というわけでね、火蛾がミステリの歴史に残るべき傑作であり怪作であることなんてみんなご存知だと思いますが、せっかくの再読なのでこの作品の"ミステリ"としての特異な構造について思うところを語ってみようと思います
以下クソ長オタク語り
さて、火蛾のことを俺は今までミステリの枠組みを踏み台にした幻想小説であるという認識でいたんですよね。だって密室の謎とかアリーくんは最初から興味ないし、事件自体がほとんど夢オチだし……どちらかといえば虚構の殺人事件を隠れ蓑に「ウワイス派とは何か」を真の謎として投げかける歴史ロマンミステリとして評価しており、その過程でまるで自分が物語の当事者として幻覚を見るかのように奇跡を擬似体験する宗教小説だと思っていた。いたのですが……なるほどこれは読み返すとしっかりとミステリだし、近年話題の多重解決ミステリでさえある。すごいねこれ。ミステリとしての火蛾を正直ちょっと舐めてたわ、申し訳ねぇ。
ご存知の通り、作中で語られる事件のほとんどはシャムウーンが演出しアリーがみた幻覚であり、さらにアリーがファリードに聞かせるために設えた〈物語〉であるというメタ的構造も備え、この時点でいわゆる正統派のミステリとは一線を画す。起きてねぇもんな、事件。その"宗教的幻想"のなか、どこまでが現実でどこからが幻覚だったのかを闡明することが真相に繋がり、さらにそのパターンによって以下に示す三通りの"別解"が提示されるのは非常に面白い。
解1:導師ハラカーニーはアリーのみた幻覚である。
アリー自身が犯人ではありえず、シャムウーンがゾロアスター教徒であることから、理由は不明だがカーシムをホセインが殺し、ホセインをシャムウーンが殺したと推理される。
解2:導師ハラカーニーをはじめとした全ての光景はアリーのみた幻覚である。
三人の修行者は他宗派の教義=言葉を担う我欲(ナフス)の顕現であり、その滅却を経てウワイス派にとってのムジャーハダを完遂する宗教的過程の隠喩となっている。
解3:導師ハラカーニーの存在のみが現実で、それ以外の全ては幻覚である。
カーシム→ホセイン→シャムウーンの殺人の連鎖は生と死の連環によるウワイス派の法統の伝授を示唆し、アリーがシャムウーンを殺すことで第五・第六の階梯が同時に達成される。
かたやナフス=言葉の滅却、かたやウワイス派の法統の伝授=師の否定という二つの"ムジャーハダ"の様子がダブルミーニングとして語られ、何が真実かなどは「つまらない問い」にすぎず、両者は異なる真相でありながら同等の真実としてアリーを高位へと導く。多重解決ミステリの多重解決部分をひとつの目的をなして互いに補完する宗教体験として昇華させた大傑作ミステリじゃん?
本作は、〈物語〉をきくもの=探偵の役割にも自覚的だ。事件の真贋はもはや問題ではなく、それをファリードにきかせたその意図が最後の真相を指し示す。禅問答じみた謎を解くことが階梯をのぼる道であり、一方で全てを言葉で闡明してしまったからこそファリードは短刀を取り落とした。探偵の目だけを共有しながら具体的な真相に思い至らない我々読者は、ファリードが火蛾になり損ねた様をみて、あぁ、あれはそういうことだったのか……と悪夢から覚めたような放心のなか明るい日の光のもとに放り出される。ファリードさんが救ってくれただけで我々も火に飛び込む寸前だったんですね。オラッ!お前も火蛾になるんだよ!!
こうして、幻想のなかでみた景色の重ね合わせが二つの意味をもちファリードに、そして読者に襲い掛かり、気がついたら自分も物語の放つ濃厚な煙霧に囚われていることを知る。
多重解決という"ミステリという〈物語〉が孕む真相の多重性・不確定性"、そして探偵という"真実を闡明する者に与えられた役割"をここまで徹底的に練り上げ、その真相の重ね合わせがある種の幻惑的宗教体験として読者をある種の魔法にかける手際には本当に驚く他ない。う〜ん傑作!
「気がついたら手に短刀を握らされてるし、問答無用で火蛾になり損ねた悲しき蛾にされるのでマジで最悪」という評がめちゃくちゃ好きなんだけど、この作品の魅力を端的にあらわした名レビューだと思っている。作中で幾度となく象徴的アイテムとして描かれる穹廬は外界から隔絶され帳に囲まれ内部に神秘を宿した結界としての役割を果たしており、各章のアバンでむせかえるようにたちこめる煙は次第に濃さを増して視界とともに読者の正気をも奪う。俺は境地(ハール)なんて目指してないのに、いつの間にか目指してたような……唯一絶対の神に辿り着くことを希うような……あれ?もしかしたらワシ、デルヴィーシュだったかもしれん……
そして短刀が落ちる音とともに結界は砕け、穹廬を出て見上げる蒼穹に夢から覚めたような虚脱感を味わわされ、もう少しで足を踏み入れたかもしれない聖地への道に一抹の憧れにも似た想いを馳せながら物語の世界を去る──いややっぱこれゴリゴリの幻想小説だわ!
メタミステリ、多重解決ミステリ、幻想小説、これらを宗教を触媒に高度に融合させた小説、それが第十七回メフィスト賞受賞作にしてミステリという土壌が産んだ世紀の怪作、古泉迦十の『火蛾』なのです。
ミステリというジャンルが持つ懐の深さに感謝が絶えない。これからは火蛾を「おすすめミステリ」として自信を持っておすすめしていくことにします。よろしくなァ!