霧子さんのGRADについていまのところの感想。
霧子のGRADシナリオは、【鱗・鱗・謹・賀】の先の話になっていると思った。
【鱗・鱗・謹・賀】1番目の着物についての話。あのコミュのタイトルは「いこうね」で、その意味は、心細い気持ちになっている人のもとへ寄り添いに行こう、ということである(と私は読んでいる)。
着物には魚が描かれており、その魚は霧子のおばあちゃんがお嫁に行くときに、寂しくないようについてきてくれたものなんだという。そしてその魚たちは、いままた心細い気持ちになっている人のもとへ行きたいと言っていて、霧子はそれをキャッチして着物を着て事務所へ来た。プロデューサーはその話を理解し、霧子と共に行こうと言って事務所を出ていくところで終わる。(詳しくはPrivatterの記事を参照してください。→「「おかえりなさい」と「ただいま」のその先に――幽谷霧子の世界観とさん付けされる隣人を通して」https://fusetter.com/tw/Q9Y56Izv#all)
GRAD編で出会った足を怪我したアイドルは、この「いこうね」の先で霧子が出会うべき存在だったと思う。怪我をしたアイドルは足を引きずって歩くほど(SEからそう聞こえる)で、それではステージに上がることはできない。彼女(おそらく)もGRADに出場することを目指していた。しかしその怪我ではGRAD出場は叶わない。
魚(の着物)と共に町へ繰り出した霧子の存在はとても輝いていた。魚たちがおばあちゃんをはげましたように、プロデューサーや事務所のみんな、アンティーカの仲間が霧子をはげましたように、霧子もきっと誰かをはげますにちがいない、と私はそう思った。霧子の優しさはきっと届く、と。
しかし足を怪我したアイドルに、霧子がしてやれることはほとんど何もなかった。シビアな現実がここで立ちはだかる。こういうドライな視線がシャニマスにはある、と思う。
足を怪我したアイドルは、霧子もまたGRAD優勝を目指すアイドルだということに気づく(知っている?)。出口まで肩を貸すと霧子は言いかけるが、彼女はそれを払いのける。そして霧子に向かって言う。あなたの足をちょうだい、と。
足を怪我したアイドルに、代わりに自分の足をあげる。そんなことは不可能だ。シナリオの冒頭に出てくる絵本の物語では、あげるものはパンだった。パンは確かに誰かにあげることができる。けれど足はあげることができない。霧子は、目の前の怪我をしたアイドルに何もしてあげることができない。これが、【鱗・鱗・謹・賀】「いこうね」の先で霧子が出会うべき問題だったのである。
霧子は医学部を目指すことができる学力があると学校の先生に言われている。医者を目指すこととアイドルとして活躍し続けることを両立するのは簡単なことではないだろう。どちらか一方を目指すだけでも、普通の人にはなかなかできないことである。できない、というのは、たくさんの努力が必要な険しい道で、その努力が簡単ではないというだけではない。そもそも医者やアイドルを目指すことができるという時点で、すでにかなり恵まれている、とも言える。そういう点でも霧子は「いぬさん」の立場にある。
「いぬさん」の立場として、霧子は足を怪我したアイドルに何をしてあげられるのか悩む。医者であれば、医者になれば、怪我を治療することができる。霧子は医者を目指すことができる。ならば医者になるべきなのか。医者を目指すべきなのか。
霧子はまだ明確な答えを持っていない。絶対に医者になりたい、医者にならなければいけない、というまでの強い気持ちは見受けられないような気がする。けれども医者であれば、病気や怪我で苦しんでいる人たちに対して、直接的に手助けをすることができる。霧子はアイドルと医者、両方の可能性を捨てずに全力で臨むことを目指すことにする。
救われる思いがするのは、GRADを優勝したとき、足を怪我したあのアイドルの話が伝えられたことだ。彼女の足の手術は無事に成功し、半年もすればまた躍ることができるようになるだろうということ、そして霧子が優勝するのを会場で見ていて、優勝に感動して泣き、絶対に霧子を超えると心に決めたということが伝えられる。
プロデューサーは、確かに医者になれば怪我を治療することができるが、怪我を治すだけでは意味がない。アイドルは病気や怪我を治すことはできないが、彼らに希望を与えることができる、と。医者とアイドル、どちらにもできることはある、ということをプロデューサーは示すのである。あの日出会った足を怪我したアイドルに、霧子は何もしてやれないというような気がしたけれど、実はそうではなくて、アイドルとしてしてあげられることはあるんだということが明らかになる。ここで私は救われたような思いがした。
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GRADのシナリオは霧子のほかには凛世のしか読んでいないけれども、そちらもなかなかいじわるな部分があるなと思っていた。(凛世のGRADについてはこちらのふせったーの文章も参照してください。→https://fusetter.com/tw/BVLtDBHh)
このいじわるさ、あるいはドライな視線はシャニマスの特徴とも言えるかもしれない、と思う。翡翠さんのnote記事ではカミュを引いて「不条理」と書かれていたそれのことである。それぞれの人が持っている人柄やテーマによって、その人が出会うべき問題に出会わせているように思う。(翡翠さんの記事はこちらです。→「不条理と抵抗の文学としてのシャニマス~変わらない世界と届く想い~ 」https://note.com/jadevine_of_may/n/n15dfa2050543)
人生というのはたぶんそういうもので、人生の中で起こる問題というのは100%ただ偶然的に起こるわけでも、100%外在的な理由で起こるわけでもない。ある人の人柄や無意識に望んでいることなどが、その問題を引き寄せている部分があることが少なくない。つまり、たとえ問題の被害者であったとしても起きている問題の責任の一端を自分が担ってしまっている可能性があるのである。
ただ大急ぎで付け加えなければならないのだが、もちろん100%問題を起こした方が悪いということもあるし、全ての問題において被害者にも責任があると言いたいわけではない。けれど、どんなに100%自分は問題の被害者だと意識の上では思っていたとしても、問題の責任の一端を自分が担ってしまっている場合もあるということもまた、事実であると思う。これは精神分析の(とりわけラカンの)考え方で、意識の上では自分は巻き込まれとか被害者だと思っても、無意識のレベルで問題に関与してしまっていることがある、ということだ。
シャニマスのシナリオにおいて、アイドルの無意識の願望のことまで考えようというわけではない(凛世の場合は無意識の願望の作用はありうるかもしれないと思う)。ここで見ておきたいのは、無意識の願望に気づいたりしないかぎり、問題は繰り返すということである。
シャニマスの中で起こる問題が、なんだかそういう風に見えてくることがある。問題は起こるべくして起こる。今回の霧子が出会った足を怪我したアイドルに何をしてあげられるのかという問題も、GRAD編での凛世の問題も、それぞれの固有のテーマの中で、起こるべくして起きた、と思う。もちろん100%必然だったというわけではない。怪我をしたアイドルと出会ったこと自体は偶然だっただろう。けれどもそのとき出会わなくても、いずれどこかで似たような問題と出会っていたかもしれない。そう思わせる説得力はある、と思う。そういう起こるべくして起こる問題に、シャニマスはアイドルに出会わせる。そういうドライなところがある、と思う。
しかしそれはアイドルを問題に屈服させるためではない。翡翠さんがまさしく言っていたように、そこでアイドルやプロデューサーは「抵抗」する。だがこれは「抵抗」であって、問題を取り除いたり問題を解決できたりするとは限らない。しかしやはり「抵抗」は「抵抗」であって、問題から目を背けたりもしない。問題にどう向き合うか、問題をどう切り抜けるか。そこには予定調和のようなものはあまり感じられない。そういうところにリアリティというよりもリアルの人間の存在を感じさせる。そしてそうやって問題に向き合う(あるいはぶつかる)アイドルの姿に、私は胸打たれるのである。