#百物語零レ桜 陰公演に参加した感想(ネタバレなし)。場所と季節を変えて繰り返される儀式、身体に刻まれた記憶、桜について。短文。中身には触れていません。
"これは再演ではない。新作だ…!"
ーーELZZAD, 2023.3
京都の身体記憶が強烈すぎて、寒くないはずなのに芯から寒いような、変な感覚。春の桜も、冬の冷えの記憶をその身に宿して咲くのかなあと思ったりした。
同じ百物語という儀式に、場所も季節も違えて参加できるということ、その幸せを噛み締めながら漂った。
……とは言いながら、これって本当に「同じ」儀式なんだっけ?と我に返る自分もいた。
枠組みこそ同じ儀式なのだけど、場所も季節も全然違う。
暖かい日差しを浴びながら、自分には場違いな表参道の中心街を歩いて、ふわふわと不思議な状態のままに会場に入って、纏ってきた空気があまりに知らないものだから、「「ここは知っている場所ではない」」という感覚が強まる。
だから逆に聞き慣れた97話目が始まった時、「デジャヴ……?」「この話知っている……繰り返しているのか……?」などと奇妙な疑問がよぎった。
知っていることは当然ではない。知っている通りになるとは限らない。97話目が毎回必ずあの怪談になると、誰が保証できるだろう?
そして98話目の情報量に脳が上げる悲鳴を聞きながら、やっぱりこれは自分が知っている儀式ではない、完全に別物だ、いやそもそも一つとして同じ儀式などないのだ、ということを思い知る。
待てよ、気づいていないだけで、見えていないだけで、実はこの儀式はそこここで行われているのかもしれない。あるいはどこかの並行世界で、毎度中身を変えながら、儀式が繰り返されていてもおかしくない。
かと思えば、何かの音や何かの光や何かの言葉をきっかけにして京都五條会館のあの底冷えの記憶がやってくる。
一瞬、下北沢の土砂降りの雨の匂いが鼻をつく。
別の場所で、別の季節に行われた過去の儀式に、たしかに自分が参加していたという身体の記憶。
そうしているうちに、過去の儀式の記憶を身体全体に宿しながら、毎度一つとして同じ中身のない儀式に参加する、ということが、いかに重層的な体験か、ということに気がついた。
表参道という煌びやかな街の片隅で、うららかな日差しを浴びて、鼻をすすりながら参加した儀式の記憶は、きっとまた身体に刻まれる。音や光や影や感情とともに。
そしてこれからまた色々な場所で色々な季節にこの儀式が続けられていくのだとしたら、その度に記憶は積み重なっていくだろう。
それらの記憶を宿しながら、不可避に呼び起こされながら、なおも新しい物語が、一回ごとに生まれ続けていく。
「ものすごい思いで」集った参加者全員で作り上げられる一回きりのドラマ。本当に一つとして同じものはなく、かつ驚くほど美しくて儚い。
それはまさに、桜の木が、これまでに通過してきた幾たびもの冬の冷えの記憶を宿しながら、何巡もの春夏秋冬の記憶を宿しながら、この春に一度きりの花を咲かせる、溢れんばかりに美しく同時に儚い花を咲かせる、という営みに似ているかもしれない。
もしかして、それこそがひとつの「文化」なのではないか。
と思った。
そうだとしたら、「零レ桜」とは、なんというタイトルだろう。