バーニッシュにとって「バーニッシュであること」はアイデンティティであったと同時に宿業でもあったのでは? プロメアが消えたのは、バーニッシュたちが自分たちの使命を果たしたからではないだろうか? という私見です
このふせったーは、ガロとリオが分断を乗り越える過程の「起承転結」について考察した、こちらの文章(https://fusetter.com/tw/43fHf#all)の番外編のようなものです。
本題に入る前に、このふせったーを書き始めた経緯についてお話しさせていただければ幸いです。めちゃくちゃどうでもいい自分語りというか、持論の開陳のようになってしまっていて非常に恐縮なのですが、本題に繋げていくための前振りのようなものですので、ご容赦ください。
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プロメアというフィルムに対して、そのラストが「バーニッシュと非バーニッシュの間に差異を生み出していたプロメアが消失する」という結末なのは、結局のところ「同化」を肯定しているのではないかというご意見やご批評があるということについて、頭の片隅でずっと考えていました。
まず初めに、私はその方々がそのようなご意見を持たれることを、おかしなことだとは思っていません。実際に、フィルムのラストでプロメアは(地球上から)消えているのですから。その上で「けれど、私はこのように思うよ」という一つの私見を、冒頭でリンクを貼ったふせったーの末尾に記しました。
私は、作品の解釈というものは、その作品と受け手との間に生じる関係性そのものであると思っています。同じ作品と対峙していても、受け手によって読み取り方が違うのは当然のことです。なぜなら、全ての個人にはその人に特有の歴史があるから。その人が歩んできた人生、積んできた経験、味わってきた感情、培ってきた価値観などによって、一つの作品と一人の受け手との間に生まれる化学反応には、無限のバリエーションがあります。
なので、究極的には、その作品を作り出した制作者の頭の中に「正解」があるわけではない、という考えを持っています。
けれど、それと同時に、その作品の中にちりばめられたあらゆる要素から、制作者が込めようとした(と思われる)テーマやメッセージを読み取ろうとする姿勢は大切である、とも思っています(もちろん、世の中にはいかなるテーマやメッセージも含まず、含まないことをもってエンターテインメントとしているような作品群もありますが、少なくともプロメアは、そのようなタイプの作品ではないと思います)。
先にリンクしたふせったーの中で私は、プロメアの消失という展開は「同じ人間同士でありながら属性が異なるという理由で分断されていた者たち(ガロとリオ)が手を取り合うことによって、地球と人類を救う」という結末をダイナミックに描こうとしたときに脚本上必要とされただけであって、プロメアという物語が私たちに伝えようとしたメッセージは、決して「同化の肯定」ではない、という私見を述べました。
けれど、バーニッシュが「バーニッシュである」こと、「プロメアという炎を有する者である」ことを彼らの個性やアイデンティティとして捉えた場合、プロメアが消失するという展開について、「結局のところこの作品は、マイノリティがマジョリティに同化させられることを肯定しているのではないか」という解釈が発生するのは、ごく自然なことだとも思うのです。
実際にフィルムのラストでバーニッシュたちはバーニッシュではなくなり、非バーニッシュたちとの間に存在した目に見える形の差異は消滅しているのですから、その受け取り方に特別悪意があるだとか、意地悪な見方をしているだとか、そんなことはないと思います。
誇り高いバーニッシュであろうとしたリオや、そのリオの思想や信念に追随したゲーラとメイス、そして彼ら以外の名も無きバーニッシュたち一人一人に感情移入すればするほど、プロメアの消失という彼らのアイデンティティの消失に、少なからず心を痛めることになったという視聴者の方々は多いのではないかと思います。
ただ、それと同時に、あれだけ緻密に計算され、練られに練られ尽くした作品を作り上げる制作陣の方々が、あのエンディングでは同化を肯定していると受け取られかねないということを予測できなかったとも、私は思えなかったのです。そして、「差異を認め合って手を取り合う」というテーマ性を持つ作品を世に送り出したクリエイターたちが、同化という不平等で一方的な和解策を消極的にでも肯定するような思想の持ち主たちだともまた、思えませんでした。
現実の私たちが常に直面している課題でもある「分断の克服」というテーマをあれだけ丁寧に描いてくれた人々が、同化の肯定であると受け取られかねない描写を、仮にそれが「『観客に特大のカタルシスを提供する』という使命を持つエンタメ映画のドラマチックな結末として、脚本上必要とされた」のだとしても、そのまま漫然と放置しているとは考えにくいのではないだろうか?
そのようなことをしばらく考え続けるうちに、「プロメアの消失」という現象には、もっと別の読み取り方が用意されているのではないか…と、思うようになりました。
私がそのように考え始めた理由は、先に述べたような制作陣の方々に対する根拠希薄で勝手な信頼のみによるものではありません。果たして、バーニッシュがバーニッシュであること、炎を操る者であるということを、彼らの個性でありアイデンティティであると言い切ってしまっていいものかという疑念が、もともと私の中にあったのです。
もちろん、バーニッシュがバーニッシュであることは、彼らの個性でありアイデンティティーであると、私は思っています。それを前提とした上で書き上げたのが先述のふせったーでしたし、あの中で記した私の考えは今でも変わっていません。私の疑念は、「でも、本当にそれだけなのか?」というものでした。
その疑念の形は長らく曖昧なままで、自分でもなかなかその正体を掴めずにいたのですが、最近になってやっと自分なりの答えを得られたので、それを文章にして残しておきたい、と思いました。
前置きが長くなってしまいましたが、このふせったーは、そんな試みの結果です。
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バーニッシュがバーニッシュであること、炎とともに生きる者であることは、確かに彼らのアイデンティティであり、個性であると思います。だからこそ、リオは「炎はぼくらの一部だ」と発言したのだし、非バーニッシュたちから徹底的に否定され、蔑ろにされたそのアイデンティティを主張し、肯定し直すために、マッドバーニッシュたちは街を燃やすのです。
けれど、「バーニッシュであること」が持つ意味は、本当にそれだけでしょうか?
その疑念を私に抱かせた主な要因は、
① バーニッシュが抱く「燃やしたい」という衝動がプロメアの意思によるものであること
② バーニッシュの能力が生まれつきのものではなく、外的存在によってもたらされた突然変異的なものであること
③ プロメアが固有の自意識を持つ生命体であること
という、三つの設定でした。
そして、それらとは別にもう一つ、
④ プロメアがバーニッシュに与える燃焼能力があまりに強力であること
も、気にかかりました。
先に結論を述べておきますと、タイトルに記した通り、私はバーニッシュにとって「バーニッシュであること」とは、彼らにとっての個性やアイデンティティであると同時に、「望みもしないのに突然付与された強大すぎる力」という『宿業』でもあるのではないか、と思いました。そして、フィルムのラストでプロメアが消失したのは、バーニッシュたちが自分たちの『使命』を果たしたからではないか、と。
その結論に至った過程を、先に挙げた四つの要素を順番に辿りながら、記していきたいと思います。
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まずは一つ目の、「① バーニッシュが抱く「燃やしたい」という衝動がプロメアの意思によるものであること」について、「④ プロメアがバーニッシュに与える燃焼能力があまりに強力であること」と合わせて、整理していきます。
プロメアという映画において、バーニッシュを代表する者として配置されているキャラクターが、リオ・フォーティアです。
リオは、非常に自己肯定力の高い少年だと思います。彼は自らがバーニッシュであるということに誇りを見出し、その誇りを他のバーニッシュたちにも分け与え、共有することで、彼らを導いていこうとしたリーダーです。そんなリオのバーニッシュとしての信念、言動、生き様は、あまりに誇り高く美しい。だからつい忘れそうになってしまうのですが、本来、目の前の物や人を感情のままに焼き払ってしまえる能力などというものは、一人の人間が背負うにはあまりにも大きすぎる力です。
フィルム冒頭のシーンを思い返せば分かるように、自分の意思とは全く関係なく、急に体の中から炎が噴き出してきて目の前の人間を焼き尽くしてしまうというのは、悪夢としか呼びようがないような体験です。焼き殺された相手にとってもそうですが、焼き殺してしまったバーニッシュにとってもです。
満員電車の中で同乗者たちを焼き尽くしてしまった東京のサラリーマンも、渋滞状態の橋の上を炎の海に変えてしまったサンフランシスコのドライバーも、自分に暴力を振るうパートナーを焼き殺してしまったパリの女性も、ただイライラしたり、怒ったり、悲しんだりしていただけです。ただそれだけなのに、プロメアという宇宙生命体が地球のコアに転移してきてしまったせいで、そしてたまたま、彼らとシンクロするための条件が揃ってしまっていたせいで、殺戮者になってしまった。
本来、人間には「内心の自由」というものがあります。目の前の相手に対して強い怒りを覚えたときに、心の中で「ぶん殴ってやりたい」「八つ裂きにしてやりたい」「自分と同じ気持ちを味わわせてやりたい」などと思うことは、誰にでもあることでしょう(ないでしょうか。私は…あります、ごくたまに)。場合によっては、もっと直截的に「殺してやりたい」と思うことだってあるかもしれません。
そして、それ自体は、他人から非難されるべきことではありません。実行に移しさえしなければ罪にはならないし、社会の秩序も保たれます。現実世界でも、誰かを殺してやりたいと思って実際に殺してしまう人は、ほんの一握りでしょう。
けれど、バーニッシュたちは、誰かに対して強い敵意や殺意を覚えたとき、それがほとんど自動的に現実の暴力に繋がってしまう。非バーニッシュであれば心で思うだけで済んでいたものが、バーニッシュであるがために、実際の暴力として問答無用で発現してしまう。
生きている限り、何かに対して怒ったり、悲しんだり、恨んだりしないでいることは不可能です。内心で渦巻く激情がそのまま物理的な加害行為にならないように抑えるもの、それが人間の持つ理性です。けれど、バーニッシュの心身に巣食ったプロメアの意思は、この理性をしばしば征服してしまう。これは人間社会で生きていこうとする上で、とんでもなく重い枷だと思います。
バーニッシュとして覚醒することによって付与される能力は、あのリオですら持て余すときがあるほどのものです。仲間たちを人ではなく物のように蹂躙され、激しい怒りに我を忘れたときのリオは、プロメポリスの街を燃やし尽くそうとしました。それはバーニッシュではない人間には、どれだけ怒り狂ったところで実現不可能な行動です。プロメアの炎は、それを可能とするだけの力をリオに与えている。バーニッシュの燃焼能力は、冷静なときのリオなら決して選ばないような破壊と殺戮を、彼に行わせえるものです。
それはまた、学生時代のクレイをして、意図せぬ大火事を起こさせてしまったほどのものです。その後の彼は、常人離れした精神力によって「燃やしたい」というプロメアの意思をねじ伏せ続けましたが、クレイ自身がそう言ったように、それは誰にでもできることではありません。また、その精神力の供給源となっていたものが強烈な自己否定であったために、クレイは彼自身も気づかないうちに、自らの自尊心に巨大なゆがみや捩れを抱えることになってしまいました。
この強大すぎる力を、単に「個性」であると言い切ってしまってもいいものでしょうか?
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次に、二つ目の「② バーニッシュの能力が生まれつきのものではなく、外的存在によってもたらされた突然変異的なものであること」について、考えていきたいと思います。
バーニッシュという存在は、突然変異的に生まれるものです。何の脈絡もなく突然付与された大きすぎる力を、誰もが最初は持て余すでしょう。それを個性やアイデンティティとして受け入れるまでには時間がかかるでしょうし、最後まで受け入れられなかったバーニッシュだっていたはずです(その最も極端な例が、クレイだと思います)。
また、バーニッシュが突然変異であるということは、非バーニッシュがバーニッシュになった瞬間、彼ないし彼女は自動的に、30年前の「世界大炎上」の罪を背負わされるということでもあります。
厳密に言えば、バーニッシュが世界の半分を焼き尽くすに至ったのは非バーニッシュからの激しい弾圧があった末の結果でもあるので、「世界大炎上」はバーニッシュだけの罪ではありません。ですがそれでも、実際に大火を燃え上がらせたのがバーニッシュであるという事実がある以上、過去の負の実績は未来のバーニッシュたちにも否応なくついてまわります。
そこには、たとえば「先祖が罪を犯したから」などという理由付けさえありません(単なるたとえであって、子は親の罪を背負って然るべきだ、という意味ではありません)。その大罪を背負わされるにあたって、必然性や脈絡は一切存在しないのです。
では、そもそもなぜバーニッシュは炎を燃やすことをやめられないのかといえば、それはバーニッシュの燃焼能力の発現に、固有の自我を持った生命体であるプロメアの意思が関わっているからです。バーニッシュたちは自分たちの能力の行使を、彼らの完全な自由意思で選べるわけではありません。
リオは確かに、「炎はぼくらの一部だ」と言いました。けれど、その直前にこうも言っています。「好きで燃やしているわけじゃない」と。
リオは自らの内側に存在する炎の意思を汲み、彼らの望みを叶えるために、炎を燃やそうと努めた少年です。けれどリオは、街を燃やし、人々の暮らしを害することに、快楽を見出しているわけではない。「燃やしたい」という炎の意思に完全に身を委ねていれば、そこに葛藤など生まれません。けれど、リオはそういう少年ではなかった。
リオの中には、バーニッシュとして覚醒したことによって課せられた「炎を燃やさなければならない」という宿命と、「炎を燃やせば、人や物を破壊する可能性がある」という倫理観との間の軋轢が常に存在しています。だから彼は、せめて「人は殺さない」という信念を落としどころとした。
ゲーラとメイスについても、それはほとんど変わらない思います。前日譚のガロ編やリオ編で描かれていた、プロメポリスの街中に無差別に炎を振り撒く二人の振る舞いは、一見すると暴力の行使を愉しんでいるように見えないこともありません。ですが、彼らの目的が本当に破壊活動そのものであったなら、リオの「人を殺さない」「バーニッシュの村を作る」という指標に賛同などしなかったはずです。
リオ編では、「なんで私がバーニッシュなんかに?」と戸惑い嘆くシーマに対して、ゲーラとメイスが答えた「それは俺たちにも分からない」「ある日突然、身体から炎が噴き出る。『運命』みたいなもんだ」というセリフがとても印象的でした。
デジタル大辞典(小学館)によると、『運命』とは、
──人間の意志を超越して人に幸、不幸を与える力。また、その力によってめぐってくる幸、不幸のめぐりあわせ。運。
を意味します。
一口に「バーニッシュ」と呼んでも、その能力、その『運命』に対する向き合い方は個人によって異なります。リオやゲーラ、メイス、その他のマッドバーニッシュの面々のように、どのような形にしろそれを受け入れられる者もいれば、シーマのように、死ぬまで受け入れられなかった者もたくさんいたと思います(バーニッシュとして覚醒してすぐに実験室送りにされてしまったシーマは、不運なことに、受け入れるための時間を得られなかったという事情もあります)。
自分たちを虐げ、蔑み、排斥しようとする社会の中で隠れ潜みながら生きようとは思えないけれど、表立って闘争するほどのアグレッシブさを持てない者たちもいる。マッドバーニッシュは、そんなバーニッシュたちを守るために戦う者たちでもあります。
結果だけを見れば、彼らの行いは「放火魔」のそれです。けれど、彼らの中で「放火魔」になりたくてなった者たちは、ほとんどいはしないでしょう。バーニッシュとして覚醒したことによって、彼らはそのような生き方を余儀なくされた。彼らにだって、バーニッシュになる前には別の人生があったはずです。バーニッシュになったことによって、その人生は破壊されてしまった。
この理不尽極まりない現象を現実世界で起こり得るものにたとえようとするなら、なりたくもなかったのにかかってしまった大病や、治療法が確立されていない難病の罹患などに近いような気もします。ですが、それもまた少し違うのだと思います。病気になったからといって、自分の意思とは関係なく、目の前の相手の命を一瞬で奪うという罪を背負いかねないような能力を得てしまうことはありません。
それはやはり『宿業』と呼ぶべきものではないだろうかと、私は思いました。
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バーニッシュの能力は、バーニッシュたちのアイデンティティであると同時に『宿業』でもあるのではないかという見地を踏まえたうえで、最後に「③ プロメアが固有の自意識を持つ生命体であること」について、整理していきたい思います。
バーニッシュたちが炎使いという特性を持つに至ったのは、彼らの内面や来歴に原因があったからというわけではありません。
「ストレスを感じやすい」「感受性が高い」などの、プロメアとシンクロしやすい条件が揃っていたという事実は、確かにあったのかもしれません。ですが、それらは本来であれば、単なる個人の性質にすぎない。「刺激を受けやすい」「感じやすい」ことは悪でも罪でもないし、プロメアが時空間転移さえしてこなければ、とやかく言われるほど特異な要素ではありませんでした。
バーニッシュがバーニッシュになったのは「宇宙生命体プロメア」という完全なる外的存在による干渉のせいであり、彼らが「燃やしたい」という衝動を抱くのも、この宇宙生命体の意思によるものです。このことを知らなかった頃のリオは、迷いなく「炎はぼくらの一部だ」と言い切れました。けれど、一たびその事実を知ったあとには、「だったら、何のためにぼくたちは(あらゆる困難をおして、炎を燃やし続けてきたのか)」と戸惑います。
バーニッシュとプロメアは限りなく一心同体に近い関係にありながら、プロメアが並行宇宙からやってきた生命体であるがゆえに、両者の間には間違いなく、一定の距離が存在しています。
バーニッシュには一人の人間として自分自身の意思があり、プロメアには「生成される電磁場によって自意識を実現している生命体(デウス・プロメス博士による説明です)」として、彼ら自身の意思がある。それぞれに別個の自我を有する生命体同士である以上、バーニッシュという「人間」と「プロメア」の関係性は、「その片方がもう一方にとってのアイデンティティである」という解釈のみでは片づけられない気がします。
自意識を持つプロメアには、人間を始めとする他の生物と同じように、彼ら自身の願望があります。その願望とは、「もっと広く、もっと熱く燃え上がりたい」というものです。
リオはプロメアが宇宙生命体であるという事実こそ知る由もなかったものの、このことをしっかりと感知していました。だからこそ彼は、「彼らも生きている。その望みを叶えてやるのがぼくらバーニッシュの『宿命』だ」と言ったのでしょう。
リオの言う『宿命』は、『使命』という言葉に置き換えることができます。バーニッシュになったからには、果たさなければならない使命。リオにとってのそれは、「もっと燃えたい」という炎の声、その望みを叶えてやることでした。
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すでにかなりの文章量になってしまっている(毎回のことですが本当にすみません…)のですが、『宿業』と『使命』というワードが出揃ったここからが本番(?)です。よろしければ、今しばらくお付き合いください…。
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バーニッシュがバーニッシュであることは『使命』を伴う『宿業』であるという観点からプロメアというフィルムを読み解いていくと、それを『個性』や『アイデンティティ』としてのみ捉えたときとは、まったく違った解釈が可能になります。
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プロメアというフィルムでは、大きく分けて三つの関係性が描かれています。
第一に、プロメアは、ガロとリオの物語です。非バーニッシュとバーニッシュ、火を消す者と火をつける者という異なる属性を持った二人の青年が、お互いの差異を認め合い、手に手を取り合うことで地球と人類を破滅から救う、という物語です。そこに込められたメッセージは、分断を乗り越えることの困難さと、それを成し遂げることの尊さだと思います。プロメアというフィルムを、主にこの二人の関係性から私なりに読み解いたものが、冒頭でもリンクを貼らせてもらった記事でした。
第二に、プロメアは、ガロとクレイの物語です。これに関しての私見も、また別のふせったーにまとめてあります。
そして第三に、プロメアは、リオとクレイの物語です。リオとクレイという、二人のバーニッシュの対決を描いた物語でもあります。
プロメアのエンディングは、この三つの関係性の進展と決着が、複雑に絡み合った末に導き出されるものです。
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ガロとリオの対立関係は、物語が進展するごとに緩和されていきます。デウス・プロメス博士の研究所でデウス・エックス・マキナを手に入れた時点を契機として、二人は明確な協力関係に移行する。プロメアは確かに、非バーニッシュとバーニッシュ、両者をそれぞれ代表するガロとリオがお互いを認め合うまでの物語ですが、フィルムの中盤以降で重点的に描かれているのはむしろ、リオ(と、彼と協力関係に移ったガロ)とクレイの対立関係です。
リオとクレイの両者を分かつもの。端的に言えば、リオはバーニッシュたちを守る者であり、クレイはバーニッシュたちを虐げる者です。では、両者のその違いはどこから生まれているものなのかといえば、それは、自分がバーニッシュであるという『宿業』や、プロメアという存在に対する向き合い方の相違です。
リオは、炎の声を聞き遂げることがバーニッシュの『使命』だと考えた少年です。彼は炎を自分たちの一部のように、とても身近で密接なものとして捉えていた。プロメアが宇宙生命体であったと聞かされ、厳密に言えばそれは自らの「一部」ではなかったのだと判明したあとも、その事実によってもたらされたアイデンティティの揺らぎを(「バーニッシュの誇りを貫き通せ」というガロからの激励もあって)乗り越え、最後まで「炎の声を聴く」という姿勢を貫きました。
一方のクレイは、炎の声をねじ伏せ、それに支配されるのではなく、それを支配することを目指した男です。「この世で唯一プロメアの秘密を知る自分こそが、人類救済を成し遂げるべき者である」と、「人類の救世主」になることを己の『使命』とした男でもあります。
バーニッシュであり、「炎の声が聞こえる者」であるという『宿業』に、最も素直に、真正面から向き合い続けたのがリオであって、逆に最も徹底的に拒絶し、否定し、すり潰そうとしたのがクレイです。
そして、リオとクレイのこの「己の宿業との向き合い方の違い」に注目すると、なぜフィルムのラストでプロメアは消失したのかというトピックについて、それが同化の肯定であったかのか否かといった文脈とは、まったく異なる読み取り方が可能となります。
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プロメアのクライマックスにおいて、地球と人類が救済されるために必要だったものは、第一に、非バーニッシュとバーニッシュという異属性をそれぞれ代表するガロとリオが、お互いの間に存在する差異を認め合い、その上で手を取り合うことです。そうでなければ、本物のプロメテックエンジンを起動することはできなかったし、ガロデリオンを完成させることもできませんでした。
けれど、もう一つ、欠かすことのできない要素があります。それは、「リオがプロメアの本当の望みを聴き取ること」です。ポットに押し込められたリオが地球のコアのプロメアたちとシンクロし、彼らが「不完全燃焼である」ということに気づかなければ、いくらガロとリオが分断を乗り越えていても、地球を救うための方策は不明のままでした。
あのときのリオが地球のコアにいるプロメアたちの声を聴きとることができたのは、彼が常日頃から己の宿業との付き合い方を模索しながら、身の内に存在する炎の意思と向き合い続けてきたからだと思います。リオは初めから「燃えたいという炎の声は、宇宙生命体であるプロメアの意思によるものだ」と知っていたわけではありませんが、その事実を知る前も、知ったあとも、様々な葛藤を抱えながらも彼らの声に寄り添い続けました。
プロメアは固有の自意識を有する生命体です。生き物である、という点においては、人間(バーニッシュ)とプロメアは対等な立場にあります。ガロとリオの間のやり取りが一種の異文化コミュニケーションであるなら、リオとプロメアの間のそれも、究極の異文化コミュニケーションであったと言えるでしょう。リオはそれを成し遂げたバーニッシュです。
「我々は不完全燃焼である。思うさま燃え上がりたい。そうすれば満足できる」というプロメアの真の願望は、リオだからこそ聴き取れたものだと思います。仮に他の者にも聴き取ることができたとしても、その望みを「叶えてやるべきだ」という発想を持てたのは、彼らの意思を常に尊重し、実現してやろうと努めていたリオであればこそですし、叶えてやるための手段を有していたのも、ガロとの分断を乗り越え、彼とともに本物のプロメテックエンジンを動かせるようになっていたリオだけです。
フィルムのラストで、リオは「燃えたい」というプロメアの望みを叶えるという、バーニッシュとしての『使命』を果たしたのだと思います。リオだけではありません。「みんなも力を貸してくれ。ぼくたちの炎が、地球を燃やし尽くす」というリオの号令に応じて、彼とともに炎を最大限に燃え上がらせた彼以外のバーニッシュたち全員が、「プロメアの意思を宿す者」という宿業を背負う者としての使命を果たした。だから、プロメアは去っていったのではないでしょうか。
課されていた使命を果たしたバーニッシュたちにはもう、宿業に囚われ続けなければならない理由はありません。だから彼らはバーニッシュではなくなったし、あの世界にバーニッシュは存在しなくなった。そういう捉え方もできるのではないかな、と思いました。
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このように、バーニッシュの能力を彼らの個性やアイデンティティとしてのみではなく『宿業』として見つめ直し、プロメアというフィルムを「異なる属性を持つ者たちが分断を克服するまでを描いた物語」としてのみではなく「宿業を背負わされた者たちがそれぞれのやり方でその運命と向き合い、使命を果たそうとするまでを描いた物語」として読解すると、プロメアの消失というラストは、「バーニッシュの非バーニッシュへの同化であるか否か」という議論とはまた違ったフィールドに移動します。
「分断の克服」と「宿業と使命」…フィルムにおいてこれら二つのテーマは別々に提示されているわけではなく、密接に絡み合わされた状態で描かれています。
分断を乗り越えたガロとリオが協力すること。自らの宿業と向き合い続けたリオがプロメアの真の望みを聴き取ること。この二つの条件が揃わなければ、地球と人類が救われることはありませんでした。さらに付け加えるなら、ガロがクレイの苦悩に気づかなければ、「人類の救世主になる」という野望にがんじがらめにされていたクレイが救われることもなかった。この節の冒頭で、プロメアではガロとリオ、ガロとクレイ、リオとクレイという三つの関係性の進展と決着が描かれているという話をしましたが、この三つのうちのどれが欠けても、あのエンディングには辿り着けません。
ガロとリオが分断を乗り越えること、クレイ・フォーサイトは英雄である前に一人の人間であるとガロが気づくこと、リオが己の宿業に真摯に向き合い続けた結果としてプロメアの真の望みを聴き遂げること、これらの諸条件が自然な形で融合した結果として導き出されたのが、あの大団円です。見事な脚本だと思います。そして、だからこそ、それらの要素を別々に切り分けて読み解くことが、とても難しくなってしまっているのだと思います。
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またもハチャメチャに長くなってしまったこの記事を私が書き始めたきっかけは、「プロメアの消失」というEDが「同化の肯定」を意図しているとも、そう読み取られるかもしれないリスクが漫然と放置されているものだとも思えないな…という(勝手な)印象を、私個人が抱いたことでした。
ですが、それは単なるフックにすぎず、上述したようにプロメアというフィルムの中に込められている、織物のように編み上げられた複数のテーマ性を切り分けて読み取ろうとしてみることが、最終目標となりました。この文章は、そんな試みの結果です(上手くいっているかどうかは分かりませんが…)。
そんな私的なド長文記事を、ここまで読んでくださった方々には感謝しかありません。「な~にをワケの分からんことを言うとんねん!」と思われた方にとっても、「へぇ~、そういう考え方もあるかもね」と思われた方にとっても、「同じようなこと考えてたよ!」という方にとっても、お暇つぶし程度の娯楽になれていれば幸いです。
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…で、いやここで終わっとけやという感じなのですが、最後に少しだけ、クレイについての追記を。
プロメアという物語をリオとクレイの物語として見つめたとき、確かに最後に勝利するのはリオ(と、ガロ)です。ですが、ではクレイが敗北したのは「彼が愚かだったから」なのかといえば、そうではない、と私は思います。
リオの来歴は作中で一切描写されていないので不明ですが、バーニッシュとして覚醒した瞬間に事故を起こし、ガロという被害者を出してしまったクレイには、リオのようにバーニッシュの能力やプロメアの存在を肯定的に受け入れるような精神的余地はありませんでした。リオは「人を殺さない」という制約をもって己の誇りの拠り所とすることができましたが、クレイにはそのための猶予すらなかった。
リオにとっての炎の声が「共生者からの囁き声」であったとすれば、クレイにとってのそれは「悪魔からの囁き声」であったはずです。彼にはそれを、完膚なきまでに拒絶し否定しなければならない彼なりの理由があった。バーニッシュとしてどのように生きるか、「炎使い」という『宿業』とどのように向き合うか、リオにはリオのやり方があったし、クレイにはクレイのやり方があった、ということだと思います。
クレイのやり方は彼自身の自尊心を極限まで捻じ曲げ、膨大な数の犠牲者を無残に生み出すものであって、だからこそその遂行はガロとリオによって阻まれるわけですが、彼がそのやり方を選ぶに至る背景には、クレイという一人の人間の歴史が存在します。そしてプロメアというフィルムでは、その歴史も断片的とはいえきちんと描いています(もちろん、だからといって彼の行った虐殺行為は決して肯定され得るようなものではないし、断じて肯定してはいけないと私は思います)。
ラストシーンでクレイと会話を交わすのが、他の誰でもないリオであるところが印象的だな、と思いました。クレイが選んだ宿業との向き合い方、人類救済のやり方は、結果的にリオのそれに破れました。リオとクレイという二人のバーニッシュは、最後の最後まで対立していた。
けれど、同一の宿業を背負う者として、その使命を果たそうとしたという点においては、二人とも同じ立場にありました。だからこそ、「もうこの世界には、プロメアもバーニッシュも存在しない」とリオから告げられたクレイは、悔しさと安堵が綯交ぜになったような声で「余計なことを」と呟いたのではないでしょうか。
…と、いうことで、
今度こそおしまいです! ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました!