【♡LOG】市川雛菜の話。
◆コミュタイトルの話
◇CAM:P
CAMPとコロン抜きで1つの語として読むのと、CAMとPがコロンで分かたれていると読むのと、2通りの読み方ができます。
コミュ内容は、雛菜が事務所の中を紹介する動画配信をするというもの。その撮影はプロデューサーがしています。CAMというのはおそらくcameraカメラのことで、CAM:Pというのは撮影はプロデューサーがするということを指していると考えられます。
ではコロン抜きのCAMPは何か。英和辞書を引くと、普通に屋外でテントを張って寝泊まりする「キャンプ」という意味のほかに、「同志たち」「仲間」「支持者」という意味があることが分かります。コミュでは、生配信中に書きこまれたコメントを雛菜が選んで読んでおり、こうした配信に集まった人たち(の一部)を指してcamp=同志/仲間/支持者、と考えることができるかもしれません。とはいえ配信に集まった人たちの全てが雛菜やノクチルのファンであったりするわけではなさそうな雰囲気があったことも確かです。(読むコメントを選ぶ感じは、感謝祭のシナリオで描かれたツイスタの返事を書くコメントを選ぶ感じと通じていますよね。)
◇O/R
これもORとスラッシュ抜きで1つの語として読むのと、OとRがスラッシュで分かたれていると読むのと、2通りの読み方ができます。
コミュ内容は、雛菜に来た2つの仕事のオファーが同日のもので、どちらか一方を雛菜に選んでもらうというものです。「あるいは」を意味する前置詞orがタイトルになっているのはこの選択を受けてのことだと考えられます。
それではOとRがスラッシュで分かたれているのはどういうことなのでしょうか。単純に考えると、ORそのものがスラッシュによって分かたれていて、この表記自体が何らかの選択を思わせるものとなっているように感じられます。ですが、出入力を表す「I/O」(InputとOutput)のように、スラッシュで大文字を2つ並べることで2つ組の言葉を表す記述方法があり、O/Rも何らかの2つ組の頭文字なのではないかという気がしてきます。……が今のところそのアイデアはありません。
◇CuddleToy
cuddleは「抱きしめる」「抱いてかわいがる」で、タイトルの意味はおそらくカードイラストにもあるようにユアクマちゃんのぬいぐるみをかわいがっている雛菜の様子を示していると考えられます。
◇RedBomb!
red bombは赤い爆弾。コミュ内で雛菜が温めていたお弁当の中でミニトマトが爆発してしまったところから来ていると考えられます。でも「紅い爆弾」は単にミニトマトのことだけを指しているのでしょうか? コミュは雛菜が選ばなかったもう一つのお仕事(お料理系のお仕事)が別日でできるかもしれないということを話していて、話題は雛菜のお料理の腕にも及んでいます。そのあたりにも関係が?
1個前のCuddleToyとRedBomb!はともに単語の間にスペースが入っていないところに特徴があります。
◇project;or
TRUEコミュです。これも2通りの読み方が出来ます。projectorと1語で読む読み方と、projectとorの2つで読む読み方です。
区切りにセミコロンが用いられており、コロンで区切りを行った1つ目のコミュタイトルCAM:Pとの関連が考えられます。が、コロンとセミコロンとの違いに関して私はあまり得意ではないので、それらの違いが一体どんなことを示しているのかはあまりよくわかりません。ただ、1つ目のコミュとの関連として考えるならば、1つ目のコミュがCAMでカメラという撮影する装置を示していたのに対し、こちらのコミュはprojectorと映像を投影する装置を示しているように見えてきます。
コミュ内容を見てみましょう。雛菜はプロデューサーに、「雛菜のツイスタ、今度、プロデューサーも出る~?」と聞いています。雛菜にとってツイスタは、「雛菜のすきなものを載せる場所」なんだと言っています。この提案をプロデューサーは「あくまで俺たちは裏方だから」と言って断ります(【われにかへれ】でも凛世に対してそんなことを言っていましたね)。
「裏方」というのは表舞台の裏側です。アイドルはカメラに映るもので、その裏側ですから、つまりカメラの裏側ということになります。これはまさに「CAM:P」でのプロデューサーの立ち位置になります。「project;or」でのprojector(映写機/投影機)は、このカメラの構図との対比で考えることができます。
まずprojectorは何のことかというところですが、これは雛菜のツイスタではないかと思います。ツイスタはシャニマス世界の中でのSNSですが、われわれの世界のインスタ(とツイッター)を思わせるように、写真を載せる場所だと考えられます。で、そのツイスタは雛菜にとって「すきなものを載せる場所」。雛菜がすきなものを写真に収めて、それを投稿する場所だということです。撮影したものを投稿して見えるようにするというところが、projector=映写機/投影機と同じです。
ツイスタに投稿される写真を撮影するのは雛菜です。アイドルとカメラが独立であるなら、アイドルを写したカメラには裏側の空間ができます。が、アイドルがカメラを持つとなると、表と裏という空間の分離は薄れていくのではないでしょうか。そこで「裏方」にいたはずのプロデューサーも被写体となる可能性が出てくるわけです。
もう1つの読みについて。projectとorがセミコロンで分かたれています。2つの語を分かつのがコロンではなくセミコロンであるということが何を意味するのかまでは分からないのですが、単純に考えるとこれはorのprojectであるということを示しているように思えます。orは何かと何かの選択を示す前置詞で、「O/R」で描かれたように、選ばれるのは1つだけです。
が、orは論理学の中では少し違う意味を持ちます。pとqの2つの命題があるとき、pとqどちらか一方だけでも真であるなら、論理式「p or q」は真だということになります。これをベン図で示すと、pとqをそれぞれ示す2つの円があるとき、その2つの円全体が示されることになります。ここに私は、どちらか片方のみという選択というよりも、まるで全体を示すかのようなイメージを感じます。
「RedBonb!」で描かれたように、2つに1つだった仕事もプロデューサーの尽力で両方ともできそうですし、「project;or」では雛菜は好きなものを何でもツイスタに載せたいと考えています。雛菜はorを1つのものを選ぶこととしてではなく、論理和のようにしていろんなものを取ることを考えているのではないか、と思いたくなります。それこそ前回のpSSR【HAPPY-!NG】とそのTRUE「CherryPick!NG」で描かれたのも、そのようなことでした。
雛菜はWINGのシナリオで自分を「楽しい担当」として、楽しいことだけをしたいという風に言います。これはいい部分だけをつまみ食いするチェリーピッキング行為です。でもそうすると、一見すると楽しくなさそうだけどとても楽しいことや、一見すると楽しくなさそうだけどもっと楽しいことに繋がっていることを取り逃がしてしまうことになります。プロデューサーの指摘によって、この一見すると楽しくなさそうだけどとても楽しいこと、あるいはもっと楽しいことに繋がっていることもするということが、「雛菜のしあわせ」なのではないかということに雛菜は気づくのでした。それゆえ、【HAPPY-!NG】では「色々やってみたい」「楽しくて、しあわせになれそうなことなら、なんでも」とインタビューで答えるに至るわけです。チェリーピッキングはNGなのです。この「色々」「なんでも」というのが、【♡LOG】での論理和としてのorなのではないか、と考えたくなります。
【♡LOG】の「♡」も、【HAPPY-!NG】に登場した♡のことではないか、と考えています。【HAPPY-!NG】の1つ目のコミュ「END!NG」で、雛菜は進路調査票を折り紙にして♡を作っています。この♡が何を意味するかということですが、これは4つ目のコミュタイトルが「Inter♡iew」と書かれているところから、vであると読むことが出来ます。そしてこのvは、動詞のverbのvであり、「色々」「なんでも」と雛菜が言ったように、いろんなことをやってみるという空白の動詞vではないかと考えています。そして雛菜は「CherryPick!NG」で「ちょっとずつつまみ食いして、どれがいちばんしあわせか決める」と言っています。それゆえ【♡LOG】というカードタイトルは、その活動(♡=v)の記録(ログ)ということなのではないかと私は考えました。【HAPPY-!NG】の私の読みについては詳しくは次の文章を参照してください。
【HAPPY-!NG】を通して市川雛菜について考えたこと
https://fusetter.com/tw/USXzMXt2#all
そしてもうひとつ、【HAPPY-!NG】と「CherryPick!NG」で重要なのは、雛菜がプロデューサーに要求していることです。それは挑戦していくのは雛菜だけではなくプロデューサーもである、ということです。これはもとはといえば、「Inter♡iew」で「色々」「なんでも」やっていきたいと言った雛菜に対し、「もっと色々なことに挑戦して雛菜の可能性を広げていこう」「俺も、一緒に挑戦していくからさ」とプロデューサーが言ったことに由来しています。
「CherryPick!NG」で雛菜は大量のスイーツを注文します。プロデューサーは食べきれるのかと心配するのですが、雛菜は「一緒に食べるでしょ!?」とやや驚き気味に反応します。チェリーピッキングはNGであるというのは、雛菜だけではなく、プロデューサーもそうなのだと、言っているわけです。「project;or」でカメラの裏側にいたプロデューサーを被写体にしようとしているところに、「CherryPick!NG」でプロデューサーに一緒に挑戦していくことを求めたのと似た態度を感じています。いま感謝祭の「Coment(xx)」を見たら、雛菜はプロデューサーにもツイスタにコメント書いてって言っていますね。
【#SS】の「Yummy!」では、ツイスタのインフルエンサーからモデルを発掘しているという雑誌が雛菜を見つけて仕事のオファーが来るという話になっています。おそらくユアクマカフェの仕事も、雛菜がユアクマのファンだから来た仕事ではないかという気がします。「CAM:P」も「project;or」も雛菜が自分でする生配信ですし、雛菜の仕事ってプロデューサーが取ってくるとか、オーディション受けるとかじゃなくて、雛菜(のツイスタ)の方が弾き寄せてきてるって感じですよね。そこがプロデューサーがアイドルをプロデュースするっていう関係とちょっと違う形態になっているように思います。
これはノクチルというユニットに言えることですが、カメラに映って人気になりたいっていうアイドルなら当然持っていると考えられてもいいような欲望がノクチルには薄いですよね。特別な用がなくてもアイドルの仕事を断ったりするし、カメラに映ることを避けたりもする。アイドルとしてこうあるべきという業界の側の要求をはねのけたりもする。カメラとの関係の取り方、アイドルの業界との関係の取り方がノクチルは独特で、ツイスタを見た人からオファーが来る雛菜というのはそうしたノクチルのあり方の一つの形態なのかなという風に思えてきます。
ツイスタに載っている写真は基本的には雛菜が撮るものでしょうし、雛菜が撮ってなくてもどの写真を載せるかは雛菜が選んでいるはずです。どのコメントに返事を書くかも雛菜が選んでいます。そして仕事もツイスタでの活動からオファーが来ます。ここにプロデューサーがあまり噛んでこないというところが興味深いところです。で、どう噛んでくるかといえば、「プロデューサーも雛菜のファンでしょ~?」と言ってツイスタにコメントを書くことが要求されたり、「雛菜のすきなものを載せる場所だから」といってプロデューサーのこともツイスタに載せたいと思ったりするという感じです。
思えばWING編でも雛菜は「雛菜を頑張ってプロデュースしてください~~~!」と言ったり、「わがままな雛菜のプロデュースをよく頑張りました~」と褒めてきたりしていて、なんだか不思議な逆転を感じます。雛菜はずっと雛菜のままで、プロデューサーが支えたり導いたりしてアイドルに育て上げていくみたいな感じはぜんぜんありません。アイドルのプロデュースにおいて、アイドルはプロデュース(という動詞)の客体(目的語)だと思われるのですが、雛菜においてはプロデューサーの方が雛菜にとっての客体になっているかのような感じです。そういう不思議な逆転を感じます。
◆「いっぱい時間をかければちゃんと考えたことになるの?」という問いについて
この問いはかなりクリティカルな問いであると思います。かけた時間が長いからといってそれは「ちゃんと考えた」ことの証拠になるとはかぎらないわけですし、かけた時間が短いように思われても「ちゃんと考えた」ということがありうるからです。かけた時間がどのくらい長いかということは、「ちゃんと考えた」ということを必ずしも示すものではないはずです。
この問いに関して3つのことを考えたので、ここではそのお話をさせてください。
(1)プロデューサーは雛菜を見くびっているか
【♡LOG】のコミュに関して、作中のプロデューサーは雛菜のことを全然理解していない、プロデューサーはひどいといった感じの話をツイッターで見かけていました。【♡LOG】のコミュを読む前だったのでネタバレを避けるため、載せられていたスクショは見ていなかったのですが、おそらくこの箇所であると思います。そのツイートを見ていたので、いざ【♡LOG】を読んでいくにあたっていったいプロデューサーはどんなことをやらかしたんだろうと思っていました。が、私が抱いた印象としては、プロデューサーはひどい、という感じではありませんでした。
雛菜がこの問いをプロデューサーに向けた後、すぐにプロデューサーは謝罪していますし、自分が何を思い何を伝えたかったかを釈明しています。そして「それが結果的に、雛菜が考えてないみたいな言い方になったかもしれない」と言うに至っています。プロデューサーのここでの謝罪と釈明にはプロデューサーの誠意を感じましたし、釈明も筋道だっていて理解できるものであると感じました。だから、雛菜がすぐに結論を出したことに対して見せた反応だけでプロデューサーはひどいというのはかなり印象が違うなと思ったのです。
(2)「ちゃんと考えた」ということの意味
上で、かけた時間がどのくらい長いかということは、「ちゃんと考えた」ということを示すものではない、と言いました。が、実はこれに反して、「そうなんだいっぱい時間をかけなければちゃんと考えたことにはならないんだ」と答える道があります。それはある種の行動主義的な見方です。
人がちゃんと考えたかどうかを、その人の心の中をのぞいて確認することはできません。ですから人がちゃんと考えたかどうかを判別するためには、その人の心の中をのぞく以外に、客観的な何かを頼りにする必要があります。それは考えた思考の筋道を説明してもらうことのほか、硬い表情になって腕を組んでうーんと唸る様子だったり、上空を見上げたまま長時間じっとしている様子だったり、紙面をじっくりと時間をかけて読み込んだりする様子が、その頼りになります。考えている人がそんな様子を見せていると、周りの人は「この人はいまちゃんと考えているな」と思えるわけです。
行動主義的には、そのような様子を見せるということが、「ちゃんと考える」ということの意味だということになります。この考えに沿うと、そうした様子を抜きにしては「ちゃんと考えた」とは言えないということになるわけです。
これは極端な立場であるようにも思えますが、こうした見方は日常生活の中である程度実際に行われています。だからこそプロデューサーも、即決した雛菜に対してちゃんと考えたかどうか確認したくなったわけです。これはプロデューサーがひどいのではないし、不自然な反応でもないと私は思います。
ですが、かけた時間の長さや、考えていそうな様子抜きにはちゃんと考えているとは絶対に言えないとか、それら抜きには「ちゃんと考えている」ということに意味を与えられない、となってしまうと、それはそれで失うものが大きいと考えます。というのも、やはり雛菜の問いはクリティカルで、考えているような様子を見せることなくちゃんと考えることは可能だし、時間をかけずにちゃんと考えることは可能だからです。
(3)言葉に引き渡されないもの
「ちゃんと考える」ということの客観的な様子を上でいくつか挙げましたが、雛菜はそれらを抜きにして考えています。これらの様子がなくても、「ちゃんと考える」ことは可能です。ですが、「ちゃんと考える」人の客観的な様子は、「ちゃんと考える」ことの証拠として日常生活の中で機能しており、それらの様子抜きでは「ちゃんと考える」ということは理解されづらくなることも事実です。雛菜はこのような誤解を与えやすい人なのではないか、という風に思えてきます。
WING編では、ノクチルの他のメンバーと一緒に居残り練習をしないのか、とプロデューサーは雛菜に問います。雛菜はレッスンはちゃんとやっていると答えます。そして「シーズン3のコミュ「(Unknown)」では、「辛くて大変じゃないと頑張ったことにはならないの~?」と問いかけるのです。これは「いっぱい時間をかければちゃんと考えたことになるの?」という問いとほぼ同じ問いです。コミュの最後、雛菜は怒って帰ろうとしますが、そこで選択肢「……レッスン頑張れよ」を選ぶと「雛菜はいつも頑張ってるよ〜…… 知らないかもしれないけど~……」と言います。つまり雛菜は頑張っているのだけれど、それが伝わっていないのです。
ここでは、他のメンバーと一緒に居残り練習をするということが、考えるにあたって時間をかけることに相当し、頑張ることがちゃんと考えることに相当します。時間をかけるということはちゃんと考えるということを必ずしも示さないわけですが、その指標として日常生活の中で機能しています。それと同様に、居残り練習をするということは頑張るということを必ずしも示さないわけですが、その指標として日常生活の中で機能しているわけです。だから即決した雛菜にプロデューサーが驚いたように、居残り練習をしない雛菜に「頑張れよ」と言ってしまうわけです。
これはプロデューサーの側が雛菜を適切に理解できていないということでもありますし、反対に雛菜の側が「ちゃんと考える」とか「頑張る」のような心理的なものを客観的に見えるようにしていないということでもあります。
ただ雛菜の側に、ちゃんと考えているということやちゃんと頑張っているということを客観的に示して理解してもらおうという意思があまりないようだということは注意するべきところかもしれないと思います。そしてそれは雛菜だけではなく、ノクチルの4人ともに共通していることなのではないか、と私は考えています。たとえば樋口円香のWING編、シーズン2の「カメラ・レンズに笑う」。宣材写真を撮った円香のことを「全力で取り組んでくれたからこそ」と言ったのを円香は即否定しています。頑張っているということを客観的に見られることについて、雛菜と円香は対極に位置していますが、両者ともに、心理的なものを客観的なものとして過不足なく外に表すということを行っていないという点で共通しているわけです。透はあまり頑張らなくてもできているかのようなオーラが出てしまう人だし、小糸はアイドルのレッスンも勉強も人一倍の時間を使ってやっているわけですがそれを人に見せまいとしています。
このようにノクチルの4人には、心の内側のこと、自分にとって固有のことを、言葉などの客観的に見えるものへと変換して他人に差し出すということを拒否するという性質があるように私は思います。