『レディ・プレイヤー1』のオアシスについて、ハリデーとモローが「”俺たちの”」「”僕の”」って言い合いのようになっているの、本当に「人と向き合うことが難しい無邪気で気まぐれな天才と、ある種無垢なまま親友を信じ続ける凡人」みたいで辛い
ハリデーは自分が「作成者」「生みの親」っていう意味でずっと「僕のゲーム」って言い続けたし、それはとても正しい。でもモローは「管理者」「育ての親」っていう意味で「自分たちのゲーム」っていう認識だったからすれ違い続けたわけで、その溝を埋めるためには踏み込んだ対話が必要だったのだろうか、と思うと違うな、とも思ってしまう。というのも、後悔や罪悪感や疑念を抱えつつ、きっと最後にモローは親友を受けれ入れてしまうんだろうなという、凡人故の良心からの選択をしてしまうと思うから。
親友の能力を最大限発揮できる場所を作り上げて、親友が生んだ世界に称賛を贈って、親友の恋を応援して、親友の世界を浸透させて、親友と共にその懐かしくて新しい優しい世界を楽しんで、それで親友の焦がれた女性を自分の妻にして、そして親友を独りぼっちにしてしまったっていう、結果的にとても悲しい悔やんでしまうような道をモローは歩んでしまったわけで。
けれど案内人というポジションを全うしたのは、だからこそ、自責の念の為、亡き親友の最後の願いをかなえる(ここではハリデーが利益の為でなくただただ無為にカルチャーを商品として消費させるのではなく、楽しく遊んで優しい世界を伝えてくれるような後継者を探していたとする)(だって試練が明らかそういう人物選びを想定されていたから)、その道筋を一番近くで眺めて時には手助けできるからなんだろうなあと思った。
種族や性別をも変えられる世界で若く強い姿で自分がそのレースに参加するのではなく、そのレースの行方を見守り続けられる場所にいたことにモローの決意が表れていて、けれどだからこそアノラックと決して会うことが出来ないというのがもうほんとハリデーとモローのすれ違いの極み。
でも、ハリデーとモローが最後まですれ違い続けたのかって言ったら、それは絶対に違う。それはパーシヴァルがエッグを手に入れた瞬間に、すべてがきちんと結ばれてくれたと思ってまあ、アノラックとパーシヴァルの最後の会話で号泣してたんだけど(隣の人に引かれている気配はしたけど考慮している余裕はなかった)。
ハリデーが終生抱え続けた後悔は、親友を失ってしまったこと。少年時代からの理解者を「自分のゲーム」から追い出してしまったこと。
それを間違っていたと断じてくれる後継者に巡り合え、しかもそれはその親友が25セント分のライフを与えたからなり得たこと。
ハリデーが後悔を詰め込んでそれを乗り越える試練を作り上げた世界で、モローがそのヒーローのピンチにチャンスを齎した。と考えたら、オアシスはふたりのオアシスだった。「ハリデーとモロー」の世界だったと思いました。「ハリデーのゲーム」ではあったけれど、そこを超えて、「ハリデーとモローのふたりの世界」だった。ふたりの世界だったんだよ……
ハリデーが現実でないとおいしいごはんは食べられないって言ってたけど、たぶん、ハリデーが一番一緒にご飯を食べたのはモローなんじゃないかなって考えた瞬間帰りの電車で思わず泣いてしまったんだけど、だって絶対ふたりでハンバーガー食べたでしょ、ピザ取ったでしょ、フライドチキン食べたでしょ、サンドイッチを学校で一緒に食べたでしょ、ハリデーはモローが知らないお店を教えたでしょ、でも社交的なモローだからハリデーが慣れないような場所で乾杯したかもしれないし、あのオフィスでソレントのコーヒーも飲んだかもしれない。
ハリデーが死んでしまって何年も経ってようやくウェイドによって自分への親友の心を知ることができたモローだけど、でもハリデーはモローの案内人としての献身を知らない。でも、親友の死から、裏切ったのはどちらかっていう傷からも逃げなかったモローがいて、案内人はついぞアノラックとは出会わなかった。それで良いんだと思った。ハリデーが作った世界は、あの世界におけるオアシスで、そんな世界でモローはハリデーの為に生きていた。年を取らない機械のアバターで、オアシスのような優しい後継者を応援していた。
それがオアシスの、ハリデーとモローの世界の答えなのだからそれでいいんだ。いいんだよ……
次いつ観に行こう 本当に優しくて素敵な映画だ。