〈現実〉の夢――幽谷霧子の世界観について
※1:本記事は、2020年9月に発行、頒布された『幽谷霧子学会合同 vol.1』(https://ecs.toranoana.jp/tora/ec/item/040030853104/)に収録された拙論考に少しの修正を加えたものです。合同誌の発行から1年が経過し、公開に関して主催者の許可が下りたのでこちらで公開します。
※2:本記事は2021年9月23日から2022年9月9日までPrivatterにて公開されていました。Privatterにおける投稿は現在は削除済み。
◇はじめに
幽谷霧子のコミュの中では、繰り返し夢が描かれる。眠っている間に見る夢である。しかし霧子が夢に対して見せる態度は普通の人のそれとは大きく異なっている。ここに霧子の独特の世界観が現れているように思われる。
本稿では、夢について描かれた霧子のコミュを読み直すことで、霧子の世界観について考えていく。具体的には、sSSR【霧・霧・奇・譚】と、sSR【我・思・君・思】の「かなかな」である。【霧・霧・奇・譚】では夢と現実に対する霧子の独特の態度が描かれていて霧子の世界観をうかがい知ることができ、【我・思・君・思】「かなかな」ではよりラディカルな霧子の世界観を読み取ることができる。これらのコミュから読み取ることができる霧子の世界観は、現実世界の中に生きている人間が一時的に夢という幻覚を見るという世界観とは大きく異なっている。そして、人間や事物が夢と現実を越境して存在するような、そういう世界観でもある。
◇【霧・霧・奇・譚】の夢と現実
【霧・霧・奇・譚】は四つのコミュからなる。カードイラストに描かれているように、『不思議の国のアリス』がコミュの中心的なモチーフになっている。それぞれが「霧」「綺」「戯」「帰」と題されており、霧子の「き」の音に類した音を持つ漢字で名付けられているという特徴がある。四つのコミュを順番に一つずつ確認していこう。
一つ目のコミュの「霧」は、事務所で霧子が『不思議の国のアリス』を読んでいるところに恋鐘がやってくるところから始まる。二人は一緒に『アリス』の本を見ながらキャラクターたちについての話をする。恋鐘は仕事へ行く時間になり事務所を出ていくのだが、シュシュを忘れていったことに霧子が気づく。シュシュを恋鐘に届けるため霧子は恋鐘を追いかける。しかし恋鐘に追いつくことはできなかった。事務所へ戻った霧子は眠くなり、眠ってしまう。気がつくと霧子は事務所の外にいた。そこで恋鐘を見かけるのだが、恋鐘はうさぎさんのようだった。その恋鐘を追いかけようとしたとき、霧子は目覚める。目の前には恋鐘がいた。恋鐘がシュシュを忘れたのではないかと霧子は言うのだが、シュシュは朝からずっと着けていたと恋鐘は言う。霧子は夢を見たのだ。しかしどこまでが夢だったのだろう、と霧子は疑問に思う。
二つ目のコミュ「綺」は、『不思議の国のアリス』に登場するお茶会がモチーフになった夢の話である。コミュはアンティーカの5人がお茶会をしているところから始まる。お茶会の途中で霧子の携帯電話に電話がかかってきて、霧子は席を外すのだが、電話は出る前に切れてしまった。霧子が席に戻ってくると、何やら様子が変である。霧子が座っていた椅子にうさぎが座っており、テーブルの上にもうさぎがいる。そして摩美々はチェシャ猫、恋鐘はうさぎ、咲耶は帽子屋、そして結華がハートの女王と、アンティーカのメンバーは『不思議の国のアリス』のキャラクターになっている。テーブルの上のうさぎがタルトを食べてしまおうとするので、ハートの女王の結華がトランプの兵隊を呼ぼうとする。うさぎの恋鐘が霧子に逃げようと言う。どこへ行けばいいのかと霧子が問うと、チェシャ猫の摩美々は「どこへ行っても、どこかには着く」と言う。そして霧子は目覚める。咲耶と摩美々がいて、霧子は二人に夢の話をする。夢の中でどこに行けばいいかわからなくなった、と霧子が言ったところ、摩美々は「でも、どこかには着いたでしょー」と夢の中の摩美々と同じことを言った。最後に霧子は夢の中でタルトを食べそこねたことに気づき、残念そうにする。
三つ目のコミュ「戯」は、現実の中のエピソードである。お茶会をしたという霧子の夢の話を聞いたアンティーカの面々が実際にアフタヌーンティーをして、その帰り道の会話からコミュは始まる。霧子の夢の中でそうだったように、結華はハートの女王になりきっていた。霧子の見た夢の結末がどうだったのか、という話の中で、霧子はゲームセンターにあるクレーンゲームの景品に目を止める。うさぎのぬいぐるみである。そこで霧子は夢の中でうさぎを追いかけていたことを思い出す。うさぎのぬいぐるみを獲得するため、クレーンゲームに挑戦することになる。霧子はうまくできなかったので、結華が代わりに挑戦するがうまくいかない。そこで咲耶が、霧子がお祈りすればぬいぐるみに届くのではと提案する。霧子は心の中でぬいぐるみに「起きて」と呼びかける。「きっと届いたとよ」という恋鐘の声が聞こえて、霧子は笑う。恋鐘と摩美々が飲み物を買いに行く。そこで夢の中の恋鐘がうさぎみたいだったことを霧子は思い出し、再び心の中でうさぎさんに呼びかけると、恋鐘の声で返事が来る。霧子は外に出て一緒に遊ぼうと呼びかけ、うさぎも一緒に遊ぶと答える。うさぎが言ったとおりにアームはうさぎのタグに引っかかるのだが、うまく取り出し口まで行けるかわからない。うさぎは手を引っ張ってほしいと言う。そこでちょうど恋鐘たちが戻ってくるのだが、恋鐘はバランスを崩して転びそうになり、結華にぶつかる。ぶつかったことで「絶妙なコントロール」が加わり、うさぎは無事に取り出し口にたどり着くことができた。うさぎについて「はじめましての気がしない」と霧子は言った。
四つ目のコミュ「帰」も、現実の中の話で、うさぎのぬいぐるみについての話である。霧子は獲得したうさぎのぬいぐるみをいつも持ち歩いている。一緒にいないとどこかに行っちゃう気がする、と霧子は言う。ぬいぐるみは霧子に似ていると恋鐘は言うが、霧子は恋鐘に似ていると言う。すると恋鐘は自分のシュシュをぬいぐるみにくれると言い、シュシュを耳に着ける。時計の模様のシュシュである。シュシュを着けると、ぬいぐるみは最初から恋鐘のシュシュを着けていたみたいに感じると恋鐘は言う。そこで摩美々は、ぬいぐるみは恋鐘のシュシュを探しに旅してきたのではと言う。ぬいぐるみを抱かせてもらった恋鐘が思わず「おかえり」と口にする。恋鐘もそう言った理由は分からないようなのだが、「おかえり」の言葉を聞いた霧子は、旅してきたという摩美々の話は本当なのではないかという思いを強くする。
◇夢という言葉の使い方
このコミュから読み取れる特徴は二つある。一つ目は夢と現実の順序が逆転しているということであり、二つ目は夢と現実を越境して存在し続けるものがあるということである。いずれも普通の世界観とは異なるものに違いない。だがまずは夢が一般的にどのようなものとして理解されているかを確認しよう。
普通、夢は現実世界の中に生きている人間が眠っている間に見る幻覚の一種であるとされる。夢の中で見た出来事やものは、現実世界の中のそれといくら似ていたとしても、実際には起こらなかったことであり、実際には存在しないものだとされる。
小さな子供に夢という言葉を教える場面を考えてみよう。心理学者の麻生武(1996)は、子供の夢にまつわるエピソードを詳細に記録しており、子供がどのように夢を理解していくのかという過程について考察している。夢から目覚めた後の子供と母親の会話の記録を提示した後で、麻生は次のように述べている。
「子どもが悪い夢を見て泣いて目覚め、口走ることばを耳にして、周囲の大人が「それは夢だよ、ほんとうのこととは違うよ」などと慰めることは一般的によくあることだと言ってよいでしょう。子どもは、このような大人のことばかけによって、目覚めたときに生々しく記憶している自分の特殊な体験と、「夢」ということばとを結びつける何か重要な手がかりを手に入れるのだと推察されます」(麻生 1996: 92)。
眠りから覚めた子供に「それは夢だよ」と教えるとき、子供が見たとされる夢は「ほんとうのこととは違う」と大人は教えるのである。ここで「ほんとうのこと」として想定されているのは、眠っている間に見る夢の中の出来事ではなく、夢から目覚めた世界での出来事である。この夢から覚めた世界こそが、現実世界である。
哲学者のノーマン・マルコム([1959] 1962)も同様のことを述べている。
「ある出来事が夢の中で生じたということを学ぶということは、その出来事が睡眠中に起きたということを学ぶということではなく、反対に、その出来事が全く起きなかったということを学ぶということなのである」(Malcolm [1959] 1962: 51)。
麻生やマルコムが問題にしているのは、「夢」や「夢を見る」という言葉を正しく理解するために必要なことである。夢の中で見たものや体験したものは、夢から覚めた世界においては実際には存在しないものであり、夢から覚めた世界においては実際には経験していないことなのである。夢から覚めた世界において見るものが、実際に見たと言えるものなのであり、夢から覚めた世界において経験することが、実際に経験したと言えることなのである。
仮に五千兆円を手にする夢をある人が見たとして、その人が「私は五千兆円を持っている」と夢から覚めた後に言ったとしよう。人はその人に向かって「何を言ってるんだ、それは夢だろう(だからあなたは五千兆円を持っていない)」と言うはずである。もしそれでも「私は五千兆円を持っている」という信念を手放さないとしたら、その人は「夢」や「夢を見る」という言葉について正しく理解していないか、それらの言葉を間違って使用している可能性がある。
このように、夢の中で見たものや夢の中で体験したことは本当のことではないのであって、夢から覚めた世界の中に居場所を持たないのである。本当のこととされるのは、夢から覚めた世界、すなわち現実世界の中での出来事や経験だけなのである。本当に起きていたことは現実世界の中においてずっと眠っていたということであり、そして夢という幻覚を見ていたということなのである。ここには現実世界の存在が先にあり、その中で生きている人間が、一時的に眠っている間に夢という幻覚を見ているにすぎないという構図がある。
◇食べそこねたタルト
だがもし麻生やマルコムが言うように、夢の中の出来事や体験が本当のことではないのだとすれば、夢の中でタルトを食べそこねたことについて目覚めた後で残念そうにしたりするだろうか。夢の中の出来事や体験が本当のことではないのだとすれば、それら出来事らしきものや体験らしきものについてそれほどまで真剣になるのはおかしいということになるのではないか。
いや、おかしくはない。夢の中でタルトを食べそこねた霧子のように、夢の中で何かをしそこねてしまったり、夢の中で楽しいことをしている最中に目が覚めてしまったりした場合に、目覚めた後で残念な気持ちになるということは一般的に広く聞かれることである。麻生とマルコムの考えに従うと、そうした一般的なことが間違いだということになってしまう。
哲学者の藤本隆志は、マルコムの考えについて、夢の中での出来事や体験は「公共の基準によって確認できないために現実の経験とは峻別されるべきだ、というかれの論点は人間の経験を不当に狭く解釈してしまう」と批判する(藤本 1986: 74)。藤本は、夢の内容もまた「私の経験のひとつ(時には重大な経験のひとつ)でありうる」と言う(藤本 1986: 75)。
藤本の指摘は妥当だと思われる。夢の中での出来事や経験は、確かに夢から覚めた世界には位置づけられないものであるかもしれないが、だからといって本当のことではないわけではないし、全く起きなかったことでもない。確かに夢の中で見たのだし、確かに夢の中で体験したのである。それらを見たということ、それらを体験したということ自体は、事実と言えるのではないか。
以上の話をまとめよう。夢の中での出来事や夢の中で体験したことは、夢から覚めた後の世界の中での出来事や体験ではない。ここには越えられない境界線がある。現実とされる世界の中ではずっと眠っていたのである。これは麻生やマルコムの言うとおりである。だが、だからといって、夢から覚めた後の世界の中の出来事や体験だけが、真剣になるべき本当のことであるわけでもないのである。
◇現実に先立つ夢
それでは霧子の【霧・霧・奇・譚】では夢はどのように描かれているのだろうか。【霧・霧・奇・譚】では、現実世界が先立つ構図が逆転しているという大きな特徴がある。コミュで描かれるのは、現実世界が先にあってその中で生きている霧子が一時的に夢を見ているという構図ではなく、まず先に夢があり、その後で現実がその夢に追随するという構図なのである。
一つ目のコミュの「霧」を見てみよう。このコミュでは、中盤に事務所に戻って来た霧子が眠りにつくことで夢が始まるように描かれている。しかし最後まで読むと実はそうではないということが示唆されている。霧子はどこまでが夢だったのかと自問するのだが、おそらくはこのコミュの冒頭からすでに夢だったと思われる。霧子は恋鐘がシュシュを置き忘れたと思ったのだが、霧子が目覚めた後で恋鐘はシュシュを朝からずっと着けていたと言っていたからである。シュシュを置き忘れたということが、すでに夢の中の出来事だったと考えられるのである。
だが、もしこのコミュが最初から夢だったのだとすると、奇妙な点が浮かび上がる。夢の中に出てきたシュシュである。霧子が目覚めた後、恋鐘は「ずーっと、すやすやしとったとよ」と言っており、恋鐘が事務所に来たときからすでに霧子は眠っていたことがうかがえる。すると恋鐘がシュシュをつけているということを眠る前の霧子は知らなかったと考えられる。そうであるならば、霧子はどうやって恋鐘のシュシュを夢に見ることができたのだろうか。ここには夢が現実の恋鐘のシュシュを先取りしたかのような、夢が現実に先立つ構図がある。
夢が現実に先立つという構図は、二番目のコミュの「綺」でも繰り返される。それは、摩美々の「どこかには着く」という言葉である。夢の中でチェシャ猫の摩美々が霧子に言ったその言葉を、目覚めた後で摩美々が霧子に向かって言っている。夢の中の出来事が目覚めた後の現実を先取りするという構図が、ここにも表れている。
三つ目の「戯」では、夢に見たというお茶会を実際にやってみようという風に、夢が先立っている。これは奇妙なことではなく、むしろ実際によくあることだと思われる。夢の中で食べようとしたものを、目が覚めた後に実際に食べたくなるということがある。「戯」においては、夢ではなく霧子の空想が現実に先立っている。恋鐘の声のうさぎとの心の中での会話が、恋鐘が結華にぶつかるという出来事を呼び寄せているように見えるのである。
そして四つ目の「帰」では、霧子が獲得したうさぎのぬいぐるみは恋鐘のシュシュを探して霧子のもとまで旅してきたのではないか、という話がなされる。ぬいぐるみがそのような旅をする、ということは現実にはありえないとされると思うのだが、霧子はその物語をそうかもしれないという態度を見せる。
【霧・霧・奇・譚】のコミュを通して見ると、最後に霧子のもとまで旅してきたうさぎのぬいぐるみは、一つ目のコミュ「霧」の夢の中に登場した恋鐘=うさぎではないかと読むことができる。霧子の夢の中で、恋鐘=うさぎはシュシュを事務所に忘れていた。霧子はそのシュシュを恋鐘=うさぎに届けようとする。四つ目のコミュ「帰」において、シュシュがぬいぐるみに着けられることで、それは達成されたと考えられるのである。
【霧・霧・奇・譚】の四つのコミュそれぞれにおいて、夢(あるいは空想)が現実に先立つということが描かれている。さらにコミュ全体を通して見れば、夢世界から現実の霧子のもとへのうさぎ(恋鐘/ぬいぐるみ)の旅としても読むことができる。このように【霧・霧・奇・譚】は夢が現実に先立つ構図になっているのである。これは夢についての普通の見方とは大きく異なっているのみならず、現実まで含めて普通の世界観とは大きく異なっている。
◇二通りの解釈の仕方
以上に見たように、【霧・霧・奇・譚】では夢(あるいは空想)が現実に先立っている不思議な世界観が提示されている。だが、恋鐘のシュシュ、摩美々の言葉、うさぎのぬいぐるみに関して夢が先立っているこれらの出来事は、ただの偶然とは言えないのだろうか。
一つ目のコミュ「霧」の恋鐘のシュシュから考えてみよう。その日恋鐘が着けていたシュシュを霧子は以前も見たことがあったのかもしれない。そしてそれを記憶していたことで、たまたま夢にそのシュシュを見て、それが偶然に現実と合致したのかもしれない。あるいは、見たことのあるものだけが夢に出てくるわけではなく想像によって夢がつくり出されることもあるから、たまたまその想像によって作り出された夢が現実と合致したのかもしれない。
二つ目のコミュ「綺」の摩美々の言葉も同様に偶然の合致として考えられる。あの言葉は摩美々が過去に何度か言ったことのある言葉なのかもしれないし、摩美々が言いそうな言葉として、霧子が想像で夢の中の摩美々に言わしめたのかもしれない。
三つ目のコミュ「戯」で、恋鐘が結華にぶつかるというのも単なる偶然かもしれない。そして四つ目のコミュ「帰」のぬいぐるみが旅してきたというお話は、ぬいぐるみについての一つの物語である。
実際これらの出来事をこのように解釈することは可能なはずである。ここで出来事の解釈の仕方が二重化している。一つは、いま解釈したように、夢にシュシュを見たりしたのはただの偶然だとする解釈であり、もう一つは、夢が現実を先取りしたという解釈である。
前者の解釈は、目が覚めた後や出来事が終わった時点で振り返って、現実世界の中で遡及的に解釈する見方である。この見方では、現実世界の中で通常起こりうるとされることだけで出来事を説明しようとする。一方の後者の解釈は、夢を見ている最中の出来事から目覚めた後の出来事までを通時的に並べて解釈する見方である。これらは時間の順序が逆向きになっている。
夢に見たことが現実の出来事を先取りしたり、空想の中での会話が恋鐘のうっかりを呼び寄せたりするというのは、現実世界の中で通常起こるとは考えられていない因果関係である。だから、現実世界の中で通常起こりうるとされていることで解釈するならば、それらは偶然だと考えることになる。
だが、おそらく霧子はこのような解釈を採用してはいない。「霧」と「綺」において霧子は、夢が現実を先取りしたという態度をはっきりと見せてはいないが、「戯」と「帰」においては、恋鐘がぶつかったことを単なる偶然とはみなしていないし、ぬいぐるみが旅してきたということをただの作り話だとも思っていない。それに何より、こうした出来事が繰り返されるというところに、これらはただの偶然ではないと思わせる力がある。これが、【霧・霧・奇・譚】で描かれる霧子の世界観の特徴の一つである。
◇夢と現実の越境
そしてもう一つが、夢と現実を越境して存在し続けるものがあるということである。【霧・霧・奇・譚】では、一つ目のコミュ「霧」において登場した恋鐘=うさぎと、「戯」「帰」に登場するうさぎのぬいぐるみとの同一性が示唆されている。夢の中の恋鐘という人間と、現実世界のぬいぐるみとが同一であるはずがないという問題もあるのだが、ここで注目したいのは、夢の中に登場したものが現実世界の中に出現するということである。
普通、夢の中に登場したものや人間が現実世界に現れてくるということは考えられない。現実に見たことがあるものが夢の中に登場するのなら、夢の中に登場したそれと目覚めた後の現実世界の中で出会うということはありうる。しかしそれでもそれらが同一であるということはない。夢の中に登場するものと、現実世界にいるそのものは、違う存在なのである。だが【霧・霧・奇・譚】では、それが起きている。しかも、夢の中での登場が現実世界の中での出会いに先立っている。夢と現実を越境して同一のうさぎが存在しているという、普通ではありえないとされることが起こっているのである(注1)。これが【霧・霧・奇・譚】で描かれる霧子の世界観のもう一つの特徴である。
以上の霧子の世界観の特徴をいったん整理しよう。(1)現実が夢に先立つのではなく夢が現実に先立つことがある、(2)夢と現実を越境して存在し続けるものがある。このような特徴を持った世界観である。
◇夢から出発する
霧子にならって、夢から出発して考えてみよう。
夢が夢であると気がつくのは、目が覚めてからである。だから夢を夢として認識するのは、目覚めた後の時点から向けられる遡及的なまなざしだということになる。それゆえ「夢」という言葉は、目が覚めた後の現実世界の中で使用される言葉なのである。麻生やマルコムが、「夢」という言葉の使用において、夢の中での出来事や体験は本当のことではないという態度を取ったのはこのためである。
だが夢を見ているその最中においては、そこで起きている出来事や体験は現実とほとんど変わらないステータスで現れる。それらが夢であると気づくことは困難である(注2)。だがもしその後に目覚めが起きたのならば、それらは夢だったのであり、現実ではなかったのである。それゆえ夢は、現実と変わらないものであり、現実と同じものでもない、という奇妙なあり方をしていることになる。ここで便宜的に、夢を見ている最中の世界を〈現実〉、夢から覚めた後の世界を「現実」と名付けて考えてみよう(注3)。
夢から目を覚ました世界は「現実」であり、その「現実」において夢を見ていたことを認識する。この見方は「現実」を出発点とする見方であり、麻生やマルコムはこの見方に立つ。だがその夢は、その夢を見ている最中は〈現実〉だった。〈現実〉は「現実」の中に位置づけられない。だから「現実」の観点からは〈現実〉は「夢」としてはじき出されることになる。
だが、夢を見ている最中には、それは〈現実〉だったということを考える必要がある。〈現実〉と「現実」は、概念上の区別はあるが、いずれも現実であってそれらをどうやって識別することができるのかという問題が生じる。時間が経過して覚醒が生じた方が〈現実〉だと思われるかもしれないが、いつその覚醒が起こるのか、そもそも覚醒が生じるのかどうかも分からない。覚醒が実際に起きた後で、事後的にそうだったと分かるしかない。いま「現実」だと思っているこの世界は、本当に「現実」なのか、ひょっとしてこれは実は〈現実〉なのではないか。
夢を出発点にすることで、懐疑論が介入してくることになる。この懐疑論の問題が、【我・思・君・思】の二つ目のコミュ「かなかな」の主題となる。
◇【我・思・君・思】「かなかな」
【我・思・君・思】には二つのコミュがあり、今回取り上げるのは二つ目のコミュ「かなかな」である。「かなかな」は、咲耶と霧子の二人が事務所で会話をするコミュであり、その主題がデカルトの夢の懐疑となっている。
倫理の授業でデカルトの話を聞いた咲耶が霧子にその話を伝える。「今ここが夢の中じゃないって断言できるだろうか」という夢の懐疑である。霧子は、夢ではないとは言えない、と答える。会話をしているうちに霧子は眠くなり、眠ろうとするが、そのとき霧子は「これから起きるのかな」と問う。そして霧子は次のように言う。
「あのね……
どっちでも……嬉しいな……
今見てるのが……夢でも……
夢でなくても……
この咲耶さんが……
咲耶さんで……
次に会う咲耶さんも……
この咲耶さんなら……」
そしてコミュの終盤、霧子が眠りに落ちる直前、廃墟のソファに座る二人が描かれたカードイラストが挿入される。そして「デカルトさんもおやすみ」と言って、事務所の背景が映し出されて終わる。
◇デカルトの懐疑
【我・思・君・思】「かなかな」では、もはや夢と現実という強固な構造はなくなってしまっている。それは確かに、夢を出発点にしたことで介入してくる夢の懐疑によるものだと考えられるのだが、実は霧子の態度はデカルトの態度とは大きく異なっている。霧子の世界観に迫るために、まずはデカルトの懐疑論を、その目的から確認しておこう。
デカルトの懐疑は、絶対に疑いえない真理を得るためだという目的で行われている。『方法序説』においてデカルトは次のように述べている。
「ほんの少しでも疑いをかけうるものは全部、絶対的に誤りとして廃棄すべきであり、その後で、わたしの信念のなかにまったく疑いえない何かが残るかどうかを見きわめねばならない、と考えた。こうして、感覚は時にわたしたちを欺くから、感覚が想像させるとおりのものは何も存在しないと想定しようとした。次に、幾何学の最も単純なことがらについてさえ、推論をまちがえて誤謬推理をおかす人がいるのだから、わたしもまた他のだれとも同じく誤りうると判断して、以前には論証とみなしていた推理をすべて偽として捨て去った。最後に、わたしたちが目覚めているときに持つ思考がすべてそのまま眠っているときにも現れうる、しかもその場合真であるものは一つもないことを考えて、わたしは、それまで自分の精神のなかにはいっていたすべては、夢の幻想と同じように真でないと仮定しよう、と決めた」(Descartes 1637=1997: 45-6)。
ここで「真である」というのは、事実と一致しているという意味である。私たちは「水は摂氏百度で沸騰する」という知識を持っている。だがこの知識は正しい知識なのだろうか。実際に温度計で温度を計測しながら水を火で加熱すれば、水が摂氏百度に達するときに沸騰して水蒸気になるところが観察できるだろう。「水は摂氏百度で沸騰する」という信念は、実際に観察される事実と一致する。このとき信念は真であると認めることができる。こうして真であるとして認められた信念は、真である知識だとされる。
だが、デカルトはここに疑いを差し挟んでいるのである。温度計はちゃんと作られたものであるのか、温度計の温度を確認する視覚は正しいのか。「水は摂氏百度で沸騰する」と認識されるこれら全ては本当に現実のことなのか、夢ではないのか。
もし少しでも疑いが差し挟まれるなら、それは間違っている可能性があるということである。間違っているかもしれないことを基礎にして学問を打ち立てることはできない。もしその基礎が間違っていることが後で分かったとしたら、打ち立てた学問全てが間違いだということになってしまうからである。それゆえ疑いが少しでも差し挟まれるものは全て偽であるとして捨ててしまうのである。これが方法的懐疑として知られるデカルトの懐疑の方法である。ここでデカルトは、学問の基礎になるものとして、絶対に疑いえない確実な真理を求めている。
つまりデカルトは、現実世界について正しく認識し、現実世界について真である知識を獲得することを目指しているのである。それゆえ、今ここで認識している世界が夢であるかもしれないということは、デカルトにとっては困った問題となる。夢の世界についていくら知ることができたところで、それは現実世界について正しく知ったことにはならないからだ。だから夢の懐疑がデカルトにとって問題となるのである(注4)。
◇非連続的な世界
デカルトの懐疑の目的が現実世界についての真なる知識を求めることであったことをふまえると、デカルトもまた麻生やマルコムと同じように、夢から覚めた世界を基盤としている人だということが分かる。ここで霧子はデカルトから離れていく。
デカルトは「現実」を基盤としており、「現実」が夢であっては困るという立場である。霧子もまた、デカルトと同様に夢の懐疑に従い、これが夢ではないとは言えないと言う。しかしデカルトとは異なって、夢の懐疑に対して問題を感じていない。その理由は二つ考えられる。一つは、「現実」を明確な出発点としているわけではないということ、もう一つは、霧子にとって重要なのは現実と夢の区別ではなく、存在しているものの持続の方だということである。順番に見ていこう。
【霧・霧・奇・譚】で描かれていたように、霧子にとっての世界の基盤は「現実」というわけではない。目が覚めた後の世界に対して、夢が先立つ出来事が繰り返し起きているし、夢の中に登場したうさぎがぬいぐるみとして霧子のもとにやってくるという解釈を霧子は採用する。デカルトのように「現実」を確実に認識することを霧子は必要としていないのである。
霧子にとっては、〈現実〉と「現実」の区別は問題ではない。霧子ははっきりそう言っている。【我・思・君・思】「かなかな」で、眠り行く霧子はこれから起きるのかもしれないという可能性を示す。ここにおいて、眠りに就いて夢を見ることと、夢から目覚めることとの間に区別はなくなっている。
普通の世界観では、現実への目覚めと眠って夢を見ることとは交互に繰り返される。それを図示すると次のようになる。
……→現実→夢→現実→夢→……
デカルトが問題にするのは、現実への目覚めと眠って夢を見ることを繰り返す中で、自分がどちらにいるのかを確実に知る方法である。夢が現実らしさをもって現れるため、現実だと思っていることが実は夢であるのかもしれないという懐疑が差し挟まれてしまうからである。デカルトはこれを退けることを目指す。
しかし霧子は現実と夢との区別を問題としない。これから眠って夢を見ることと、これから目覚めることとの間に違いはない。【霧・霧・奇・譚】でそうであったように、夢の方が出発点になっており、今のこの世界も、これから眠り=目覚める世界も、いずれも〈現実〉なのだと言える。これを図示すると次のようになる。
……→〈現実〉→〈現実〉→〈現実〉→……
眠りと目覚めを繰り返すことで現実と夢が交互に現れるのではなく、〈現実〉が断続するというかたちになる。眠り=目覚めることを繰り返すたびに出現する一つ一つの〈現実〉の間に連続性や同一性があるかどうかは分からない。「かなかな」で、廃墟のソファに二人が座るカードイラストが挿入される演出は、これらの〈現実〉の間には完全な同一性や連続性がない可能性を示唆している。これから眠り=目覚める世界は、今この通りにある世界とはまるっきり違う世界であるかもしれないのである。これが、【霧・霧・奇・譚】で示されていたよりもラディカルな、【我・思・君・思】「かなかな」での霧子の世界観である(注5)。
◇霧子にとっての問題
完全な同一性や連続性のない〈現実〉が断続する中で、霧子にとって気がかりなことが一つある。それは、今目の前にいる咲耶が、眠り=目覚めた後に出会う咲耶と同一であるかどうかということである。霧子はこれから眠るのでも目覚めるのでも「どっちでも嬉しい」ということの条件として、今目の前にいる咲耶と、これから会う咲耶とが同一であるということを望んでいるように読める。咲耶だけではない。霧子は「みんながいつものみんな」であること、「この夏がこの夏」であることも望んでいる。これらの同一性が確かであるなら、これから眠るのでもこれから目覚めるのでもどちらでもかまわないし、これが夢であってもこれが現実であってもかまわない、ということなのである。
ここでは咲耶の同一性について考えてみることにしたい。霧子が望んでいるのは、今目の前にいる咲耶と、これから眠り=目覚める世界でまた会うことである。それはいわば、夢の中で出会った人と現実世界において再会することを望んでいるようなものである。そしてそれは、普通ならばありえないことである。夢と現実との間には明確な境界があるのであって、夢と現実を越境して同一のものや人間が存在し続けることはないとされている。しかし霧子はそれをこそ望んでいるのである。
【霧・霧・奇・譚】において、夢の中で出会ったうさぎがぬいぐるみとして霧子のもとにたどり着いたように、霧子の世界観の中では夢と現実を越境して同一なものとして存在し続けるものがある。だからこそ、霧子はこれから眠り=目覚める世界の中で咲耶と再会することを願うことができる。
霧子は眠り=目覚める直前に「この咲耶さんにおはようするね」と確信めいたことを言っているが、「次に会う咲耶さんもこの咲耶さんなら」という言葉には、咲耶と再会できない可能性も読み取ることができる。だからこそ霧子は咲耶との再会を願うのだろう(注6)。
◇おわりに
以上、【霧・霧・奇・譚】と【我・思・君・思】「かなかな」の二つで描かれる夢を通して、霧子の世界観について考えてきた。霧子の世界観においては、普通考えられているように、現実世界が基盤としてあってその中で夢という幻覚を見る、という構図にはなっていない。夢は現実に先立つことがあるのであり、そもそも夢と現実との間の区別はそれほど重要ではない。そして夢と現実を越境して存在し続けるものがある。霧子の世界観は、「現実」だけを現実世界だとする世界観よりも、もっと広いのである。
今回触れることはできなかったが、【夕・音・鳴・鳴】「われたよ」におけるカップや、pSSR【菜・菜・輪・舞】Trueコミュ「銀の包み紙」における銀の包み紙のように、霧子のコミュの中には存在そのものは同一でありながら見かけが変わっていくものが多数登場する。夢と現実を越境して存在し続けるものは、こうしたカップや銀の包み紙に連なるものなのではないかと思われる。
断続していく〈現実〉の中で、存在し続けるものや人物は、存在レベルでは同一性をもっているとしても、その現れ方は異なってくることもあると考えられる。霧子はそこで、身近なものや人物について、同じ現れ方としての同一性を望んでいるのかもしれない。ここには霧子の孤独の問題が関わってくると思われるのだが、その考察については別の機会に譲ることにしたい。
◇注
注1 霧子の世界観の中でものや人間の持続の仕方が特徴的に描かれているのが、pSSR【夕・音・鳴・鳴】のTrueコミュ「でんごん」である。
注2 稀に夢を見ている最中に「これは夢である」と気づく明晰夢を見ることがある。これを根拠に、夢と現実は区別できると思われるかもしれない。だが明晰夢というのは、「これは夢である」と気づく夢とどう違うのだろうか。さらに、「これは夢である」という夢の中の気づきは、「これは夢である」という事実そのものを言い当てることができているのだろうか。
また、「これは夢である」という気づきは一体何を根拠にしてなされるのだろうか。ただそう感じるという直感だけでは根拠としては薄い。夢特有の何かがあるのだろうか。だが、その夢特有の何かは、自明のことなのだろうか。「夢の中では現実では起こりえないことが起こるのだから、起こりえないことが起きていたらそれは夢だ」と思われるかもしれない。だが、目が覚めた現実世界においても、おぞましい災害や事件など起こりえないとされていたことが何度も起きている。ならばそうした災害や事件が起きたのは夢だったということになるのだろうか。
注3 このように現実を分けて考える見方については以下の拙論を参照。諸岡優鷹,2017,「目覚めたら夢はなかったことになるのか」『青山総合文化政策学』12/13,1-25。本拙論は本稿の哲学的基盤になっている。
注4 デカルトは夢の懐疑に加えて、欺く悪霊(神)の懐疑も行う。間違った思考や論証を行っているのに、それを理性に基づいた正しい思考や論証をだとわれわれに思わせてしまう悪霊である。だがそれらの懐疑の先で、デカルトは有名な「われ思う、ゆえにわれあり」という真理にたどり着く。全ては夢かもしれない、悪霊に欺かれているかもしれないと疑ってみても、今そうやって疑い思考している自分は確かに存在していて、そのことは疑いようがない。これをデカルトは出発点にする。だがこの「われ思う、ゆえにわれあり」だけでは、夢の懐疑を退けられない。デカルトが夢の懐疑を退けるには、神の存在証明と、神は欺かないものであるという前提を必要とする。その前提の上で、人間の明晰な思考や認識は間違いえない(神は欺かないので)こと、物体が実在することが証明される。これらを経ることで、理性に基づいて一貫性や整合性が認められる物事は夢ではなく現実であるということが示され、夢の懐疑が退けられる。(デカルト( [1641] 1642=2006)を参照。)
注5 この断続的な世界観は、【夕・音・鳴・鳴】のTrueコミュ「でんごん」にも通じている。「でんごん」では、人間の記憶を操作しながら、建物や人間を勝手に移動させてしまう妖怪の話が主題となる。そこで霧子も、過去のことを忘れてしまっているけど実は妖怪に連れてこられていまここにいるのかもしれない、という話がなされている。今ある通りの世界は過去から連続してきているし、未来へも連続していくという普通の世界観とは異なる断続的な世界観が提示される。「でんごん」の内容の読解については、以下の拙論を参照。「シャニマスに見られる哲学的センスの話をするよ――幽谷霧子「でんごん」を読む」http://hibikihare.hatenablog.com/entry/2020/05/17/045024(2020年7月24日閲覧)。
また、世界の断続性については、デカルトも採用していた連続的創造説も想起させる。連続的創造説とは、時間は非連続的であり、世界が持続しているのは瞬間ごとに世界が創造されているからだとする考え方である。霧子と連続性の関係については、katariya氏による霧子のさん付けについての考察記事もあり、無関係ではないと思われる。katariya氏の記事は以下を参照。「幽谷霧子の『主体』による「さん」付けと『連続性』仮説」https://katariya0116.hatenablog.com/entry/2019/12/22/171206(2020年7月24日閲覧)。
注6 霧子はなぜ今目の前にいる咲耶と同一の咲耶と、これから眠り=目覚める世界で再会することを望むのか、という問いは残る。【夕・音・鳴・鳴】Trueコミュの「でんごん」において、妖怪によってこれからもし移動させられるとしても、今の記憶を持ったままでいたいと願っていることと繋がりがあるのではないか。
◇文献
麻生武,1996,『子どもと夢』岩波書店.
Descartes, René, 1637, Discours de la méthode.(谷川多佳子訳,1997,『方法序説』岩波文庫.)
Descartes, René, [1641] 1642, Meditationes de prima philosophia.(山田弘明訳,2006,『省察』ちくま学芸文庫.)
藤本隆志,1986,「夢と人間」木村尚三郎編『東京大学教養講座14夢と人間』,東京大学出版会,51‐76.
Malcolm, Norman, [1959] 1962, Dreaming, London: Routledge & Kegan Paul.