十二国記最新刊 「白銀の墟 玄の月」を読んだ感想というか考察というかあれやこれや
玄き月とは、魄である。
感想というか殴り書きというか最早妄想
白銀の墟 玄の月
先月、1・2巻を読破して身悶えましたよね。続きが気になりすぎて。
11月9日、やっと待ち望んだ3・4巻を読めるとほっとしたのも束の間。終始絶望のジェットコースターで死ぬかと思った!!!
十二国記の発売日って言ったら祭りですよ祭り。祭りに備えて食料買い込んだよね。
泰麒が阿選ボコるのを読みながら、優雅にお菓子つまんでお茶でも飲もうとアップルパイまで焼いて待ち望んでたんですよ。
食べる暇無いのね。お茶を淹れに立つのももどかしい。昼食も食べずに貪るように読みました。翌日はあまりの衝撃に寝込むっていう。
読んでる途中まではね。「驍宗様万歳!十二国記万歳!泰麒サイコー!」って読み終わったらツイートしよ(ハート)みたいな、お花畑な脳味噌でのほほんと読めてたんですよ。
驍宗様が騶虞を捕らえて一人で函養山から出てきた時なんかチートすぎて笑ったよね。掘って救出する前に自分で出ちゃうんか〜いw みたいな。騶虞だよ騶虞しかも黒の勝った騶虞!カァ〜!ウチの驍宗様マジ万能〜!阿選終わったな、これから驍宗様のサクセスストーリーの始まりだぜェ!
からの絶望の急降下。ジェットコースターだったら乗客数人の首の骨折れてるよこれ。それくらいの落下。むしろ紐無しバンジー。辛い。
霜元と合流出来てさぁ!李斎も昔の麾下と会えてさぁ!やっと阿選に手が届く!ってところからの壊滅。損耗率9割以上。壊滅というか全滅というか。絶望しか無い。驍宗は囚われ。朽桟に鄷都に。飛燕。
朽桟は義賊と言っても良いほど、道理の分かった良い奴でさ。そりゃ土匪だし悪事にも手を染めてるけど、荒民や浮民の受け皿で。家族想いの良き父親で、きっと驍宗が国を取り返した暁には虎嘯みたいに抜擢されるんかな、李斎の麾下になったりして。とか思ってたら。無常。
鄷都は神農として、戴に降り立った李斎一行をずっと支えてくれて。泰麒にも気後れしない朗らかでポジディブな人柄は救いだった。驍宗の治める国で、幸せになって欲しかった。
朽桟も鄷都も、驍宗が最も守り慈しみたかったであろう、戴の民だった。苛烈とも言える強さを持った戴の民だった。戴の長く辛い、先の見えない冬を越すために必死に生きて、生きる為に戦っていたのに。
そして飛燕。飛燕!飛燕!!!
これ読んでる人には、飛燕について語らずとも伝わると思うから敢えて書かないでおきます。というか書いたらめっちゃ長くなるし長い割に辛さしかない文章になるから書けないマジ無理辛い無理語彙力消し飛ぶ無理既に辛い無理辛以下略
既に長いんですけどここまで前書きなんですよねハハッワロス。
いや幾らでも書けちゃうからね……。止まらない。というかほんと絶望のジェットコースター酷すぎない?全体の9割くらい絶望なんだけど。希望をやっと見つけたのに、希望を堪能する前に絶望に叩き落された。南無三。
まず「白銀の墟 玄の月」ですが、全体を通して一貫して感じたのが戴の民の凄まじい、苛烈なまでの強さ。
幼いのに我慢強い栗。項梁に縋りたいのを理性で抑える園糸。
園糸はすごく強いと思った。心細くて、幼い子供を抱えてすごく不安だろうに、項梁の使命を察して、縋る事無く送り出す。
その園糸に「必ず戻る」と断言した項梁もすごく強い。勝てるかどうか分からないどころか死ぬ可能性の方が明らかに高い旅に出るのに。「帰ってきたら夫婦になろう」ではなく、「必ず無事に戻る」。その「生きる」という強い意志と覚悟。
苛烈な報復を受け、多くの犠牲を出しながらも雌伏し知識を紡ぎ、丹薬を作り続けた瑞雲観の道士達。それを命を賭けて匿った戴の民。
「今は戦わない」と決断した英章の覚悟と忍耐も凄まじい。6年間。周りで巻き起こる惨劇の中、驍宗の安否も泰麒の行方も分からぬ中。雌伏することはどれほど辛かっただろう。なまじ阿選に一矢報いる戦力が手元にあれば尚更。
国帑を守る為に耐え抜いた正頼については言うまでもなく。
弟の様に可愛がり、そして敬愛していた驍宗。その驍宗に仇なした仇敵たる阿選の元で、牙を抜かれる事を選んだ巌趙。言葉にするのもおぞましい拷問を受けている正頼が目と鼻の先に居るのに、助けることもできず。巌趙にとって、殺される事より苦しかったのではなかろうか。
李斎を匿い、処刑された老人と孫娘。
皆白を助けた奄奚(げなんげじょ)。
例を挙げれば枚挙に暇がない。
(ところでげなんげじょって変換しても奄奚って出てこないのよ。というか十二国記全体的に字が難しい。感想書いてる時間の4割は漢字検索してるまである。残り4割は悶え苦しみ、残り2割で感想を書いている。閑話休題)
戴の民の気質を最も表したのが、轍囲の民の逸話である。盾のみを持ち、反撃も出来ず耐えた兵士はどれほど恐ろしかっただろうか。深手を負い、酷い者は死んだ。盾を支えた項梁の腕は数年曲がったままになった。それでも白綿の盾に血をつけず、轍囲の民は死を覚悟して門を開けた。
対象的なのが、「風の万里 黎明の空」で描かれた慶の動乱である。
陽子は慶の民に不羈の民となって欲しいと、初勅にて伏礼を廃した。廃する必要がある程、慶の民は踏み躙られる事に慣れてしまっていた。
「我々はあんたたちに協力したわけじゃない。あんたたち逆賊の捕虜だ」
禁軍に包囲された明郭の民が、虎嘯に投げつけた言葉である。
「他者に虐げられても屈することのない心。災厄に襲われても挫けることのない心。不正があれば正すことを恐れず、獣に媚びず。私は慶の民に、そんな不羈の民になってほしい。己という領土を治める唯一無二の君主に」
陽子が慶の民に望んだ民の姿。
これは、戴の民ではなかろうか。
思い出して欲しいのが、鴻基での驍宗奪還である。
李斎らは驍宗に殉ずるべく、死を覚悟して鴻基に向かった。だが、驍宗の奪還を諦めたわけではなかった。戴を諦めた訳ではなかった。一縷の希望を最後まで捨てなかった。恐れず、媚びず、屈せず、挫けず。まさに不羈の民。
戴の民は不羈の民なのだ。
その戴の民の象徴。戴の血脈。苛烈な血の流れたる、戴の麒麟。
その不羈の麒麟は、血の涙を流しながら偽王に頭を下げた。
延麒でも景麒でも成し得ない。天帝の理の埒外の、紛うこと無き奇跡である。
逆説的ではあるが、麒麟は不羈であるから跪拝出来ないのではない。
麒麟は天帝の奇蹟であり、天帝の理により縛られている。
麒麟は理として王以外に跪拝出来ないが、それは不羈性とは異なる。麒麟は天帝の一部であり、王の僕であり、民の僕である。麒麟は不羈性と対局にあるからこそ、王以外に跪拝できない。
麒麟の本性とは相反する不羈の麒麟、戴の麒麟だからこそ成し得た奇跡。天帝の一部、天の奇蹟が天帝に反逆したのだ。
太陽たる天帝と相反する、玄の月。
そう、「白銀の墟 玄の月」の玄の月とは、蒿里を指しているのである。
なにお前今更分かりきった事言うとんねん!と、戴の続報である今回の新刊を待ち遠しく待っていた、この文章を読んでいる海客の皆はツッコんでいると思う。いや違うのちょっとまって読むの辞めないで。私の頭はアンポンタンだけど、さっき思い至った推測は中々イイ線いってるのではないかと思うので読んで欲しい。
「白銀の雪に覆われ、偽王の下で荒れ果てた邑を優しく照らす黒い月!めっちゃ泰麒やんヤバァ!」と頭の悪い女子高生みたいなことを言ってた私が「玄い月……魄……ヴッ……蒿里……」と限界オタクとなって悶え苦しむ様になった程度にはイイ線いってると思うんだ。これを読んで皆苦しめ!!!(本音)
◎玄の月とは
太陽光を地球が反射し、その光が新月の影の部分を照らすのを見たことがある人は多いのではないだろうか。「地球照」と呼ばれる、新月の後数日間にだけ見られるこの現象だが、中国ではこの黒く明るい月を「黒い月」あるいは「魄」と呼ぶそうだ。魂魄の「魄」である。
中国において、人間は陽気の霊で精神を司る「魂」と、陰気の例で肉体を司る「魄」との2つの神霊をもつとされた。「魂」は死後天に昇って神となり、「魄」は地に留まり鬼となる。中国において鬼とは、死者の霊魂を意味する。
蓬山に、死者の霊魂が還る山がある。
泰山の1つ、蒿里と呼ばれる山がそれである。
そして、この推論通り玄の月とは魄であり、魄が蒿里に還るならば。
作驍宗の「作」は「朔」であり、つまるところ新月ではなかろうか。
驍宗が襲われ、泰麒が切られ、王と麒麟が姿を隠す。戴の受難。
これは月籠り、つまり晦日(つごもり)に通ずる。大晦日を「おおつごもり」と読むのは今でも時折耳にする。晦日とは太陰暦における月の最終日の事である。晦日の翌日は月の初日、朔日(ついたち/新月)。私には偶然とは思えない。
朔より玄き月に至り、玄き月より魄が生じ、魄は蒿里に還ったのである。
(作が朔に通ずるという推測は、ほぼ私の勘である。大元は瑞州作県に封ぜられた事からの氏だろうし、その一字ただそれだけで朔とするのは乱暴だろう。だが考えれば考えるほど、驍宗が新月を暗示しているようにしか思えないのだ)
この玄の月の原典は、おそらく中唐の詩人 盧綸の「和張僕塞下曲」である。
月黒雁飛高(月黒くして雁の飛ぶこと高く)
単于遠遁逃(単于 遠く遁逃す)
欲将軽騎逃(軽騎を将って逐わんと欲すれば)
大雪満弓刀(大雪 弓刀に満つ)
ここでの単于とは匈奴の王を指すが、この詩を十二国記の世界に当てはめられるかどうかはわからない。
だが、もし当てはめるとするならば、単于は阿選でも琅燦でもない。
匈奴とは中華にとって外敵である。ならば十二国の外。天帝の理の外に居る外敵。
この匈奴が阿選を囚え、阿選に罪を勧めたと考えられないだろうか。
私は、王宮に潜む妖魔が次蟾だけだったとは思えない。
陽子の周囲だけで、巧の錯王や先の慶国予王、比王、薄王が治世短く失道し斃れている。簒奪ではなく失道によって、である。天帝の奇蹟が選んだ王が、これほど早く道を失う。しかもそれが続く。
これは、天帝の用意したシステムがおかしいのか?
十二国にまだ知らぬ「病」が潜んではいないだろうか。
人は誰もが心に鬼を飼っている。予王は恋慕という鬼、錯王は嫉妬という鬼。
薄王は奢侈の欲に溺れ、比王は権力に溺れた。
誰もが道を誤る。だが、それ即ち失道ではない。
麒麟に選ばれた王が、これほど欲に溺れやすいのは何故なのか。
阿選は、疑心暗鬼という鬼に負けた。血が沸くと、好敵手を喜んでいたのに、その好敵手を憎み害した。
驍宗を弑することは、本当に阿選の望みだったのか。心で飼っていた鬼を、琅燦に育てられたのではないだろうか。
これは私の願望に近い。アレが阿選の本質ではないと、そう思いたい。阿選の一端ではあっても。本質ではないと思いたい。
何故なら、驍宗は何より阿選の侮蔑を恐れたのだ。王の勘気より阿選の侮蔑を恐れ、よって驍宗は道を過たなかった。
そして、驍宗は今でも阿選の侮蔑を恐れているのではないか。阿選によって、驍宗は王たらしめられている。そう感じてしまうのである。
阿選や琅燦、驍宗についての考察は、別の機会に改める。余りにも長くなってしまったし、少し疲れた。
今はただ、亡くなった者の冥福を祈りたい。そして友尚以下、阿選の麾下が麾下としての責務を果たせた事を祈りたい。
友尚が、宣施が、長天が、士真が。敬愛する主公とともに、蒿里へ還れたと切に願う。
飛燕は蒿里に抱かれて、一足先に眠っているだろう。