、【伝・伝・心・音】TRUE「うさぎさんとうさぎさん」では、りんごのうさぎを食べてしまうのが「かわいそうだ」とプロデューサーが言ったのに対して、霧子はりんごのうさぎが一羽しかいないのを「かわいそうだ」と受け取っている。
寂しいとは少し違うのだが、【伝・伝・心・音】「どなたですか」で語りかけている「ゼラニウムさん」は元気をなくしていた様子だし、【霧・音・燦・燦】「あめです」の「サボテンさん」は雨にうたれて危ない状態にある。また、これもさん付けされていないのだが【白・白・白・祈】TRUE「そこにいますか、雪」では、最初に降っててくる雪について「きっと、とても緊張して降ってくると思います」と思いを馳せ、「頑張ったね」と伝えたいと言う。
霧子はこのように、植物や事物の孤独や心細さのようなものを敏感に感じ取っているのである。
◇誰の気持ち?
【白・白・白・祈】TRUEの「雪、そこにいますか」で、霧子は雪についてこう語っていた。「白くて、綺麗で」「でも、それで当然だって思われていて」「きっと、とても緊張して降ってくると思います」。収録現場のビルの屋上で、降る雪を迎えながら霧子は「他のみんなも…… きっと励まされたんだよ……」と伝えたいと言う。それを聞いたプロデューサーは、「……霧子もそうだよ」と答える。「霧子も頑張ってる。みんな励まされてるんだ」と。霧子が見た雪の姿が、プロデューサーが見た霧子の姿に重なるのだ。おそらく霧子は、自分の孤独や自分の寂しさや自分の心細さを感じる代わりに、植物や事物の孤独や寂しさや心細さを感知しているところがあるのではないかと思う。
これは霧子が自分の感情を植物や事物に投影しているという風に読み取ることもできるかもしれない。「投影」は精神分析の用語で、自分の中にある感情を、自分のものとしてではなく、他者が持っているものとして認知するという防衛機制のことである。自分の中にその感情があるということに耐えきれないために、無意識のうちにその感情を自分のものとしてではなく、他人が持っているものとして防衛するのである。例えば、ある人が自分のことを嫌っていていつも攻撃しようとしてくると思っているとする。だが本当は、嫌悪感や攻撃的感情はその人が持っているものではなく、自分自身がその人に対して抱いているものだったと判明することがある。こういう心理的な作用を投影と言う。
だが投影として読み取るのだとしたら、霧子が雪に緊張や心細さを感知しているとき、その緊張や心細さは本当は霧子の中にあるものだということになる。確かにそれは必ずしも誤りではないだろうと思う。プロデューサーは霧子に向かって「霧子も頑張ってる。みんな励まされてるんだ」と言うとちょっと慌てた後で、「プロデューサーさんがいたら怖くないです……!」と答えてくれる。
◇霧子自身の気持ちとさん付けの関係
ゼラニウムさんやユキノシタさんやコデマリさんやサボテンさんの心配をするとき、本当は全て霧子自身が孤独や寂しさや心細さを感じていたのだろうか。【伝・伝・心・音】「どなたですか」でゼラニウムさんと話しかけていたとき、プロデューサーが近づいたら霧子は逃げてしまった。霧子はそのとき何か繊細な状態にあったことがうかがえる。また【綿毛ノ想】「憧れ」で恋鐘の怪我を手当てするとき、ユキノシタの葉を一枚使うのだが、そのときユキノシタさんと声をかけている。恋鐘の怪我を手当てしなきゃといくらかの焦りの気持ちもあったかもしれない。コデマリさんは(ひょっとすると霧子が)小さなころから一緒だったと言っている。雨にうたれるサボテンさんを心配するとき、霧子は微熱があり熱を測っていた。どれもおそらく霧子自身の中に寂しさや心細さや緊張感があったのではないかと推測することができる。
りんごのうさぎが寂しそうだと察知したとき、霧子自身が何か寂しさのようなものを抱いていたのだろうか。りんごはいただきものだと言っていたが、これは青森の家から送られてきたものかもしれない。そうだとすれば霧子は離れて暮らしているおばあちゃんのことを思い浮かべたりしていたかもしれない。またこの場面はプロデューサーが事務所に帰ってきたところで、事務所には霧子しかいない雰囲気がある。そこで霧子はりんごを「可愛いりんごさんたち」と言う。そして確かにりんごのうさぎについてプロデューサーが「ちょこんとして、なんだか霧子みたいだ」と心の中で考えている。やはりこのとき霧子自身の中に寂しさのような感情があったかもしれないと考えることができる。
カメラのレンズさんと仲良くなったのは、テレビ出演をしたときで、そのとき霧子はおそらく緊張していたに違いない。ユニットメンバーは近くにいたはずだけれども、自分のパフォーマンスを誰に届けたらいいかということを考えたら、テレビの向こうの人は直接は見えないので、目の前にあるカメラのレンズを頼りにしたのかもしれない。また接着剤さんに来てもらおうとしたのは、カップが割れてしまったときだし、カップがカップさんになるのは割れてしまった後だった。
このように、さん付けをする対象が霧子の元にやってくるのは、霧子が孤独や寂しさや心細さや緊張を感じたとき、それを和らげるために霧子の隣人としてやってくるということなのではないか、と考えたくなる。それが現れているように思えるのは、【菜・菜・輪・舞】「夜がいっぱい」で事務所に帰ってきたときの場面だ。霧子は「ただいまー」と言って事務所に帰ってくるが、事務所は真っ暗だ。霧子は「誰もいない……」と寂しげである。玄関から廊下を通って部屋に入るとき、再び霧子は「ただいまー」と言う。「奥…… 真っ暗……」と言っていたから、おそらく霧子は誰もいないということを知っていたはずだ。それでも「ただいま」と言ったのである。そして部屋に入って霧子が気づいたのは、窓から見えた月だった。そして霧子はこう言う。「お月さまがいた……」そして笑顔を見せるのである。部屋に入ったプロデューサーは電気も点けないで」と気にかけるが、霧子はこう答える、「お月さまが…… 来てくれてます……」と。月が来てくれていたのだから、部屋は誰もいないわけではなかったのだ。
ひょっとして霧子は子どもの頃から寂しいときや心細いときに植物や事物に語りかけて、それらを自らの隣人としていたのかもしれない。霧子は誰もいない家に帰って来ても、窓から見えた月の姿や、あるいはもしかしたら家の中の鉢植えの植物などに向かって語りかけていたのかもしれない。家で月や植物やあるいは何かが霧子の隣人になってくれれば、霧子は一人ではないのである。
◆「おかえりなさい」と「ただいま」のその先に
◇楽しい
霧子は自分の口では寂しいとか心細いといった感情を口にすることはほとんどない。その一方で、霧子が頻繁に口にする感情がある。それが「楽しい」だ。
たとえば朝コミュでは新しい文房具が一緒だと勉強が「楽しい」と言う。イベント「マジーア・アンティーカ」の撮影が「楽しかった」と言う。お月見の読み聞かせで使う絵本を作ることについて「楽しそう」だと言う。【霧・霧・奇・譚】「綺」の夢の中のお茶会で「楽しいな」と思っている。【娘・娘・謹・賀】「いっぱいのかけ蕎麦」でアンティーカメンバーでそばを一緒に食べるのを「みんなでおそば…… 楽しいね……!」と言う。【菜・菜・輪・舞】「日曜日の」のセリフの中でケチャップ夫人がみんなで踊ろうと提案したとき「ふたりきりより 楽しいね」と言う。【鱗・鱗・謹・賀】「すごろく」で、ふりだしに戻ったときに、それをお正月になぞらえていて自分の一年間について「いいことと……楽しいこと…… ばっかり始まって……」と言う。
このように、霧子にとって「楽しい」というのは大事な感情だということをうかがうことができる。この「楽しい」という言葉が出てくるのは、霧子が誰かと一緒に何かをしている場面だということが多い。一杯の蕎麦をアンティーカのメンバーで分け合って食べているとき、新本の文房具と一緒に勉強をするとき、ふたりよりみんなで踊るとき、みんなで絵本を作る(のを決めようとしている)とき。
誰かと何かをしているときに霧子は「楽しい」と感じているようだとすると、これは孤独や寂しさや心細さと対極にある感情なのではないか、と考えたくなる。誰かが一緒にいたら楽しい。けれど近くに誰もいなかったら寂しかったり心細かったりする。そういうときに植物や何か物に隣人になってもらう。そうしたら楽しくなれる。
◇寂しいから楽しいへ
【鱗・鱗・謹・賀】の「いこうね」にそれが表れている。霧子はおばあちゃんの晴れ着を箪笥から出して、それを着て事務所にやって来た。その晴れ着には魚が描かれている。霧子がおばあちゃんから聞いた話では、もともとは無地の友禅だったのに、おばあちゃんが「お魚さんたち」と遊んでたら一緒についてきちゃった、とのこと。霧子はこの話を「そうかもしれないな」と受けとめる。プロデューサーとの会話を引用しよう。
「きっと……
お嫁に行く……おばあちゃん……
とっても……心細かったんです……
それで……
お魚さんたち……みんな……――」
「そうか……
おばあちゃんを、励ましてくれた着物なんだな」
「はい……
おばあちゃんは……
とっても……幸せになって……
わたしも今……
とってもとっても……楽しいお正月をしてて……
でも……
きっと……
苦しい人や……心細い人も……
いて……
だから……
お魚さんたち……
タンスから……出たいって……」
このように、お魚さんたちは寂しさや心細さを感じているときに励ましてくれる存在として登場している。霧子がさん付けをして隣人となってもらう存在は、寂しさや心細さを感じているときに励ましてくれる存在なのだ。
霧子の言葉を受け止めれば、霧子は今楽しいお正月を過ごすことができている。それは霧子自身が、おばあちゃんの着物を着てお魚さんたちと一緒にいるからだ。だがたぶんそれだけではない。「いこうね」の冒頭で、呼びかけられる魚を確認してみよう。それは「マグロさん」「カツオさん」「マンボウさん」「ヒラメさん」「フグさん」であるこれらは、霧子のsSSRで登場した魚たちだ。
マグロ、カツオ、マンボウ、ヒラメは同じお正月のエピソ―ドである【娘・娘・謹・賀】の「あけまして」に出てくるお寿司のガチャガチャである。そこでは大トロ、炙りガツオ、マンボウ、エンガワだった。エンガワは、ヒラメやカレイのヒレを動かす筋肉を使ったお寿司である。そしてフグは【潜・潜・夏・娘】に登場する。だから、【鱗・鱗・謹・賀】「いこうね」にてこれらの魚が「来てくれて」と霧子が言とき、霧子はアンティーカのメンバーとの思い出を反芻していると読むことができるのである。だから霧子は「楽しい」お正月を過ごせているのだ。
◇「行こう」
このように霧子は今楽しいと感じる日々を過ごすことができている。それではなぜお魚さんたちと一緒に着物を着てきたのだろうか。それはお魚さんたちが一年中タンスの中にしまわれていて寂しそうだったから、とも考えられる。それは否定できないと思う。
けれど、霧子の話の中で重要だと思われるのは、霧子自身の寂しさや心細さではない。霧子は、「苦しい人や……心細い人も…… いて…… だから…… お魚さんたち…… タンスから……出たいって……」と言っている。上で、さん付けをすることで何かに隣人になってもらうのは、霧子自身に寂しさや心細さや緊張感があるからではないか、と考えた。そこでは、霧子自身の感情が、無意識のうちに植物や事物の方に投影されているのではないか、ということも考えた。
だがここでは、もはや霧子自身の感情が問題になっているわけではない。霧子自身は、自分は楽しいと言っている。その上で、「苦しい人や心細い人もいる」と霧子は言う。そういう人たちのために、お魚さんたちはタンスから出たいと、霧子は考えるのだ。
霧子がさん付けをする対象は、ここで変化している。今まではおそらく霧子自身を励ますことがどこかにあったと思われる。けれどここでは、霧子以外の誰かを励ましたいという思いが感じられるのだ。
プロデューサーはおばあちゃんみたいに、霧子のことを応援したいと言ったうえで、「もっといろんなとこ、泳いでもらおうな!」と言うのである。これを聞いた霧子は嬉しそうに笑顔を返してくれる。「さぁ、行こう――」とプロデューサーが言って、2人が事務所から出ていく音でコミュの幕が下りる。ここでのプロデューサーの「行こう」は、霧子がお魚さんたちと一緒に心細い人たちを励ましに行くことについて一緒に行こう、と言っているように読むことができるのだ。だから霧子は嬉しかったのだと思う。
いままで霧子において問題になっていた運動は、「おかえりなさい」や「ただいま」だった。どちらかがどこかで待っていて(あるいは誰も待っていなくて)、もう一方がその場所へ返ってくる。そういう運動だった。だがここでは、片方が待っていたり、片方だけが運動したりするような、そういう運動ではない。ここで言われる言葉は「行こう」である。これはプロデューサーとアイドルの2人で一緒に歩いて行こうということだ。そしてそれは、寂しい人や心細い人たちを応援したり励ましたりしに行こうということだ。霧子とプロデューサーは今そういう段階に到達したのである。
【鱗・鱗・謹・賀】TRUEコミュの「家族写真」では、霧子の家族写真をプロデューサーに見せた後、一緒に写真を撮りますかと霧子はプロデューサーに言う。プロデューサーと霧子の2人が一緒に写真に写るということは、霧子とプロデューサーのどちらか一方だけが認識する側であるというわけでなく、どちらか一方だけが認識される客体であるというわけでもない。2人が2人とも、並んで一緒に写真の客体になっているのだ。プロデューサーと霧子の2人の写真は、家族写真でもピザトーストでもない。一体何と名付けられるのだろう。霧子と写真に映る自分がぎこちないとプロデューサーは感じるが、霧子はそんなプロデューサーに向かって「いつも…… 歩いてるみたいに……」と言う。「いつもみたいに…… 『行こう』……って……」。プロデューサーが「行こう、霧子!」と言って写真を撮り、「行きましょう…… プロデューサーさん……! いつもみたいに…… これからも……――」と霧子が答えてコミュが終わる。こうして「おかえりなさい」と「ただいま」の運動のその先で、2人は並んで歩いていく。
プロデュースコミュ「優しい失敗」の中の選択肢「そういう優しさは、大事にしたいけどな」の先でプロデューサーが言っていることを思い出す。「霧子のその気遣いとか……思いやりとかは、いつか必ず、もっと多くの人に届く」。2人の行く先で、霧子の優しさが届きますようにと私も願っている。
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