「ワルツ」について。
設定がカズオ・イシグロ『わたしを離さないで』に似てると感じたので、このセンを頼りに深堀ってみた。結果、鬱々になった
#SS1stEP
前提として、「ワルツ」の登場人物は2人。主人公「ぼく」と「彼女」だということを置く。
⚫登場人物像について
まず「ワルツ」で特筆すべきなのは、最後の4行が全てひらがなで表されていること。
│はいいろのはねがおちて
│せかいのひまくがやぶれ
│かのじょはうすくわらって
│このかぜのひだにとけたの
「ワルツ」はこのひらがなの4行と、それ以前、という2部に明確に分けることができると考える。
文章を全てひらがなとすることで、「ぼく」はかなり幼い人物なのだとアタリをつける。
そしてこの曲の音づくりは、全体的に鉄琴や口笛が入っていたりして、こちらも子どもっぽさを想起させる。
特に鉄琴は、幼児教育や初等教育でよく用いられる楽器なので。
この2点から……
主人公「ぼく」と「彼女」は幼い子どもである
と推測できる。
⚫「ワルツ」の世界観
・ひらがなの部分では「かのじょは(中略)かぜのひだにとけた」と言っている。
人間が風に溶けるということはふつうあり得ないので、当然ここは何かの比喩である。
彼女(か、それに類するもの)が風に溶ける事象、それは「散骨」?
つまりひらがなの部分とそれ以前の部分、その間に起こったことは「彼女の死」である。
│エフェメラ せつな 消えるよ
彼女が死にゆくことの暗示。
・「彼女」は空を飛ぶことを望んでいたが、それは叶わなかったようだ。
│彼女は 宙 見失って
│翼は もう 開かないの
│どれだけ眼をこらせど
│重力の奴隷のまま
│はいいろのはねがおちて
「翼は もう 開かないの」と言っている。
「もう」ということは、以前は翼が開いた、ということだ。
以前は自由に身体を操ることができたのに、もうそれができない。つまり彼女は病気か怪我か、いずれにしろ身体が不自由な状態なのだろう。
・「ぼく」と「彼女」がいる場所には、何やら「壁」がある。
│あの壁を超えてみたいのかい?
そして彼女は身体が不自由な状態。
ここから、彼らがいる場所はサナトリウムのように、世俗から隔離された医療施設のようなものだと思われる。
さらに彼らが子どもであることを踏まえると、教育機能も兼ねたギムナジウムのような施設なのだろう、とわたしは勝手に考えています。
ここで、カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』っぽさにたどり着く。
⚫『わたしを離さないで』について
・あらすじ
外界から隔絶された、全寮制の学校で暮らす子どもたち。
彼らは、上流階級の人たちが病気になったり、臓器提供が必要になったりした際の「提供者」として造られた、クローン人間である。
子どもたちは、学校の先生(=提供の管理者)から「あなたたちは天使だ」との洗脳まがいの教育を受け、その身をもって自身のクローンの元となった人の役に立つ日を待っていた。
もしかしたら「天使」のくだりは日本のテレビドラマ版オリジナルかも?
もちろんこんな非人道的なことは否定されるべきで、基本的には『わたしを離さないで』のキャラクターたちもこれに抗おうとしていく。
この小説およびテレビドラマと、「ワルツ」の類似点がある程度目に付いたので、
『わたしを離さないで』に当てはめて考えてみた。
おそらく、存命である「ぼく」はこの制度の無意味さに気づいている。
ぼくの考え:「天使の訪れはない」
反対に、息絶えんとしている「彼女」は、この提供行為に希望を求めている。
彼女の考え:「蘇る、ときみ(彼女)は言った」
彼女は自身が死んでも、臓器提供をすることで、自分が生きた証として「蘇る」と信じているということだ。
しかし、「ぼく」がこの提供の制度に抗おうとしているかというと、その様子はない。むしろ諦めている雰囲気すらある。
│いつも失うこと 忘れるだけさ
│ぼくらの声 届かなくても いいよ
「ぼく」は「彼女」が死ぬことも、自分がいつか死ぬこともすでに受け入れている。
そう考えると、
│歌おう 踊ろう 奏でようよ
│いつか見たような
│ワルツを
と言って望んだように、2人でワルツを踊ることは不可能なわけである。
あるいは、死後の世界でのみ2人は一緒に歌い、踊ることができるのかもしれない。
あまりにも悲しすぎる。悲しすぎるけれど、その先に希望があると信じて、受け入れるほかない。
そういうどうしようもない「死」の影が、この曲には見え隠れしている。