セミであるとはどのようなことか――幽谷霧子「みんみん」について
初出:2020年11月14日Privatterに投稿
初出時より一部修正
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今回は【我・思・君・思】幽谷霧子の1番目のコミュ「みんみん」の話です。「かなかな」ではなく「みんみん」の方です。
【我・思・君・思】「かなかな」はデカルトの夢の懐疑を取り扱いつつ、デカルトとは異なった霧子独自の世界観が語られた衝撃的なコミュでした。私がシャニマスの沼に落ちたきっかけとなったコミュで、あまりに衝撃的だったので、「かなかな」について繰り返し文章を書いてしまったほどです。
一方の「みんみん」はというと、これはアンティーカの面々がセミの真似をするというコミュです。楽しくてちょっと笑ってしまうコミュで、取り立てて読解したり分析したりするようなところはないようにも思えていたんですが、後になって「みんみん」の方にも霧子コミュとしてのポイントがあったのではないか、と思うようになりました。今回はそんな「みんみん」についてのお話です。
「みんみん」のコミュの中にあるいくつかのポイントに注目して読み、「みんみん」が「かなかな」とともに【我・思・君・思】の中に収められていることについても考え、そして【我・思・君・思】と【君・空・我・空】との対比について考えていきます。
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「みんみん」のコミュの中でセミの真似を最初に始めたのは恋鐘です。「セミやったら…… こがん暑かこともなかかな~って!」と言っていて、セミの真似をしてみたら暑さが和らぐのではないかということを試しているようです。結華は恋鐘の言っていることを理解しますが、摩美々は「よけい暑いんだケド……」といつもの感じです。恋鐘の話に対して一番最初に興味を示したのは咲耶で、咲耶は「おもしろい趣向」だと言い、次のように話します。
咲耶 「この世界を知覚する方法は、なにもヒトの行うそればかりじゃない…… うん、ひとつ私も検証してみよう」
そしてこのように言って自分もセミの真似をし始めます。その後三峰も加わって、3人のセミの合唱が始まるのです。
ここで咲耶が言っている「この世界を知覚する方法」という話が最初のポイントになると思います。セミにはセミの、世界を知覚する方法があるということです。恋鐘がセミの真似をし始めたのは、セミの真似をしてみれば暑さが和らぐのではないかという発想によるのですが、咲耶がこう言ったことによって、そこにはセミが知覚する世界について考えてみようという意味が加わることになるのです。
哲学者のトマス・ネーゲルの有名な論文に「コウモリであるとはどのようなことか」という論文があります(永井均訳『コウモリであるとはどのようなことか』,1987年,勁草書房)。これは意識の存在を、脳の神経などの物理的なものに還元して説明しようとする立場を批判する目的で書かれた論文なのですが、コウモリを例に挙げてその批判を行っているところがまた面白い論文でもあります。
コウモリはソナーを使って超音波で外界を認識しています。それは人間が視覚を用いて外界を認識するようなものです。ですが、コウモリのソナーに相当するものは人間の感覚器官にはありません。そうであるとすると、コウモリが外界を認識しながら生きているその体験を、人間が想像することは難しくなります。
コウモリの身体や脳や感覚器官をいくら客観的に調べて知ることができても、そのことによってコウモリ自身の意識体験を知ることはできません。また、自分がコウモリであったとして、コウモリみたいにぶら下がって生活する所などを想像してみても、それは私にとってどのようなことであるかという想像であって、コウモリにとってコウモリであることがどのようなことであるかを知ることにはならないのです。
このように、人間がコウモリであるということの意識体験そのものを知ることは非常に難しいことなのです。それは、人間とコウモリは異なる生物種であって、身体の作りや生活の仕方があまりに違うからです。
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さて、ネーゲルのこの話に基づくなら、セミの真似をしてみたとしても、セミが知覚する世界を知ることはできない、ということになります。そうであるなら、やはり暑さが和らぐこともありません。
ですが、われわれは知っています。霧子が、ゼラニウムやコデマリやサボテンや雪やカップや接着剤やカモミールやカメラのレンズの気持ちを考えている、ということをです。これらは植物や無機物であり、そもそも意識があるということについて想定しづらいものたちです。霧子はそういうものの気持ちについてよく考えているのです。
気持ちについて考えているといっても、霧子はそれらに本当に意識があると思っているわけではないようです。なぜ霧子はこれらの気持ちについて考えているのか、それを読みとくポイントになるコミュは、【白・白・白・祈】True「そこにいますか、雪」と、【鱗・鱗・謹・賀】「いこうね」です。
「そこにいますか、雪」では、雑誌のインタビュー記事で「雪はとっても偉いです」と話していることが語られています。そして録音スタジオの建物の屋上で、霧子とプロデューサーは降ってくる雪を見ます。霧子が一番最初に降ってくる雪について「他のみんなも…… 励まされたんだよ」と言ったのに対し、プロデューサーは「霧子もそうだよ」「みんな励まされてる」と答えるのです。霧子が雪に対して思っていることを、プロデューサーは霧子に対して思うわけです。ここで霧子が見ている雪が、プロデューサーから見える霧子自身と重なるのです。霧子が身近にある植物や無機物の気持ちに思いを馳せるとき、実はそこに霧子自身が投影されているということが考えられるのです。
もう一つの「いこうね」は、霧子のおばあちゃんが着ていたという着物の話です。その着物には魚が描かれており、霧子が言うには、その魚は霧子のおばあちゃんが結婚するときに、おばあちゃんを励ますために付いてきたんだというのです。ポイントは、励ますために付いてきたというところにあると思います。このことを基づいて考えると、霧子が植物や無機物に語りかけ、さん付けで呼びかけ、その気持ちに思いをはせるのは、それら植物や無機物に寄り添ってもらうためなのではないか、と考えられるのです。
つまり、寄り添ってもらうために植物や無機物に語りかけ、それらの気持ちに思いをはせるのですが、そのときには霧子自身が投影されている、と考えられるのです。
そして霧子はセミの気持ちにも思いを馳せています。霧子の言葉を見てみましょう。
霧子 「――――摩美々ちゃん……あのね…… セミさんの気持ち…… こんなかなって…… 暗いところから…… 出てきて…… ああ……お日さま…… はじめまして……って…………」
霧子 「お外…… 気持ちいいな……って………… ふふ…… きっと……気持ちいいの…… セミさん……」
ここには3つのポイントがあると思われます。順番に、1つ目は暗いところから出てくるということ、2つ目はお日さまに挨拶すること、そして3つ目はお外は気持ちいいということです。1つ目のポイントは、このコミュが「かなかな」とともに【我・思・君・思】に収められていることに関係していると思うのですが、このことはまた後で取り上げようと思います。ここでは後ろの2つのポイントについてです。
まずは2つ目のポイントの、お日さまに挨拶することについてです。このポイントから連想する霧子のコミュが1つあります。それは【菜・菜・輪・舞】「夜がいっぱい」です。
このコミュは、夜に霧子がプロデューサーとともに事務所に帰ってくるところから始まります。プロデューサーは車を停めに行っていて、霧子はここでは1人です。帰ってきたときに霧子は「ただいまー」と言うのですが、事務所は真っ暗です。「誰もいない……」と霧子は寂しげに零します。玄関の明かりは付けましたが、奥は真っ暗です。廊下を通って真っ暗の部屋に入るとき、霧子はまた「ただいまー」と言います。部屋が真っ暗で誰もいないのにただいまと言うところに霧子の特徴が感じられますよね。で、霧子は何かに気がついてこう言います。「ふふ…… お月さまがいた……」。そして霧子は嬉しそうに笑います。その後遅れてプロデューサーが帰ってきて、真っ暗な部屋に1人でいる霧子に向かって「どうしたんだ」と声をかけるのですが、霧子は「お月さまが…… 来てくれてます……」と答えるのです。
「来てくれてます」という言い方から、お月さまは、霧子に寄り添ってくれる植物や魚や無機物と同系列の存在だということが推察できます。真っ暗な事務所の部屋に1人で帰ってきたけれど、実はお月さまが来てくれいて1人ではなかったのです。そして霧子が窓を開けたいと言ったとき、プロデューサーが「お月さまにご挨拶だ」と言うのです。
セミが土から出てきて無事に羽化が済むと、セミは空へと飛び立っていく。そのときセミは独りきりです。ですが、実は独りきりではないのです。空にはお日さまがいるからです。そこでお日さまに挨拶をするのです。「ああ……お日さま…… はじめまして……」。「夜がいっぱい」のコミュでも、「虫が……鳴いてる」の選択肢の先で、虫の音について霧子はこういいます。「コオロギさんたち…… お月さまと……会話してるのかも……」と。セミが鳴いているのも、ひょっとするとお日さまと会話しているのかもしれないのだと思えてきます。
で、3つ目のポイントの、お外が気持ちいということについて。ここには、セミはお外を暑がっているのではなくて、気持ちいいと思っているのだということが示唆されています。ずっと暗い土の中で過ごしてきて、やっとそこから出てきて、お日さまに会うことができて、空を飛び回ることができる。それはきっと暑くて辛いなんてことはなくて、すごく気持ちのいいことなんだと。霧子にならってセミの気持ちを考えてみれば、この暑さだって気持ちのいいことに思えてくるような気がします。セミの気持ちになってみれば、暑さが和らぐのではないか、ということはこうしてみると上手くいくような気もしてきますよね。
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そして後回しにしていた最初のポイント、暗いところから出てくるということについて。
セミは成虫でいる時間よりも、土の中で幼虫として過ごす時間の方がずっと長い昆虫です。セミの成虫の寿命は昔は1、2週間と考えられてきましたが、最近は1か月ほど生きるとされるようになってきました。ですがそれでも幼虫として過ごす時間を考えればずっと短いです。幼虫は何年も土の中で過ごすからです。1か月は成虫として外を飛び回ることができるわけですが、土の中で幼虫として過ごす時間の長さを考えると、まるで一瞬のことのようになりそうです………
この時間の長さのあまりの違いについて考えてみると、頭の中に問いが浮かんできます。幼虫として土の中で過ごす時間の方がずっと長くて、成虫として外を飛び回る時間がまるで一瞬のような時間なのだとすれば、成虫として飛び回る時間はまるで夢のようなものなのではないか、という問いです。死の直前に一瞬天国を夢見るかのような……
でもこの問いはちょっと変なような気がします。だって、外の世界は現実世界だし、むしろ土の中にいる間の方が眠っているようなものなのではないか、と思えるからです。セミは成虫になって土の外に出て、やっと夢から覚めて現実に出てくるのではないのか。このように考えると、土の中で過ごす時間の方が夢なのか、土の外を飛び回る時間の方が夢なのか、分からなくなってきます。
そして、この眠りと目覚め、あるいは夢と現実との間の区別が、反転しうるのではないかという問いこそ、【我・思・君・思】「かなかな」で問われていたことなのでした。このようにセミの生涯について考えてみることで、「かなかな」の問題へと繋がっていくのです。ここに、「みんみん」が「かなかな」とともに【我・思・君・思】に収められている理由があるのではないか、と私は思うようになりました。
土の中で何年も1人で過ごして、やっと外へ出てこられる。土の中で過ごした時間に比べれば、外で過ごせる時間などほんの一瞬のようなもの。土の中の時間の方が現実で、外で過ごす時間は夢のようなものなのかもしれない。けれど外の世界にはお日さまがいて、他のセミたちもいる。それはなんと素晴らしいことだろう…… 暑さなんてきっと苦にはならなくて、それがたとえ夢のようなものだったとしても、外で過ごすのはきっと気持ちのいいことなのだ…… と、霧子が語るセミの気持ちは、このように思えてくるのです。
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「ひぐらしのなく頃に」に登場する竜宮レナというキャラクターは、言葉の最後に「かな?かな?」とつけて、ヒグラシの鳴き声を模倣しながら疑問や確認を示しています。霧子のコミュタイトル「かなかな」はヒグラシの鳴くような夕日の射す時間帯が舞台になっているとともに、コミュの内容も懐疑論を取り上げていて問いや可能性が主題になっています。そのように「かなかな」もまた鳴き声と内容に繋がりがあるように思えてきます。
こう考えると、「みんみん」の方は、ミンミンゼミの鳴き声の真似でありつつ、「眠」の音が聞こえてくるような気がしてきます。眠りと夢。セミが幼虫として過ごす土の中を眠りの時間として捉えつつ、同時に「かなかな」での主題の準備がここでなされていたのだという気がしてきます。
「かなかな」では、夢と現実の区別が反転しうるのではないかということが問われ、それらの区別は曖昧になっていきます。カードイラストは、廃墟のソファに座る咲耶と霧子の2人が描かれる印象的なものになっていますが、コミュの演出を見ると、この廃墟世界こそが実は現実なのではないかとさえ思えるような一瞬が差し挟まれます。カードイラストに描かれたような廃墟世界が現実で、そこに生きる霧子が、283プロに所属してアイドルとして羽ばたく夢を見ている、かのように。セミの生涯がここに重なってくるわけです。
すると、「みんみん」の楽しそうなコミュは、それ自体が成虫になって土の中から出てきて空を飛び回るセミに相当して見えてきます。つまり、一瞬で終わって消えてしまうような夢の中のことかもしれない、という風に。
空を飛ぶというのは、シャニマスにおいてはアイドルとして活動することを意味する隠喩です。そして同時に、空を飛ぶというのは、人間には生身では絶対にできないことであり、もしそれができたとしたらそれは映画などのフィクションの世界か、あるいは夢の中であることを意味するものです。セミが空を飛び回ること、283プロに所属してアイドル活動をすること、これらが夢の中のことかもしれないということに繋がっていくのです。
ここで、霧子がセミに見出していることが、霧子自身と重なって見えてきます。屋上で見た雪が、霧子そのものに見えたように。セミが外に出てきて、お日さまや他のセミに会えたように、霧子もまたアイドルになったことでアンティーカのメンバーと会うことができた。アンティーカの面々で一緒に何かをしているときに霧子は繰り返し「楽しい」と言っています。【鱗・鱗・謹・賀】「いこうね」の冒頭で挙げられた魚は、【娘・娘・謹・賀】のガチャガチャの魚と【潜・潜・夏・娘】のフグでした。魚たちは励ますためにそばに寄り添ってくれるものたちです。それゆえ霧子のそばに寄り添っていくれているのは、植物や無機物だけでなく、アンティーカのメンバーもそうなのだと思えてきます。ですが、こうした生活がまるごと、本当は夢であるのかもしれない……
【我・思・君・思】「みんみん」は、「かなかな」と合わせてこのような位置をもつコミュとして読めるのではないか、と私は思うのです。
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このように見てみると、【我・思・君・思】と【我・空・君・空】は対になっているようにも思えてきます。最後にこの2つのカードの対比について考えてみたいと思います。
【我・空・君・空】は、特に1つ目のコミュの「おでこの空」は、他人の心の中は直接的には見えない、クオリアの問題を取り上げたものだ、という読み方があります。これはありうる読みだと思います。
【我・思・君・思】「みんみん」は、いわばセミの意識体験について思いを馳せるコミュだったと言うこともできると思います。ですがそこには、ネーゲルが言ったように、人間とセミとの間の生物種の違いによる距離があります。セミは人間とは異なった身体をもち、人間とは異なった生活をしています。だからセミがどのような意識体験を持っているかを想像するのは難しい。
確かにセミの意識体験を想像するのは難しいことです。ですが、セミの意識体験を想像することが難しいのだとすれば、他の人間の意識体験を想像することもまた、難しいのではないのでしょうか。ネーゲルはこの問題についてははっきりと違う、と言っています。人間同士は似ているので、別の人間の視点を取ってみるということができる。視点の持ち方には型がある、ということをネーゲルは言っています。いわばコウモリやセミは、人間とはあまり似ていないために、視点の型が異なっていて、人間にはその視点を取ってみるということが難しい、というわけです。
ですが、ネーゲルに反して、やはり型が似ているからといって、他の人間の意識体験を知ることは難しいのではないか、難しいどころかそれは不可能なのではないか、と言いたくなるところでもあります。この問題のポイントに立ってみると、クオリアという問題も見えてきます。どんなに他人に共感することができたとしても、どんなに他人が言っている他人の感覚の言葉が理解できたとしても、どんなに他人の感覚が想像できたとしても、他人の感じている感覚それそのものを直接的には知ることはできない。そして【君・空・我・空】の「おでこの空」にたどり着く、というわけです。
ですが、今回「みんみん」について考えてきたことに沿って、もう一つ別の見方が可能だと思っています。私個人的には、こちらの方により興味を惹かれます。それは、夢と現実に関する見方です。
今回は「みんみん」と「かなかな」を、次のように見てみることができるのではないかと考えたのでした。それは、「かなかな」で一瞬垣間見えた廃墟世界を現実の世界とし、「みんみん」で描かれたアンティーカ5人で過ごす世界の方を夢の世界として見るという見方です。【君・空・我・空】のコミュは、この逆のように見ることができます。それは、「おでこの空」のコミュを、「熱がありました」のコミュの中の霧子が見ている夢として読むという見方です。
この見方は、人から教えてもらったもので、次のTogetterでそれを読むことができます。
「【君・空・我・空】幽谷霧子に夢中になる話」
https://togetter.com/li/1492381
私個人的には、【君・空・我・空】に関してはこの読み方により興味を惹かれます。実は「みんみん」のセミを夢と現実をまたがって生きるものとして読む読み方を思いついたのは、この【君・空・我・空】の読み方を教えてもらったときでした。
こうして見ると、【我・思・君・思】は、アンティーカの5人で過ごす生活が夢かもしれないものとして描かれたものとして見え、一方の【君・空・我・空】はアンティーカの5人で過ごす生活は夢の外の現実が描かれたものとして見える気がしてきます。これ自体もまた、「かなかな」で問われていたように、現実と夢との区別の反転、あるいはその区別の消失のようにも見えてきます。【我・思・君・思】と【君・空・我・空】は、こんな風にも対になっているように見えるのです。
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以上、【我・思・君・思】「みんみん」について注目して、【我・思・君・思】の2つのコミュの関係と、【我・思・君・思】と【君・空・我・空】との対比について考えてきました。「みんみん」は最初見たときは「かなかな」に比べて取り立てて話すべきポイントがあるように思えなかったのですが、登場から1年以上経ってやっとそのポイントを考えることができ、それを通じて【我・思・君・思】のカード全体をさらに味わうことができたような気がします。
今回「みんみん」を読んで霧子について考えるにあたって土台となっている霧子像は、今年(2020年)1月に【鱗・鱗・謹・賀】が登場したときに書いた次の文章が元になっています。
「「おかえりなさい」と「ただいま」のその先に――幽谷霧子の世界観とさん付けされる隣人を通して」
https://fusetter.com/tw/Q9Y56Izv#all
この文章では霧子のさん付け問題についても考えているのですが、これは高山Pが「物語性があるかどうか」と語られる前に考えたものです。「物語性があるかどうか」が公式の答えということになっていますが、それでは「物語性があるかどうか」というのは一体どういうことなのか、そもそも公式から「答え」が与えられるにあたってそこで語られている言葉を十全なものとして受け取っていいのかどうか、など個人的には問いが浮かびます。
私個人的には、この文章で考えたことによって霧子像がより明確になったような気がしているのですが、【鱗・鱗・謹・賀】登場から10か月ほど経過して、いまだ霧子のpSSRは登場しておらず、そもそもプロデュースカード自体が登場していません。GRAD編の実装がありましたが、その中では形而上学に触れるような内容も、夢や現実について語られることもありませんでした。
次の霧子のpSSRが登場したときには、上の文章で書いたような霧子像を、つまり今回考えたような霧子像を、根本的に書き換えなければならなくなるような気が、なんとなくしています。それは今まで霧子について考えてきたことが実は間違いであるかもしれないということでもあり、同時に霧子についてもっと知ることができるようになるということでもあります。ですから次のpSSRの登場は楽しみでなりません。それに次に来るpSSRは限定であるということがほぼ確実視されていますし、早く来てほしいという気持ちは日々募るばかりです。
今回この文章をそのpSSR登場前に書くことができて、ほっと胸をなでおろしています。この文章が霧子読解の助けになれば、また次に来る霧子pSSRについて考えるための補助線になればいいなと、思っています。
*Privatterの投稿は削除済み