市川雛菜G.R.A.D.編について
雛菜のG.R.A.D.編は読後感がよく、描かれた雛菜の姿についても個人的に見たいと思っていたところが描かれてとても嬉しく思っています。もともと雛菜のことはとても好きでしたが、今まで以上に好きになりました。
今回は、雛菜のG.R.A.D.編が【Happy-!NG】と【♡LOG】の2枚のpSSRを背景にしているということ、その上でG.R.A.D.編でどのような歩みを見せているかということを考えていきたいと思います。そこで注目したいのは、エンディングで提示された「市川雛菜」という答えです。この答えはそもそもどのような問いに対する答えであったのかということと、「市川雛菜」がその問いへの答えであるとするときそれはどのような意味であると考えられるのかということについて、考えていきます。
◆「NO!♡ing!」
「♡」と「ing」がタイトルに含まれているところに、このG.R.A.D.編が【HAPPY-!NG】【♡LOG】と同じ方向性のシナリオであるということが示唆されています。
「♡」は【♡LOG】のタイトルにも現れていますが、もともとは雛菜がW.I.N.G.編でよく口にする「やは~♡」「しあわせ~♡」に表れてくる「♡」であり、【HAPPY-!NG】に登場する「進路調査票」のことでもあります。【HAPPY-!NG】「END!NG」では、学校で提出するように求められていた進路調査票を折り紙のようにしてハートの形に折るところが描かれています。進路調査票(進路調査書)は、まさにG.R.A.D.編で出演した番組「これは恋ではありません!」の最後に提出するよう求められたものでした。
進行形(動名詞)を示す「ing」は、【HAPPY-!NG】のカードタイトルと、その3つのコミュタイトルにも表れているものです。雛菜は楽しい時間である今がいずれ終わってしまうことを強く意識しており、そうした楽しい時間がずっと続くことを願っていることが随所からうかがえます。進行形(ing)は、そうした楽しい時間が今起きている最中であるということを感じさせてくれます。
また【HAPPY-!NG】には「Inter♡iew」というタイトルのコミュがあり、このタイトルから「♡」とは「v」のことであるということを読み取ることができるように思われます。雛菜は学校に提出する進路調査票に何を書くのかを悩んでいました。ここで進路調査票とは「♡」であり、その「♡」とは「v」であるということになります。ではこの「v」は何を指しているのか。私はこれは英語における「動詞」を意味する「v」であると考えています。英語で文型を示すとき、「v」は動詞を意味します。「verb」の頭文字の「v」です。
そこから、【HAPPY-!NG】で提出する進路調査票に書かれるべき答えは「v」である、と考えられるようになります。それは特定の何かをするということではなく、動詞そのものを示しているように思われます。「Inter♡iew」で「色々やってみたい」「楽しくて、しあわせになれそうなことなら、なんでも」と語られているように、いろんなことをやってみるということです。カードタイトル【HAPPY-!NG】の「-」は、そのいろんなことをやってみるということに基づく、特定の動詞の不在を示していると私は考えています。【♡LOG】は、そうしたいろんなことをやってみるということの記録のひとつであるという風に位置づけることができると思われます。
「NO!♡ing」というタイトルには、こうした2つのpSSRの文脈が表れているように思います。これは2枚のpSSRを読んだ人に向けたメッセージでもあり、これらのSSRを読んでいない人にも雛菜の進んで行く方向性を分かるように示すものであるように思います。
またこのコミュタイトルですが、これは2通りの読み方が考えられるように思います。1つ目は、「♡ing」に対して「NO」を突き付けるものであるという読み方です。【HAPPY-!NG】で出されたいろんなことをやってみるという答え(「♡活動」と名づけたくなります)に対して、より具体的な答えを出さなければならないときが来た、というようなことを予感させるものです。
もう1つは、G.R.A.D.出場と「これは恋ではありません!」出演という2つの仕事が重なってしまったことについて心配しているプロデューサーに対して、そんな心配はいらない、自分は♡活動を楽しんでいるということを言っているように読む読み方です。
雛菜が出演することになる番組「これは恋ではありません!」は恋愛リアリティショーであり、そのシーズンの最後に出演者は夢か恋か選んで解答(「進路調査書」)することが求められています。複数のうちから1つだけを選択することを求められる状況は【♡LOG】でも描かれており、この選択の問題は雛菜のテーマであるのかもしれません。そもそも将来何をするかということもまた選択の問題であると言えます(進路調査票に特定のものを選んで書くということ)。
この選択の問題に対して【HAPPY-!NG】で出した答えが、♡活動です。特定の何かではなく、いろんなことをやってみるということです。まさにチェリーピッキング(つまみ食い)です。
【♡LOG】では、仕事のオファーが2つ来るのですが、都合上片方のみを選ぶことになっていました。しかしそこでプロデューサーが尽力して、両方とも選ぶということができるようになります。ここに、2つのうち片方のみを選ぶ「or」ではなく、論理学における「or」のようなものを私は感じています。論理学において「or」は、部分的に重なった2つの円の全体を示すのです。
G.R.A.D.編でこの選択の問題に対して雛菜がどう答えているか、ということがこのシナリオのポイントになるところだと思われます。
◆「A.H.I」
エンディングコミュである「A.H.I」では、「これは恋ではありません!」で求められていた夢か恋かという選択に対する雛菜の答えが提示されています。そこで雛菜が出した答えは「市川雛菜」でした。前代未聞としてネットニュースにまでなります。そしてこの答えは同時に、雛菜にとって夢やアイドルとはどういうことなのかという問いに対する答えを提示したものでもあると思われます。順番に見ていきましょう。
◇(1)夢か恋かという選択に対する答え
「これは恋ではありません!」という番組は、アイドルや進学校や部活動などで恋愛が禁止されているような現役高校生を集めて出演させる恋愛リアリティショーということになっています。シーズンの最後に、自分が抱いていた夢か、あるいは番組出演を通して気になった人物の名前を書くかという選択が求められています。雛菜はアイドルである自分の名前を書いており、これは「アイドル市川雛菜」を自分の夢として選んだという風にまず読むことができるところです。
ですがポイントは、番組の通例(ルール?)として、恋を選んだ場合には相手の名前を書くことになっているというところにあります。雛菜は答えとして自分のものではあれ名前を書いており、この点において実は夢か恋かの2択に対して夢のみを選択したわけではないということが示されています。雛菜の答えは自分に対する恋であると読むこともできるのです。
そうすると、雛菜はここでも夢か恋かという二者択一の選択を避けていることが分かります。2つの選択肢のうちどちらか片方のみを選択したのではなく、両方を選んだことになっているのです。ここに選択の問題に対する雛菜の態度が現れているように思います。
コミュタイトル「A.H.I」は、「AnswerはHinana Ichikawaである」という風に読めるのではないかと思います。
◇(2-1)雛菜にとって夢やアイドルとはどういうことなのかという問い
「市川雛菜」という答えは、番組のルールである夢か恋かという選択に対する答えだけでなく、自分はなぜアイドルをするのか、自分にとってアイドルをするとはどういうことなのか、という問いに対する答えにもなっているように思います。この問いは雛菜に固有の問いではなく、ノクチルのシナリオイベント「天塵」や「海に出るつもりじゃなかったし」でも問われていたように、ノクチルの4人に共通する問題でもありました。
この問題に向き合っている様子がG.R.A.D.編の随所に見られます。そのきっかけとなったのが、雛菜の他にアイドルとして「これは恋ではありません!」に出演した男の子のトールです。トールとの交流の中で、2つのテーマが現れてきます。ひとつは、アイドルという概念はどのようなものなのかということで、もうひとつは、ファンとどう向き合うかということです。
トールは雛菜のようにユニットで活動するアイドルであり、今回は自分の所属しているユニットを広く知ってもらうために出演したと言っており、自分は夢を選ぶつもりであるということを話しています。このトールが見せるアイドルの考え方と雛菜のアイドルの考え方がどのように異なるかということがポイントになってきます。そしてこのトールとの考え方に附随して、ファンとどう向き合うのかということの違いもポイントになってきます。
ひとつずつ順番に見ていき、この問いがどのような問いであるかということを確認してみます。
(a)アイドルの概念について
スタジオの芸能人たちはこのトールと雛菜に注目しています。興味深いのは、モニター芸人がこの2人を比較しているところで、この芸人はトールは夢のために出演したが雛菜は遊びに来たと言っています。この観点に基づくと、トール的な夢=アイドルは、遊ぶこととは異なるということになります。(ところでこの注目はおそらく、この2人は恋愛関係に発展するのか的な下世話な好奇心も含むものでしょう。いくら台本があるとはいえ、リアリティショーに出演するのは生身の人間ですし、まして出演しているのは子供である高校生ですから、高校生に向けてこうした下世話な好奇心を露わにしているところにこの番組のえげつなさが現れています。トールと雛菜の比較もこうした下世話な好奇心の存在を前提にすれば、トールは真面目に夢を追ってここに来たが雛菜は遊びに来ているので、雛菜はトールのことを好きになっちゃうかもしれないねというニュアンスが感じられます。「遊ぶ」という言葉は軽い気持ちで恋愛的な関係を他人と結ぶという意味を含む言葉です。)
遊ぶということとは異なるトール的な夢とアイドルの概念は、雛菜にとってはそぐわないものになります。雛菜はトールに向けて、自分とトールの「アイドル」は同じではないと言っています。「雛菜は誰かのためじゃなくて、自分が楽しくてしあわせでいるために、アイドルしてる」からです。雛菜にとって「アイドル」と「遊ぶ」ことは排他的なものではないのです。
進路調査書に何を書くか決めたかという質問にたいしても、雛菜は迷いを見せています。「『アイドル』……なのかなって思ったけど、でも、ちょっと違ってて。雛菜は雛菜の楽しくてしあわせなことをし続けていきたいので~…… ん~…… でも、それが『アイドル』なのかな~?」。
雛菜のこうした迷いがどういう迷いなのかは、G.R.A.D.編のエンディングコミュでこう語られています。「『アイドル』とはこういうもの! とか言われてもよくわかんないから」。ノクチルの「天塵」でも同様の描写がありました。雛菜が迷っているのは、「アイドル」という概念が自分にフィットするものであるかどうかということです。
ここでの「アイドル」という概念は、雛菜が自分で思考したりイメージしたりする私的なものではなく、一般に用いられている概念であり公共的なものです。それは世間の人々や業界人やアイドル当人たちが用いイメージして作りあげるもので、いわば社会通念的なものです。これは雛菜個人がどう考えるかとは無関係に、そこにある「アイドルとはこういうもの!」というイメージです。
雛菜がアイドルとして活動するとき、そうした「アイドルとはこういうもの!」という社会通念的なイメージを雛菜に対して覆いかぶせて雛菜を理解しようとしたり、そのようであることを雛菜に要求したりする人がいるはずです。自分はアイドルであるということを自ら認識し、そう名乗ってやっていくということを決意するなら、そうした「理解」や「要求」をいくらか容認する必要が出てきます(そう容認することもまた要求されます)。雛菜が迷っているのはおそらくここではないかという気がしています。雛菜はこれを容認する気がないのではないか、ということです。
もしそれを容認するのだとしたら、アイドルとしてこうあるべきであるとか、このようなアイドルであってほしいという他人からの要望や要求に応えなければならなくなります。雛菜が目指しているのは、そうした要望や要求に応えることではなく、まず自分が楽しくてしあわせなになれることをするということです。そこで「アイドル」の社会通念的なイメージが、雛菜にとってそぐわなくなってくるので、容認する気がないのではないかという気がしてくるのです。
(b)ファンに対して
トールと雛菜を比較するとき、ファンに対する態度の違いも重要です。
トールは、シーズンの最後に自分の名前を書きたいと言った子が現れたことで、「ファンのみんなを、驚かせちゃうだろうし」と言って悩んでいます。実際この子が現れたことでトールのファンはざわつき、その子に対する攻撃を始めた人も現れてしまいました。トールはファンを想っており、ファンのためを意識してアイドルをしている(それが全てかどうかは分かりません)ことがここから分かります。一方雛菜がアイドルをするのは「誰かのため」ではありません。モニター芸人が比較したようにトール的な活動が「アイドル」としてふさわしいのだとすれば、やはりその「アイドル」概念は雛菜にとってそぐわないものになってしまいます。
トール的アイドルを図式化すると、アイドルはファンのために活動するということになります。ときにアイドルは、ファンの要求に応えたり、ファンが想像する人物像を自分のものとして引き受けたりすることが必要になってきます。ここではファン(になりうる人)の存在が前提になっています。ファンの要求に応えるため、ファンを新たに獲得するためにアイドルは活動するというわけです。つまりアイドルの行動の動機の基軸が、ファンの存在の方に置かれることになります。これは特異なあり方ではなく、むしろアイドルとして一般的に考えられる概念に近いものではないかと思われます。
一方の雛菜は、ファンの存在が前提になっておらず、ここが逆転しているように見えます。自分のアイドル活動がどんなものであるか、雛菜は次のように説明しています。
「雛菜は誰かのためじゃなくて、自分が楽しくしあわせでいるために、アイドルしてるので。そういう雛菜を見て、誰かが楽しくなったりしあわせになったりしてくれるから。……だから、いつも雛菜は雛菜がしあわせな方を、選ぶようにしてます」
この態度はW.I.N.G.編の初期からずっと一貫しています。誰か他者を喜ばすことを目的とし、その目的のために自分が活動するということではなく、まず自分が楽しくあるということを重視しており、自分が楽しくなることに附随して誰かが喜ぶことを目指すという風になっています。ファンの存在が前提になっていたトール的アイドルとは順序が逆になっています。
ですが、ファンが喜ぶということは雛菜にとってオマケのようなものではありません。G.R.A.D.編では、ファンの存在を意識した部分が描かれ始めています。トールのファンの一部の人たちが、トールに思いを寄せる子に対してバッシングを始めてしまったことをプロデューサーから聞いたときの会話に、そのきっかけが感じられます。
バッシングを始めてしまったトールのファンたちに対して雛菜は、「誰かを攻撃しないといけないくらい、すきな人が自分のしあわせの全部ってことでしょ~?」「大変そうだよね~……」とどこか他人事といった風に論評するのですが、ここでプロデューサーはすかさず「雛菜にも、いるかもしれない。雛菜が……幸せの全部、っていうファンも」と指摘しています。この指摘は雛菜にとって考えるきっかけになったような、そんなリアクションを見せていました。
◇(2-2)夢やアイドルとはどういうことなのかという問いへの答え
雛菜にとってアイドルとはどのようなことなのか、雛菜はファンにどのように向き合うのか。これらの答えとして提示されたのが、「これは恋ではありません!」のシーズン最後の進路調査書に「市川雛菜」と書いたということです。この一つの答えに、アイドルという概念とファンへの向き合い方の2つのテーマへの答えが凝集されています。
(a)アイドルとは何か
この解答からまず読み取れるのは、社会通念的なイメージとしての「アイドル」であるということを雛菜は引き受けなかったということです。モニター芸人がトールと雛菜を比較したように、社会通念的なイメージでの「アイドル」は「遊ぶ」ことではありません。でも雛菜がしたいのは、楽しくてしあわせなことです。この解答を提示したとき、雛菜はこう言っています。
「雛菜は今、やってる活動がすっごく楽しくてしあわせで、それを続けていきたいなって思ったんですけど、それって『夢』とか『アイドル』っていう書き方でいいのかな~って思って」
ここで言われている「夢」とか「アイドル」は鍵カッコ付きになっていて、そこからこれらは人が一般的に言うような意味での社会通念的な概念を指していることが感じられます。雛菜がやりたいと思っていることは、そうした「夢」や「アイドル」ではないということです。
もうひとつ、自分の固有名を書いているというところにまた存在論を読み取ることができます。ここで書かれている「市川雛菜」という名が、進路調査書への答えであるということを考えると、これは「市川雛菜は将来何になりたいのか」という問いに、「市川雛菜は市川雛菜になりたい」と答えていることになります。そして雛菜はつけ加えてこう言います。「もう『アイドル』を雛菜にしちゃいばいいのかも!」と。この発言は超重要です。
雛菜が言っているのは「市川雛菜とは何であるか」「市川雛菜とはアイドルである」ではなく、「アイドルとは何であるか」「アイドルとは市川雛菜である」ということになります。ここで後者を前者へと転換することはできません。「アイドルとは市川雛菜であるとするならば、市川雛菜とは何か」と聞かれたら、「市川雛菜とは市川雛菜である」としか答えられないのです。ここで言われている「市川雛菜である」ということは、アイドルであるとか学生であるといったこれこれの属性に置き換えられるようなものではなく、まさにこれである!と現実にある人物を指すことでしか示し得ないものです。(cf.スラヴォイ・ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』鈴木晶訳,河出書房新社,第3章。)
ここで雛菜が行っている逆転は、「アイドル」という社会通念的なイメージに対して自分を疎外する(alienation)のではなく、むしろ自分の存在の方を基盤として、それを「アイドル」という概念をピン留めする支えにしまうことです。ここに再びシャニマスの存在論を感じますし、疎外を拒否するというノクチルの態度も感じます。
(b)ファンに向けたメッセージ
またこの「市川雛菜」という解答は、ファンを意識した雛菜の少し新しい態度も読み取ることができます。G.R.A.D.優勝後のコミュの会話からそのヒントをうかがうことができます。
G.R.A.D.決勝前、プロデューサーは「勝っても負けても、どっちでもいい」と言っていました。「雛菜が楽しめて……これが『市川雛菜』なんだって言えるステージになるのは ……もう、わかりきってる」とも言います。優勝するかどうかはともかく、雛菜が楽しめるかどうかが重要であとプロデューサーが考えていることが分かります。雛菜が楽しめるかどうかということは、雛菜にとって非常に重要なポイントであり、プロデューサーがそのことを理解しているということは雛菜にとって嬉しそうでした。
G.R.A.D.優勝後、プロデューサーは雛菜の優勝を喜びます。「雛菜の凄さが証明できたみたいで。……優勝できたことも、嬉しいよ」と言っています。これに対する雛菜の応答がポイントです。雛菜はこう言っています。
「雛菜が楽しくしあわせ~にステージに立ってるだけでいいよって言ってくれる人もいると思うけど、いっぱい応援したらその分、負けちゃった時に残念に思う人も、いるでしょ?」
「もしかしたら雛菜よりずっと、雛菜のことがしあわせの全部になっちゃってる人もいるのかもしれないし」
「だから、ちゃんと何が雛菜にとってしあわせなのか、みんなに、伝えないとね」
トールのファンが、トールに思いを寄せていた子に対してバッシングを始めてしまったことを聞いたとき、それほどまでにアイドルを自分の幸せの全てにしてしまうファンの存在について雛菜はどこか他人事のような感じでしたが、ここではそうしたファンが自分にもいるのかもしれないということを雛菜は強く意識していることが語られています。
この「雛菜よりずっと、雛菜のことがしあわせの全部になっちゃってる人」に向けて、「何が雛菜にとってしあわせなのか」をちゃんと伝えようと決意した結果書かれたのが、進路調査書の「市川雛菜」という解答であったと思います。こうしたファンに向き合うことを意識した上で書かれたこの解答について、私は2つの読み方を考えています。
(α)ひとつは、「雛菜よりずっと、雛菜のことがしあわせの全部になっちゃってる人」たちが「しあわせ」であり続けられるように、雛菜自身が真に「しあわせ」でありつづけようということです。
雛菜の活動は、雛菜自身が楽しくしあわせであることに基盤を置いています。雛菜が楽しくしあわせであることによって、そうした雛菜の姿を見る人たちも楽しくしあわせになれる。こういうプロジェクトです。
ですがもし雛菜が楽しくしあわせでいられなくなったとしたら、どうなってしまうでしょうか。「雛菜よりずっと、雛菜のことがしあわせの全部になっちゃってる人」たちは、その人たちの「しあわせ」を失ってしまうことになります。その人たちが「しあわせ」であり続けられるのは、雛菜が楽しくてしあわせであり続ける限りにおいてだからです。
それゆえ、そうした人たちが「しあわせ」であり続けられるためには、雛菜自身が真に楽しくてしあわせであり続ける必要があります。そのためには、雛菜自身が、自分にとって何が真に楽しくてしあわせなのかということをよく問い続けなければなりません。これは自分にとって本当の欲望とは何かという精神分析における問いにも似ています。思考の結果「アイドル」という社会通念的な概念を拒否しえた人ですから、そうした問いを自らに向けるほどの胆力が備わった人物であると私は思います。
(β)もうひとつは、雛菜自身が「夢」や「アイドル」といった社会通念的な概念を拒否し、自分自身の存在を基盤として楽しくてしあわせなことを探すということを示すことで、「雛菜よりずっと、雛菜のことがしあわせの全部になっちゃってる人」たちに対しても、自分自身を基盤にした楽しくてしあわせなことを探してねというメッセージであるという読み方です。こちらの方がより社会批評的なニュアンスが出てきますが、雛菜がこうしたメッセージを意識していたどうかは私には確信はありません。確信はないのですが、こうした読みは不可能ではないと思います。
「すきな人が自分のしあわせの全部」になっているという人は、それほどまでにその人のことが好きなんだという思いの大きさを感じられるわけですが、「しあわせの全部」を自分以外の他人に左右されてしまう危険があります。もしその「すきな人」が不幸な目にあってしまったり、犯罪を犯すなどファンを裏切るようなことをしてしまったりしたとき、その人は「しあわせの全部」を失ってしまうことになるかもしれません。
いわゆる「推し活」に関して、推しの存在が自分の全てになってしまっているような人がいたりします。私はそういう状態をやや危険な状態であると感じています。自分が何者であるかということを、自分自身ではなく他者に委ねてしまっているからです。しかも自分にとって全く制御が効かないような他者に委ねてしまっていることになります。そうすると自分が何者であるかということの基盤に対して、自分のことなのに自分で制御できないことになってしまうわけです。それゆえこの状態は危険なのではないかと感じるのです。
雛菜が自分が楽しくてしあわせであるということについて社会通念的な概念をはねのけて自分自身の存在を基盤にするとき、そうした基盤を他者に委ねてしまっている人に対して、あなたも自分自身が楽しくてしあわせであるということを自分自身の存在を基盤にして考えてみてと伝える効果があるのではないかという気がしてくるのです。
このとき、雛菜が書いた「市川雛菜」という解答が、夢か恋かという2択に対する解答であったことが効いてくるように思われます。雛菜は夢か恋かという2択に対して、片方のみを選ぶということを回避していました。それゆえ「市川雛菜」という解答は、夢としての意味だけでなく、恋としての意味も読み取ることができるようになります。
ここで恋の対象として「市川雛菜」という名が書かれたことをどう考えればよいかというと、ここでも2つの読みが考えられます。ひとつは、自分自身が真に楽しくてしあわせであり続けられるように、ちゃんと「市川雛菜」であるということを追い求めるというようなニュアンスです。
そしてもうひとつは、恋というよりは愛に近いようなものかもしれませんが、自尊心に近いようなものとして自分を愛するというニュアンスです。自分にとって真に楽しくてしあわせになれることは何か、自分自身の存在を基盤としたときに自分自身が楽しくてしあわせになれることは何か、といった問いを自分自身に向け、その楽しくてしあわせになれることを追い求めるためには、ある程度の(あるいはかなりの)自尊心や自己愛が必要になるのではないかと思われます。自分自身のことを自分で尊重できないと、自分がやりたいと思うことに自分で耳を傾けるのは難しいと思われますし、たとえそれを聞くことができてもその実現に向けて行動を起こすことは難しいと思います。
雛菜が自分自身を恋の対象として提示するとき、そんなことができるのは雛菜みたいな特別な人間だけだという気もしてきますが、必ずしもそうだと受け取らず、雛菜みたいに自分自身を愛してもいいんだと受け取る人がいるかもしれません。そういう効果は期待できるように思いますし、もしそうなったら素敵なことだと私は思います。
◇「A.H.I」のもうひとつの読み方
以上のように考えたときエンディングコミュ「A.H.I」のタイトルのもうひとつの読み方が浮かび上がってくるような気がします。最後にそのことについて考えてみましょう。
それは「AnswerはHappyなIである」という読み方です。私はこちらの読み方の方が、より重要なのではないかという気がしています。というのも、このタイトルの「I」にはピリオドが付いていないからです。アルファベット大文字に付くピリオドは、その大文字がイニシャルの略記であることを示しています。「W.I.N.G.」や「G.R.A.D.」も、それぞれのアルファベットにピリオドが付いており、それらが正式名の単語のイニシャルであることを示しています。
このピリオドを、アルファベット同士を結び付けるハイフンのような役割で用いて、例えば「W.I.N.G」「G.R.A.D」のようにアルファベット間だけに記入するような書き方をしているものも多くありますが、単語の略記を示す場合は全てのアルファベットにピリオドが必要になります。
「A.H.I」について、「I」にピリオドが付いていないのは、アルファベット間にのみピリオドを記入する記法に基づいているとも考えられますが、「W.I.N.G.」「G.R.A.D.」それぞれに律儀にピリオドが付いていることをふまえると、「I」にピリオドがないのはそれが略記ではないからだと考えたくなります。もし略記ではないとすれば、それは「I」(私)ではないかと考えられるのです。3つ目のコミュのタイトルが「IMyMeMine」であるところからも、一人称代名詞「I」がやはりポイントなのではないでしょうか。
myやmeは、一人称代名詞が格変化したものです。格変化というのは、名詞などが分の中で他の単語との関係で形を変化させることを指します。コミュ「IMyMeMine」は、トールとの会話の中でアイドル観の違いを確認したものででした。それをふまえると、このコミュタイトルは、アイドルとは何か、自分はアイドルとしてどのようでありたいかということが、ファンなど他の存在との関係の中で変化していく様子を代名詞の格変化になぞらえたもののように感じられてきます。それは主にトール的なアイドル観であり、ファンの存在を前提にしたアイドル観は、そのあり方はファンに左右され、変化していくことになります。そしてそのように自分のあり方を他者に委ねると、自分自身を曖昧(アイマイ)にもしてしまうという風に読めてきます。
雛菜はそれに対して「I」を示します。「I」は動詞の主語となる一人称代名詞であり、動作の主体になるものです。他者によって左右されることなく、自分自身が真に楽しくてしあわせになれることを自分自身でするという、そういう主体性をこの主語となる一人称代名詞「I」に読み取りたくなるのです。
*ここから追記*
2021/4/29
「雛菜よりずっと、雛菜のことがしあわせの全部になっちゃってる人」に向けて、「何が雛菜にとってしあわせなのか」を伝えるということの結果「市川雛菜」と書いたことの意味について、もう一つの読み方を思いつきました。
(γ)トールの一部のファンの人たちがトールに思いを寄せる子に対して攻撃を始めてしまったのは、そうした事態をその一部のファンの人たちが良しとしなかったからです。それはトールに思いを寄せる子が現れたということがそうしたファンの人たちにとって好ましくないからだと思われますが、おそらくそのファンの人たちはそれだけではなく別のことも言うと思われます。それは、「トールに思いを寄せるなんて、トールに対して迷惑だ」ということです。何がその人にとって良いことであるのかということは、本人が自分の考えに基づいて決めるべきことだと思われますが、ここではトールにとって良いかどうかはトール本人の考えに基づいていないことになります。
このようなことがなされてしまうのは、アイドル「トール」がどのようなものであるかという像がトール本人そのものを追い越して作り出され共有されているからではないかと思います。アイドルをするにあたってファンの要望に応えることを重視する場合、こうしたファンの存在の行動はアイドル側には制御が効かなくなってしまいます。社会通念的なアイドルのイメージを容認するということは、このような状態へと繋がっています。
一方の雛菜は、ファンの要望に応えるなど、社会通念的なアイドルのイメージを容認しません。雛菜はいつも自分が楽しくてしあわせになれることを目指していますが、それはまずもって自分がそうであるということを目指しています。自分が楽しくてしあわせになった上で、そうした雛菜を見たファンもまた楽しくてしあわせになる、ということを目指しています。雛菜は、「いつも雛菜は雛菜がしあわせな方を、選ぶようにして」いると言っています。ここからトールとの違いがはっきりしてきます。雛菜がトールと異なっているのは、自分のいる状況が自分にとって良い状況であるかどうかは自分の選択で決めているということであり、そしていつも自分のいる状況は自分にとって良い状況である、ということです。
トールの一部のファンの人たちがバッシングを始めてしまったのは、トールの置かれた状況が「トール」にとって望ましくないと思われたからではないかと考えました。ですが雛菜にとっては、雛菜はいつも自分にとって楽しくてしあわせな状況におり、その状況は雛菜自身が選んだものなのです。それゆえ「何が雛菜にとってしあわせなのか」を伝えるというのは、この状況は雛菜にとって楽しくてしあわせなことであり、それは雛菜自身が選んだことであって良しとしている、ということを伝えるということになります。そして「市川雛菜」という解答は、雛菜がどのようなアイドルであると理解されているかということや、どのようなアイドルであってほしいと要求されているかということに基づいて状況が選ばれているのではなく、雛菜自身の考えに基づいて雛菜自身によって状況が選ばれているのだということを、示していると考えられるのです。
このことが雛菜のファンに伝わるとすれば、トールの一部のファンのように雛菜に変わって雛菜の状況の良し悪しを判断したり、そうすることで怒りや悲しみを抱いたり、誰かを攻撃したりすることはないはずだと考えられるのです。雛菜の状況はいつも雛菜にとって楽しくてしあわせな状況であり、雛菜本人が良しとしていることだからです。