【我・思・君・思】幽谷霧子、デカルトっぽいタイトルだなと思ったら、それがマジで驚く。以前フォロワーさんから指摘してもらった幽谷霧子さんのテーマが夢と現実ということは、やはり確かであるらしい。
幽谷霧子は太陽。これもたぶん間違いない。太陽は、太陽系の中心だ。天動説を唱えたコペルニクスが宇宙の中心だと考えたのが、太陽だった。太陽は世界の中心。私たちの生きる世界の中心は幽谷霧子なのではないかとさえ思いたくなる。だって、この世界は霧子の見ている夢なのかもしれないではないか? 【我・思・君・思】霧子は、夢でも現実でもどちらでもかまわない、といったことを言う。
夢は、必ず自分に覚める。夢の中の自分と、夢から覚めた自分は、必ず同一でなければならない。目覚めた後の自分がどんなに違った属性を持っていたとしても、自分であるという一点だけは、必ず同一でなければならない(そうでなければ「夢から覚めた」ということが有意味にならない)。夢を見、夢から覚める主体が霧子であるならば、主体である霧子の世界においては、それが夢か現実かということは、実は大きな違いにならない。いずれも霧子が見、霧子が生きる世界である。これは変わらない。
ふつう夢の中の登場人物が、夢から覚めた後の世界にいるその人物と同一であることを考えたりはしないだろう。たとえば夢の中でAさんに殴られたからといって、その責任を目覚めた後の世界にいるAさんに帰するようなことはしない。夢の中の登場人物と夢から覚めた後の世界にいるその人物は、同じであるようでいて、違うものだ。
だが、ここで、霧子は「この咲耶さん」と言う。なんと霧子は、夢の中の咲耶と、目覚めた後の世界にいる咲耶との間の同一性を言っているのだ。やはり霧子にとって、世界は、夢と現実との間でシームレスに繋がっているのではないかと思わざるをえない。
しかしやはりここで咲耶の立場を考えなければならない。私たちはたぶん霧子であるよりは、咲耶の方に立場が近いからだ。気になるのは、咲耶の言う「この私たち」である。霧子が「この咲耶さん」と言ったのに対して受け答えた咲耶の言葉だ。
だが、世界を認識し、認識することによって世界を存在せしめている主体となっている霧子に対して、咲耶はその認識世界の一登場人物にすぎない。コミュでは語られなかったが、「すべては夢かもしれない」と疑った後にデカルトが辿り着くのが、あの「われ思う、ゆえにわれあり」である。これはすべては悪しき神が見せる夢であるかもしれないとしても、そう疑い、そう考える「私」の存在だけは疑いえない、ということだ。この地点において確実に存在すると言えるのは、「私」ただ一つのみである。「私」が認識するあらゆるものも、あらゆる人物も、悪しき神の見せる夢かもしれないのだ。すると、この地点において、思考する「私」と、それ以外の人物との間には決して超えられないレベル差が生じていることになる。
いわばその地点において霧子は主人公であり、かつ、同時に世界という舞台でもある。咲耶はその舞台の登場人物であり、舞台に関与していない。両者の間には、存在論的に超えられないレベルの差がある。
そう考えるならば、咲耶の「私たち」は、実は「私たち」にはならないのだ。だから本当は、咲耶はただ願うしかないのである。目が覚めてもこの私に目覚めますようにと。そのように世界の認識の主体=霧子に、祈るしかないのである。それはまるで、霧子が神であるかのようではないか?
そしてその答えこそが、【我・思・君・思】なのだろう。「われ思う、ゆえにわれあり」には、そう考える「私」の存在の確実性しかない。そこで世界の中心となった霧子がさらにこう付け加えるのだ、「君思う(、ゆえに君あり)」。本当はレベル差のある「私」と君が並列化することはない。だが霧子がそう付け加えることによって、「この咲耶さん」に目が覚めても会えるようになるのだ。そうして咲耶の「この私たち」が本当になる。
けれどその目が覚めた世界がどんな現実であるかは、まだ全く分からない。それが一瞬、垣間見えるあの光景であるのかもしれない。霧子にとっては夢も現実もシームレスに繋がっており、それらに大きな序列があるわけではないのだから。