ファークライ6クリア。じつはクリアは少し前にしていて、どう読むべきかをえんえん考え続けていました。結果、4,000字近い感想に……。アホかよ。基本的にはめっちゃ楽しかった!ただ残念ながら褒めてるばかりではないです。ネタバレあります。
ゲームプレイにかんしてはシリーズ最高と断言できる。
めっっっっちゃ面白かった!!!!!!
スプレーモやリゾルバー武器のバカバカしさ、アミーゴたちのはちゃめちゃさとかわいさ、謎のニワトリ推しなど、これまでの良い所はもっと良くなり、悪いところ・ダルいところがすべて改善された。
個人的に特に嬉しかったのは以下の点。
・スキルツリー廃止
・拠点解放に、移動手段の解放や資材の獲得などの意味づけがなされ、作業感が大幅に減った
・装備変更がいつでも可能(じゃっかんUIに難ありだけど、でも嬉しい!)
・(ブンブン限定だけど)車の助手席に乗ってくれるアミーゴ
・ヤーラの風土が良すぎて、各ビークルも快適なので散歩が過去作イチはかどる。歩いてるだけで飽きない。最高。戦闘なしモードくれ!!
ストーリーについては、今までのファークライが「お前、強い武器を手に入れて、たくさん人を殺して、英雄だなんだって褒められて、いい気になっただろ? 殺して気持ちよかっただけのくせに」と意地悪く問いかけてくるゲームだとまとめてしまうなら、6は「いい気にならないためには、何が必要なんだろう?」とけっこう真面目に問いかけてきたのかな、というのがおもな印象。
また、プレイヤーと主人公を分離させた点──これまではシリーズが進む毎にプレイヤーの存在を自明なものとしていったのに対し、本作はその演出がかなり控えられた──も顕著な違いだとおもう。(唯一フアンだけがそれらしいことを言う。これについては後述。)(3の良さを復活させようとしたのかもしれないし、単にもう流行じゃないというのもあるのかもしれないがここでは措く。)
それは、作品内でダニー自身に「自分は銃だ」と語らせてもいることからも明らかだろう。
言葉どおり、ダニーはクララの、リベルタードの、圧政からの解放を求める人々の、そしてプレイヤーの銃となって物語を進めていくことになる。
しかし、当然ながら人間は装置ではない。
装置になることはできるが、装置でしかいられないということはない。
※※※ここから先、自分が感じた違和感の分析なので長いです。また、批判的なトーンを含みます※※※
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隠しエンディングを除くと、ゲーム内でダニーに訪れるもっとも大きな転機はクララ・ガルシアの死だろう。
それまでは「トップを殺すこと」だけが大きな目標だった。ラスボスを倒しさえすればヤーラはクララがどうにかしてくれるはずだった。
だが統率者の死というアクシデントに見舞われた銃たち(リベルタードのメンバーだけでなく、プレイヤーも含めて)は、そこでいったん立ち止まり、革命のその先について考えることを余儀なくされる。いわば銃をあつかう頭脳が失われたことによって銃は自律することを促されるわけだが、これはクララの思想とも呼応している。
クララの思想とは、各地のアジ文を読めばわかるとおり「代表者などいない。一人一人が日々のなかで行う抵抗こそが革命である」「暴力を用いた戦いに加わらなくとも、革命は遂行できる。考えつづけろ」というものだった。
彼女の最終目標は、ゲーム冒頭に本人の口から語られるとおり「革命と内戦の悪循環からヤーラを解放する」ことにあり、目的のためならばカスティロと手を取ることさえもあり得る、と言う。
(余談だが、私はこの言葉が出るイベントで感動してすこし泣いた。まさかファークライでここまで前向きな言葉が聞けると思わなかったので。)
さらに、アントンとディエゴ、クララの不本意な三者会談のなかで、アントンの余命はいくばくもないという事実もあきらかになる。つまり、あと数年も待てば、無血開城とまではいかずとも、次期大統領となる穏健派のディエゴと、やはり革命家としては穏健派ともいえるクララが手を取り合い、融和する未来も選択できたはずなのだ。
しかし話し合いの場に持ち込まれた銃たち(フアンとダニー)の存在によって、その未来は永遠に失われてしまう。
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さて、「悪循環から抜け出す」というテーマをもつ象徴的なイベントとしてもうひとつ重要なものがある。カナダのクソ野郎ことマッケイの最終的な処分を決めるイベントだ。
プレイヤーがダニーの意志決定に介入できることが少ない6にあって、プレイヤーの思想をダイレクトに反映できる唯一のイベントといって良い。
その点でも、マッケイ最終処理イベントは他と異なっている。
提示される選択肢は、先を見据えて悪循環から抜けるために暴力をふるうのか、平和的解決ではある上に現状もしのげるが悪循環を作り出すシステムの一部に取り込まれるか、の二択だ。
そして、この最悪の選択肢を作ってしまう切っ掛けもまたフアンである。これも大きなポイントだろう。
(いちおう補足しておくと、マッケイについては取引が提示される前であれば殺す必要は(復讐以外なら)ほとんどない。ヤーラ国内と違って彼は民主主義の国の人間であり、あれだけの不正事実があれば社会的に殺す方法はいくつか考えられるからだ。しかし、フアンが取引を受けてしまったことにより、殺さないことは即ち金を受け取ることを意味するようになってしまう。それは搾取のマッチポンプに加担する行為にほかならない。ここでもフアンの暴力への麻痺が、平和的解決にいたる可能性をひとつ潰しているわけだ。)
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言うまでもなく、フアンが象徴するのは暴力の虜となって思想をなくした者の末路だ。
思想に支えられていない行動/無理解/暴力が、他者の選択の幅さえ狭めてしまう構図は、物語でも繰り返し描かれる。
そして、その構図が最悪のかたちで結実するのがエンディングだ。
アントンがディエゴを殺してしまうのは、共依存的なエゴももちろんあっただろうが、それ以上にかつて自分が革命者たちから受けた仕打ちが、今度はディエゴに対してふるわれるのではないかと恐れたのではないだろうか。愛する息子に同じ辛酸を嘗めさせないために、追いつめられた独裁者は最愛の人を手に掛けることを選んだ。
アントン・カスティロは、暴力のトラウマを克服することができなかったからこそ狂っていったのだともいえる。
結果、物語は暴力の連鎖が生み出す最悪の結末を提示する。
革命という大義はなされたが、(表に出しては)ほとんど語られることのなかったダニー個人の戦いとしては完全な敗北といっていい。
そこに、自身を銃と見なし、個であることを放棄した罰を見いだすことも可能かもしれない。
そこは個々のプレイヤーに委ねられる部分だろう。
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ここまでを総合すると、「力はどう使うか考えるべきだし、たとえ考えても悲劇を止められない可能性もある。その事実を痛みとともに知っておくべきだ。で、君はどうする?」という、ファークライにしてはお行儀の良いメッセージが読み取れる……の、かも、しれない。
かくして、革命と内戦の循環は続いてしまった。
フアンが戦闘続行を高らかに告げる。
ダニーがニヤリと笑って応じる──ここが、私にはどうしてもしっくり来なかった。
そもそも、フアンだけは(“従来の”ファークライのような)画面越しのメッセージとも取れるセリフを序盤から口にするが、これが浮く。ダニーが内戦継続を望んでいるような描写は見当たらない。銃であるからには戦いがないとアイデンティティを保てない、というのはあるかもしれないが、それにしたって「継続を望んでいる」は言い過ぎである。あるいは自分の罪悪感をダニーに転化しているだけなのだろうか。
また、プレイヤー宛だとするなら、それはそれで的外れではある。ディエゴが死ぬのを阻止できるならセーブデータが消えようがゲームプレイの大半を失おうが問題ない、と考えるプレイヤーもそれなりにいることは想像に難くない。私もそうだ。むしろ平和になったヤーラを歩きたい。スプレーモが使えなくても問題ないし、戦闘が完全になくなるのも歓迎する。
要するに、戦闘以外のゲームプレイが充実したばっかりに、戦闘にそこまで固執せずともこのゲームは楽しめてしまうのだ。メタな皮肉を飛ばすなら、まずは自身の姿を正確に把握する必要があるだろう。
いずれにせよ、フアンの“皮肉”は皮肉にしては照準がしぼりきれておらず、いまひとつ機能していない。
加えて、物語が進むにつれ個人の輪郭が立ち上がっていったダニーの姿が、ラストのフアンとの会話で突然かき消え、ふたたび「プレイヤーの銃」に戻ってしまったような気がした。
今まで私が見てきたダニー・ロハスとはいったい誰だったのか。
もしかして「な~んちゃって☆ そんな真面目なわけないじゃーん、これファークライだよ☆」ということなのかな……とはおもったものの、それは私のおもう“ファークライ観”とはちょっとズレている。
胸糞エンドはファークライの華と言うけれど(言うか?)、これまでのファークライのいわゆる“鬱エンド”に、ただ鬱なだけ、ただ残酷なだけ、ただ冷笑的なだけというものはなかったようにおもう。べつにそういうのがダメではないけれど、ファークライのポリシーとしてなにかしら意味があったように私は感じていた。
(5がそのような評価を下されがちなのは知っているけれど、私の見解は異なる。プレイヤーに対する悪意の塊のようなあのエンディングを支えているのは“間違っている”者たちへの深いシンパシーであり、分断への怒りである。あんなに優しくて馬鹿馬鹿しい最高のエンディングは、なかなかない。)
物語が問うたことと、ゲームシステムがここまで乖離してしまうと、さすがに据わりが悪い。
新コンテンツが投下されれば色々と考えていたプレイヤーたちも嬉々として戦闘に戻ってくるだろうが、それがフアンの言う「そんなことはそのうちどうでもよくなる」に当たるのだろうか? さすがに即物的すぎないか。ならば、最初から物語など必要ないではないか。
では、不要なものとして括ってしまえるほど、物語に描かれた悲しみ怒りや苦しみは軽いものなのか。そんなことはない。少なくとも、冗談として笑いに紛らしていいたぐいのものではなかった。それに、ファークライはそうした普遍的な怒りをバカにすることだけは、今までも決してしてこなかったはずなのだ。
冒頭に書いたように、ファークライは今回、既定路線とは正反対の方向にシフトチェンジを行っているように見える。それなのに、表面上は“いつもの”ファークライであることを装おうとしているように感じられてしまったというのも、正直に言うと不信感を抱いた理由のひとつだ。なんだかデ●ズニーみたいになことしやがるなというか……。
繰り返しになるが、だってファークライは、照れ隠しのふざけ顔の裏で、いつだって真面目に(厨二病スレスレの青さで)シリアスな問いかけをしてきたじゃないか。真意には気づく奴だけ気づけばいいとバカをやるのがファークライの心意気で、今回みたいに正面切って真面目な問いを発したあとで「なーんつって!」と誤魔化すのは違う。ぜんぜんイケてない。
プレイヤーとして信じてもらえなかったような、急に営業スマイルをキメて遠くに行かれてしまったような気がして、なんだか寂しかった。
あとこれは完全に好き嫌いだろうけど、最後にバース(だよね?)が登場するのは蛇足だったかなとおもう。ああやって物語に絡めてしまうと世界がそこで閉じて狭くなってしまうので、他のパガン・ミンやシード・ファミリーのような形だけで良かったように思う。
でもまあ、ゲーム自体はめちゃめちゃ面白かったです。
マジで面白かった。こんどはCOOPでストーリーもう一周行ってみたいとおもうくらいひどくて(褒めことば)最高です。DLCも楽しみだよ!