「君が朝日よりもまばゆいので」
大晦日の夜トンネルを抜けたイブルイSS
(原作の物語の核心はぼかしています)
二回りほど小さな靴跡が、まだ暗がりの砂浜に一歩ずつ刻まれていく。
持ち主の体の軽さを反映するように、小さな──大型肉食獣の自分から見ればの話であって、おそらく草食獣の青年としては標準的ではある──足跡は浅く、波が重なればすぐに跡形もなくかき消されてしまいそうに思えた。そんな不安から気を逸らしたくて、目の前を歩く小柄な影をしっかりと見つめる。彼は、ここにいる。
「寒くないですか、やっぱり車で待ったほうが」
「お前のジャケット、俺が羽織るとちょうどコートみたいになって暖かい」
牡鹿は振り返らず、ほんのり笑うような声だけが返ってくる。
細い背中をすっぽり覆っているジャケットは、彼の膝のあたりで潮風に裾をはためかせていた。ちぐはぐな身幅を除けばたしかにコートと呼ぶのにふさわしいシルエットだ。
吐く息が一瞬だけ真冬の空気を白く染め、そして消えてをくり返す。体温が高いとはいえ、さすがにシャツ一枚きりでは夜明け前の冷え込みは容赦がなかった。それでも不思議とそこまで寒さを感じないのは、静かに気分が高揚しているせいだろう。
「さっきより少し明るんできたか?」
「そうですね、少し赤くなってきたような」
歩きながら水平線を見やると、縁のあたりから少しずつ夜空が塗り変わっていく様子がわかる。そろそろ彼の目にもさざなみが見えてくる頃かもしれない。
彼と過ごす時間は心地よく、いままでに感じたことのない穏やかな気持ちをこの身にもたらした。けれど、どこかでそれを素直に喜ばしく思ってはいけない気がして、無意識のうちに自分にブレーキをかけていた。いつもそうだ。苦しい渦の中に何十年もいたからか、うっかり幸せになりかけると忌避感のようなものを覚えてしまう。
渦の中にいたいわけではない、むしろ抜け出したい。それなのにどうやら現状に慣れすぎてしまったせいで、絵に描いたような幸福が訪れそうになるとすぐ「そんなはずはない」と、自分から手放してしまいたくなるのだ。幸せであることはその状態が維持されているあいだは良いが、もしそうではなくなったら?
幸福を失ってしまうことは、不幸であることよりずっと恐ろしいことに思える。そしてその意味を、この牡鹿に──ルイに出会ってより深く理解できてしまった。幸福を失うことはつまり、彼の存在を失うことにほかならなかった。
完成された幸福ほど、脆く壊れやすいものに見えて仕方がない。それを適切に扱ったことのない手で、どうして安全に維持することができると思う。最適な加減を探るうちに台無しにしてしまうかもしれない。そんなことをしている間にも、手の届かない場所へ消えてしまうかもしれない。
「あ、」
突然立ち止まったルイにぶつかる一歩手前でこちらも足を止める。
まばゆい光に包まれた太陽が、ゆっくりと水平線から起き上がる。空も海もまるでそれを祝福し、歓迎するかのように、いくつもの色ときらめきで朝日のまわりを彩っていた。
隣で朝焼けに被毛を染め上げられている彼は、じっとその上昇を見つめている。短い被毛の毛先が光の粒で濡れたように光る様は、天上で拵(こしら)えた織り物のようだった。朝日を飲み込んで輝く瞳の色彩が、信じられないほどに美しい。宝石の例えも色の名前も無意味に思えた。どこかの誰かが考えた作り置きの言葉を当てはめられるようなものではないと言ったら、「大袈裟だな」と笑われるだろうか。
「海辺で初日の出なんか初めて見た」
「俺もですよ」
こちらを向いた両目が、角度を変えて何度もきらめいて見せる。見つめているうちに、自然と目頭が熱を持ちはじめていることに驚いてしまう。この光景をずっと待ち望んでいたかのような、言いようのない感動が体中を満たしていく。
ふと、ポケットに入れた右手にぬくもりを感じた。視線を下げると、差し伸ばされた左手にそのまま引き抜かれ、冷えきった外気に包まれる前に絡んできた細い指にそっと握られる。
ぎゅっと握ってくる手が、「離すなよ」という意志をしっかりと伝えて寄越す。もう失うことも、手放すこともしない決意を込めてほんの少し指先に力を込める。まっさらな朝日に照らされ、体温を分かち合う繋いだ両手は、さながら誓いのようにも思えてくるのだった。
end.