『最後の決闘裁判』何がすごいって女性の主体なんて気にも留めなくなっている人たちの無意識的な視野狭窄っぷりを、三幕構成を巧みに用いることで観客自身に体験させ自覚させてしまうという仕掛けになっていること。久々に映画の構成で衝撃だった
冒頭、決闘裁判の様子がチラッと映し出されるが、これが巧妙なミスリードになっている。というのも、一幕目は「権力闘争によって友人関係を引き裂かれた男たちの悲劇的で勇敢な闘い」というテイで進んでいくので、どうしたって彼らがこの物語の主役であると認識してしまうからだ。彼らの友情関係がどのようにあの決闘に繋がり、そこでどのように関係性が決着するのかに興味が向いてしまう。ここにおいて、例の事件は意図的にサブプロットのような扱いになっている。
そして二幕目になるのだが、まず凄いのはここで事件の顛末が「しっかり」(括弧付きだが)描かれてしまうこと。てっきり二人の視点で事件に対し何かしら食い違いがあったり、裏があったりするのかと思いきや、一幕目で説明された通りの事件が起きる。この時点でマルグリットは抵抗しているし、むしろ加害者がただただ畜生すぎることが分かってしまう。
もうだいぶキツいのだが、本作の真髄は満を持しての三幕目にある。このパートが描くのはいわゆる被害者視点だが、決して事件の「真相を暴く」ようなパートにはなっていない。むしろ、事件の顛末自体はやはりこれまで描かれてきた通りなのだが、重要なのはそこではない。真に重要なのは、この物語における主役は誰だったのかということだ。
「原告」である夫は夫で普段からマルグリットをモノとしか考えていないし、裁判すら自分のメンツを保つためのものでしかない。同じ客体化の被害者であるはずの女性たちさえ、生きていくためには自分たちがモノ化され消費されることを受け入れざるを得ず、それはマルグリットに対する圧力として機能してしまう。ここまできてようやく我々は気づく。どっちの主張が正しいだの、裏があるかどうかだの、真相を暴くだの、この事件に対してそんな興味や視点を持つこと自体、一番寄り添うべき人間の存在を空洞化しているじゃないかと。友人関係だの権力闘争だのこそがサブプロットなのだと(こうなると、一幕目・二幕目のある種の「退屈さ」すら計算であるように思えてくる)。だからこそ、三幕目では同じ犯行の場面でもそこに見出すものはまるで違う。事件の顛末が一幕目で語られた通りだとか、この時点でしっかり抵抗しているだとか、そんな話は重要ではない。このときに彼女がどれだけの苦しみや恐怖を感じたのか、その一点であるはずなのだ。
もはや正義のためにあるはずの裁判すらとんでもない公開ハラスメントの場と化していくし、そもそも正義なんてものが男女問わず誰からも歓迎されない。そこでマルグリットに次々と投げかけられる暴力的としか言いようのない質問は、現代でもどこかで一度は耳にしたことがあるものばかりだ。この時点で、「まぁ中世のお話だからね」と安全圏にいた観客を完全に他人事ではいられなくする。むしろ現代がこの時代から本質的に変わっていないことを示す強烈なカリカチュアとしてみえてくる。この視点の反転の鮮やかさ凄まじさ。
ここまでくると、いよいよ描かれる決闘シーンも全く見方が変わってしまう。内容自体は冒頭で期待した「男たちの悲劇的で勇敢な闘い」なのだが、観客がそこから受けるものはまるで違う。それはむしろ完全に空洞となったマルグリットを尻目に展開される、「男たちの悲劇的で勇敢な『物語』」なのだ。
ここで恐ろしいのは、国王をはじめ国じゅうがこの決闘を消費するという構図のグロテスクさだけではない。その観客の側に、ついさっきまで我々も立っていたという実感なのだ。考えてみれば、一般にこのような事件が起こったとき、果たして二幕目の視点、すなわち「加害者と被害者がいる」という事実認識のレベルまで行ける人すらどれだけいるのか分からない。どちらが正しいのか? 裏があるのか? 真相は? なんて推理ゲーム、それこそ「物語」として消費して終わるのが関の山ではないか。ましてや三幕目の視点に想いを馳せられる人なんて……。
以上のように、本作は「物語」を伝える映画の機能を逆手に取り、それまで積み立てた観客の映画体験すら全て破壊してみせることで、他人事を自分事として認識させてしまう。それは紛れもなく、150分という映画の旅路を通じてしか体験し得ない実感になっている。まさに三幕構成の換骨奪胎とでもいうべき、とんでもなく必然性ある構成にシビれるばかりだった。