庭師自班向け(関連卓のログや過去の小話読んで無いと分かりづらい)小話
穂積さんとの関係が落ち着いた後のある日のカウンセリング
由紀茂さんは人生で一番落ち着いてる時期に至れていると思うのですが、それはそれとして抱えているものは0ではない蛇足。
"触れてほしいけどそれ以上は怖い"の根本にあるのは、これじゃないかなと、中の人はボロボロになりながら発掘しました。
カウンセリング担当してる水連先生視点の何かです。
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今日最後の患者であった由紀茂さんの語った言葉を打ち込んだ、自分のパソコン画面を私は今も見ていた。
聞いた私がその場でパソコンに打ち込んでいたとはいえ、本人に確認もしてもらった以上、これも彼自身の言葉のはずなのだけど。
診察室で、由紀茂さんは、バラバラの言葉を懸命に吐いて、私はそれらを拾って整えて。
こういう言葉のまとまりで合っているだろうかと、当人にたずねたら、彼は、「そうかもしれません」と、声を漏らしたのは確かにそうなのだけども。
『この人と一生を共に歩みたいと思った時、自分が、その人の子を産めない体であることを人生で初めて悔いた。自分の性別に違和感を感じているわけじゃない。ただ、自分は宿せない事が、悲しくてー』
本人の前でそんな反応はもちろんしないけど、彼がこの言葉を内包している人である事の確信は、1つの殻が取れたら別の殻を抱いていた発見に似てる。
マトリョーシカのような人だとつくづく思う。
ずいぶん時間が経過してしまった気がしたが、まだ彼がこの部屋を去ってから30分もたっていない。
当人はきっと今頃会計を済ませて処方箋を薬局に出しているくらいつい先ほどの事なのに、とても、長い時間が過ぎたような感覚だ。
入室した時から、普段と違った様子だった。
由紀茂さんがカウンセリングに来る回数を少なくして経過観察だったものの彼の中で何かのバランスが崩れたようで、いつもは自分で事前に話したいリストを整頓しているのに、今日は1つしか書けなかったと、悲しそうに入室してきて。
仕事に関連する事であれば、彼の上司が情報をくれるから、プライベートで何かあった可能性を考慮しつつ。
「書けないことが悪い事ではないですよ」
と、私は彼に優しく声をかけた。
彼を含めて事前に医者に話したいことを羅列して自分の中で考えた答えを書いておく人はいるが、そういうのは書かずに尋ねる人もたくさんいる。
1つだけ書けたという事が書かれた紙を渡してもらうまでの、やり取りからもある程度の情報は読み取れる。
もちろん本人の身なりからも。
珍しく服装は、首元が閉まらない猫か犬か分からない動物の大きなワンポイントが入ったトレーナーとシャツの組み合わせ。
下に履いてあるのはジーパンタイプのストレッチズボン。
だが、由紀茂さんが履くには丈が少し短めな気もする。
赤い靴下を履いていて、靴は仕事で履いていると思われる革靴。
本人は靴に気がついていないのか、それどころではないのか、瞼の動きが常にわずかに動いている。
今日、私に話そうと決めて寝不足だったのか、他の理由で寝不足か。
靴については、おかしさがあるわけでは無いし、今日は触れないでおこう。
……私自身にファッションセンスがあるかと問われるとかなり怪しいが、笑うほどへんでなければまあ、大丈夫でしょう、おそらく。
衣服のチョイスもだが、彼にしては珍しい事がさらにあって。
一度握りつぶしたのが分かる紙を伸ばして頑張って綺麗に折りたたんだ紙を手渡してきた。
いきなりこの手紙を開いて話題に触れるのではなく、最近どうでしたかという雑談から話してお互いがお互いの呼吸を確認する。
それは、今に限らずこれまでも行ってきたやりとりで。
天気の事とか、見つけた小さな事とか。
ぽつりぽつりと会話する。
「先生は見ましたか?植物園の花。自分はかなり久々にあそこを訪ねたのですが、温室の植物が……」
由紀茂さんの雑談していた様子は、少し無理は見えたけど、安定はしていて。
なのに、何処かがぎこちない。
それは紙に書かれた事が原因なのだろうか。
私がずっと手元に置いているだけの紙を、由紀茂さんが見る時間が増えてきた。
それを本題に入っていい合図とみる。
本当は、そういう事も口でハッキリ言えるようになっていただきたいのだけど、まだ、難しいものがあるのか。
はじめにカウンセリングをしていた時期に比べると別人とまではいかなくても、その前々段階くらい違う程にちゃんと言えるようにはなったのだけど。
これは、今日はなにかあるな。
しかし、由紀茂さんが1つだけの何を自分から引き出せたのか、このくしゃくしゃになった紙を開けなければ全く分からない。
念のため開いて良いか口頭で確認をとってから紙を丁寧に開けたが、思いもよらなかった文が私の目に入った。
「自分が子供を産めない事が苦しい」
彼が私に渡す文字としては珍しい走り書きで。
それに、短いのに内容がもうすでに重い予感しかしない。
それも、プライベートでこんな事言われたら、その人にお酒をがぶ飲みさせて酔わせて逃避させたいくらいの。
紙がくしゃくしゃになってる時点で難題が書かれている覚悟は決まっていたが、斜め上すぎた。
そっち系統の心づもりは……いや、仕事ですから頑張りますが。
彼の口からこれから出てくる内容がどういった形を成しているのか何パターン化は想定できるのだけど、それは他の患者で経験したことで、彼にそれが当てはまるかどうかは別の話。
この前の時は恋が実ったって話をしてなかったっけ。
相手についての詳細は、その時は話してもらっていなかったので、今日話してくれるというだろうか。
無理に話を掘りだそうとするのは、自分の考えに合わないからあえて深く尋ねなかった先日の自分を平手打ちしたい。
由紀茂さんの表情を見ればこちらをからかっているのではなく、本気で苦しんでいて、悩んだ上で、私にこの紙を渡した事は十分に分かる。
長丁場になる事も覚悟をしよう。
話を聞いて尋ねてを繰り返し、私の中で物事が整ってきた。
由紀茂さんに同性の恋人ができた事。
かといって、別に女性になりたいわけでは無いという事。
本人も自覚していたが、女性であれば必ず産める体に生まれるわけでは無いし、自分の肉体に強い違和感を感じた事は無いと。
恋人からの愛を貰えることがとても幸せで、幸せすぎて怖いくらいなのだと。
書いてある”これ”の事以外は、今の所、大きな悩みは発生していないという事。
これは言っても、どうしようもないと分かっているから、この言葉を伝えようとは思えないけど、家族や友人にも誰にもずっと言えなかった事。
紙は、相手の家に泊まった昨日、次の日に診察日だったのを寝る直前で思い出して、相手に見つからないように急いで書いたと。
ああ、なら彼が今日着てきた衣服に対する違和感にも納得がいく。
その事に気づいてないのは由紀茂さんらしいといえば、らしい。
頭が良い方なのに、どうしてそういうのに気がつくのは遅いんでしょうね。
しかし自分が予想したより、由紀茂さんが元気だったのは本当に良かった。
かといって、ここまで抱えてきたこの人に言えなかったその想いが軽いものであるわけではない。
言って、”また”ひかれるのが怖いと、彼は言ったが、前何を言ってひかれたのか尋ねたら
「……先生も、人にそれを言ったらセクハラになるかもしれません……自分、聞いた時はそうだって思いもしなくて……」
と、実際に言ったことを私にも言うべきかどうか困った表情をしていたので、無理に言う必要は無いと、止めた。
由紀茂さんの自業自得な発言が何なのか別に自分は今、彼が自分で自分の傷をこじ開けてまで聞く必要があるとは思わないし、今一緒に見つめてもらおうとしている物事の道がそれてしまいそうな気がしたから。
彼は再び、ぽつぽつと話し、私はその言葉をタイピングでパソコン上に写し取る。
縁あって一緒にいようと誓い合ったその人の兄弟はすでに亡く、子供は彼1人だけなのに、一生傍にいたい自分は、その人との間に子供は望めない性別であることが、後ろめたく感じると。
私は画面はパソコンに向けたまま彼に尋ねる。
「後ろめたいとは、どなたにだと思いますか?」
沈黙の後に声が返ってくる。
「彼の…ご両親にでしょうか?まだ、お会いしたことはありませんが」
声が少し小さく、引っ掛かりを覚えている様子。
見ると、目の前の彼が何度も私の前で繰り返したことがある顔。
この感覚は、毎回緊張する。
彼らに意識できていないのが余計に厄介だ。
どちらに転ぶか分からないのだと目で訴えながら、自分ではなくこちら側に、その背を押し出してほしいようにせがんで。
プライベートだったら、絶対にその背中は押すまいと私は頑なになるし、仕事の今も、患者の性格によってはあえて気づかないふりをする。
由紀茂さんに対してもそうだ。
本人は気がついているのに、自分から気づく思考を恐怖による萎縮で遮り、こちらに、気がつかないで、気がついて、話して、話さないでと、矛盾した要求を擦り付けてくる。
目の前のこの人は自分の矛盾に気がついているし、それを自分が見つめないといけない事も知っている。
だというのに彼は己が死刑宣告を待つ囚人のように私を見ている事を、認識できていないのかもしれないのだ。
己の恐怖が何なのか、どう扱えばいいのか自分の事でいっぱいになってしまうから認識しづらく気付けない。
気付いていたとしても、そうならないための方法を、彼が呑み込みきるには、時間と安心の蓄積が必要だから、焦っても良い事は無く、それに対して私は何も起きなければ見守るくらいしかできない。
とはいえ、私は彼を甘やかすのが仕事ではない。
それはむしろ仕事の放棄だ。
彼が彼に向き合うための柱や鏡、時に鋭い棘となって、なぞることで気付くためのヒントを落としたり、気付いた事に耐えられなかった時に備えて声掛けから指導、場合によっては服薬の変更を行うのが仕事。
私はわざと、彼が話に横やりを入れられないくらい彼を見ながら話す。
「由紀茂さん、そういう話、相手の方としてないでしょう?それをどうするかは相手の権利で、由紀茂さんがどうこう出来るかは相手の許可が必要な事ですから、自分の事のように考えるのは自他の混同ですよ。それに、男性にも自分の血を残せない体質の人はいますから、深く悩むのは、それらの検査を行った後でも十分間に合いますよ。そもそもお相手がそういう問題が無い方だとしても、遺伝子だけでしたら、条件を満たしさえすれば後世につなげられます。ドナーとして第三者に提供すれば、その人の」
彼の大人しかった瞳が、私の言葉に反応するたびに大きく見開いて鋭さを増す。
けども、その閉じた唇から声は出ない。
彼は、彼自身が今私の言ったことを突き付けたのだと想定して、私から言葉をそれ以上出すのを止めるし、瞼は一度閉じ、視線を少しずらして、彼が自分の力で言葉を紡ぐのを待つ。
全てを伝えるのが私の目的なのではなく、自分の中の自分をまた1つ、この人が直視しようとしはじめる事が私の目的のだから。
やがて、彼の唇は小さく震えているが、その喉は飲み込もうと懸命に動きはじめた。
「そう、ですよね、先生。これは、彼の考える事で、自分は、彼がそう考えなければ、口出しは変で……」
体中を委縮させているのを無理して開けているようなぎこちない無意識の腕と手の動き、瞼の痙攣。
やりすぎてしまったかとも思ったが、彼は自分で自分に同じ言葉を言い聞かせているのか、首を小さく縦に動かしていたので、いつものようなリズムに戻して言葉のきっかけをいくつか彼に投げてみた。
「お2人の関係はお2人で話し合ってこそですが、1人で考え込む前に、私の所で零すこと自体は何も悪い事ではありませんし、あなたが望まなければ、こちらからそれを深く掘り下げませんよ」
私の仕事は思考を整理する手伝いをする事ですからと、これまでも何度も言ったことのある私の声に、彼は苦しそうに自分の腹を両手で押さえ言葉を絞るように零した。
「この人と一生を共に歩みたいと思った時……か」
パソコンの前で、その後の由紀茂さんの様子も思い出す。
彼はその時絞り出せる言葉を出し切った後、息を ふーっ と、意図的に長く吐いて。
悟った人のような澄んだ眼差しになっていた。
「彼とそういった話が湧いたらその時から考えても、遅くないですよね」
彼は言葉には出していなかったが、私に対してというより、自分に言い聞かせて宥めていた。
それから、もうすぐ時間になるからと次の日程を決めて、落ち着いた様子で診察室を彼は後にした。
足取りはしっかりとしていて、見送っていた時に確証はないけど、この人はいつの日か乗り越えられるだろうと感じた。
それがすぐなのか、何年も先なのかまでは分からないけども。
実際の言葉は、私のパソコンに記録として残した文字列よりも、もっと散らばっていて、欠片がばらまかれていたから、この文章はそれらを私が拾い上げて繋げたもの。
これは憶測の言葉の塊であるかもしれない。
ただ、確かに彼の言葉の吐血が滴り落ちた先を、私の脳はこのように映していたし、これを見た彼の脳も、自分はこの言葉の羅列をつぶやいていたのだと認識して終えた。
患者はもういない、他の医者や、スタッフと残りのやり取りを行う診察室の中で、私は思う。
「……こればかりは、当人が自分で飲み込めるようになるまでかみ砕き続けるしかないんですよねぇ……」
診察室を出る前に、私は気持ちを切り替えるおまじないをする。
といっても、私の大好きな人に、その時その時思ったメッセージを送るだけの小さな、大切な習慣。
『帰りが少し遅くなります、お腹が空いていたら先に食べていてください』
『あと、次の休み、植物園に行きませんか?患者さんが教えてくださったんです、今の時期、温室で……』
メッセージを送信したら、残りの仕事に取り掛かる。
春と呼ぶにはまだ寒く、冬と呼ぶには暖かな服は重過ぎるこの季節の変わり目は、人が不安定になりやすいのかもしれない。
そんなことを思いながら、むやみやたらに薬を処方する気は無い私は、患者にとって良いのか悪いのか、それは未だに分からない。
人によって評価もずいぶん違うだろう。
由紀茂さんが相手や自分がお互い以外を介さないと子供を望めない事へのあの感情は、彼の独占欲からくるものではないかと思うし”自分は産めない”所に苦しんでいる根本も、他人から見れば簡単に仮説を立てることが出来る。
簡単すぎて違う可能性も常に想定しないといけない程に他の根っこが見当たらない程に。
彼は、自分を縛っていた母の思想を振りほどくことは出来た。
ただ、母と妹の死を防げなかった後悔は今でも彼の中に留まっているために、あの言葉が彼の中で漂っているのではないだろうか。
漂っているといっても、それは以前のようなものではなく。
彼だけではない、事故や病気、原因は何でも家族を失った人ならだれでも起こりうる過去への悔やみから生じるもの。
母親が腹を痛めて生んだ1人は死に、もう1人は互いの血では子を成せない人をつがいに決めた事に対する後ろめたさ。
そこへさらに相手の人も兄弟がいない事による相手の親への後ろめたさ。
……血を引き継がせるだけなら、他に方法はあっても、相手の血も自分の血も、他の誰かに渡したくない由紀茂さん本人の独占欲も足されるからあんな歪な拒否反応と、ごちゃごちゃした何かになって見えるわけで。
由紀茂さんは、相手と身体を重ねて痛感したのだろうか、それともそう至る前に絶望して行為そのものを拒絶したのだろうか。
どちらにしても、自分では成せないと自分が突き付けてくることに、彼は自分でパニックを起こしてしまったという事だ。
相手の人も大変だったろうな……どんな人なのか知らないけども。
予想が出来ないわけではないけど、私からはそういったことは聞き出せないし、わざわざ藪をつつこうとも思わないが、相手が誰であっても、こちらが出来る事は限られてくるわけで。
そういう事は、生殖行為である以前に相手とのコミュニケーションの1つにすぎないんだと、由紀茂さんが心の底から思える日が来れば、多少は落ち着くかもしれないが、それは私が言うのは、セクハラになりかねないし、そもそも私は知識として知っているだけで、まだそういう実体験は無いから説得力に欠ける気がする。
となると、本人がその事に気づくか相手に教えてもらえるまで頑張れとしか言いようがなくて。
子供に関しては、由紀茂さんには、しかたがないと諦めて代理母なりドナー登録するか、よくわからないまま苦しむことに慣れるか、悟りに達するしかないわけで。
人類先祖をたどれば皆兄弟だし、人は生まれた後の共に育つ事の方が重要で、それが出来たら血縁関係なく家族の形になると、私は思うのだけど、全員が全員そうは思えるわけでは無い事を、この仕事に就いてからは、つくずく思い知らされてばかりだ。