【プロメアネタバレ】
まとめ⑤ ここまでの考察の結論。『人間の物語』においてデウス・エクス・マキナが必要だった理由。理不尽を肯定することによる、グレンラガンではできなかった人間の弱さと矛盾と奇跡のお話。
【プロメア】語り完結編。ここが本当の本当に語りたかったところ。今までのは全て前置き、ここを語るために必要な小テーマです。こっからがそれらを前提とした根底の大テーマ。
※この記事内で作品タイトルを指す場合は【プロメア】、作中の炎生命体を指す場合はプロメア、と表記します。
※また今回はグレンラガン、キルラキルのネタバレも含みます。観てない人は今から観るんだ!絶対だぞ!どうなっても知らないからな!グレラガは映画もよろしくね!超面白いよ!!!!
クレイのキャラクター性を考察することで彼を『人間である』とするのがまず一つ目の前提。この前提を作るために取り払った極端な悪人や悪の仮面を被った善人・聖人の先入観、つまり『自他を特定の属性に当てはめ縛る』という思い込み(偏見ともいう)を明らかにし人権意識の根幹を描いているテーマが二つ目の前提。その人権意識は人間とバーニッシュだけではなくプロメアという『人外』にも当てはまるのでこれに寄り添う という三つ目の前提がまとめ④までの話です。
この『自他を属性で縛らない/抑制しない/価値観を押し付けない』というのはまだ作品テーマの全てではありませんが大事な要素の大部分を占めています。
クレイとガロ&リオの認識の差もまたそこ。
クレイはプロメアの本能を拒絶し、それを押さえつけることで人間としての自分を保とうとしていた。なので言い換えればプロメアという生命体に『人間の価値観を押し付けて縛っていた』んですね。これ前半の洞窟でガロが言った「燃やすの我慢できねえのか」と同じ発想。本能なので本来は我慢できるとかできないとかの問題ではない。やはり人間の社会で生きていれば人間の尺度だけで相手を縛ろうとしてしまうのは半ば必然なんですよね。ガロも無自覚に相手を縛るような考えが出てくるあたりまだまだ人間くさくて好きだなぁってなりました。そこからプロメアにも寄り添う精神に至るから更に好き。成長してんだよなぁ。
この『人間とは違う価値観/生き方の他者にも寄り添う』というのがまずグレンラガンやキルラキルでは出来なかったところ。とはいえこれは作品の未熟とかそういう意味ではなく、話の構造上グレラガとかは『そういう物語ではなかった』『違う表現手法をとった』というだけの話です。
グレンラガンやキルラキルは『人外を否定することによる人間の肯定』という手法での人間讃歌でした。すなわち相反する二択を用意し、片方を否定することによりもう片方を肯定するという方法。なので基本的に『主人公』か『敵』の構図になり、人間として激流に悶え死ぬ人生を生きるか、人間性を否定して万能に溺れ滅びる、又はそれらを拒否し人間性のない穏やかな時間を過ごすかを敵を倒すことによって選ぶわけです。そしてシモンたちは人間であることを選び取った。
キルラキルも基本は同じですね。流子たちは繊維生命体に支配される安寧を否定し、流子個人も『人間』であることを選び、また羅暁様は最期まで『人類の敵』であることを選んだ。ここで人類の敵を選び抜いた羅暁様がいっぱいちゅき。
ですが【プロメア】でやったのは『人間と違うモノにも寄り添う』ということ。プロメアを打倒でも排除でも否定でもなく彼らの価値観(生態)に合わせて帰すという超平和的な解決法による『相容れない存在の肯定』。初見時これが本当にびっくりしました。グレンラガンと似たようなことやってるふうに見えて、このへんが一番2019年の価値観に合わせた描き方になってたと思いますね。
なぜ【プロメア】ではそういう手法をとったかといったら、こっからはまた別の前提が必要になってくるので次は機械仕掛けの神について。
【デウス・エクス・マキナ】
もう散々いろんな方が言及されてると思いますので今更ですが一応解説しておくと、デウス・エクス・マキナというのは舞台用語で機械仕掛けの神を語源とする、平たく言うと『ご都合主義』的な概念を指すときに用いる名称です。前後の脈絡に関係なく『なんかすごいちから』によって突然話が解決に向かうという非常に便利かつ非常〜〜〜〜〜〜〜〜に嫌がられやすい力技の手法。夢オチとかも基本はこれ。ミステリーかと思ってたら宇宙人出てきて萎えたわみたいな超展開とは似てるようで微妙に違ったりもするので詳しくはwikiを読むか舞台概念を物語に取り入れた名作からくりサーカスを読もう!!隙あらばダイマをねじ込んでいくぞ!!
ロボの名前にデウス・X・マキナなんてダジャレた名前をつける以上この『機械仕掛けの神様』というのはまんまコンピューター人格のデウス博士を指しているのがわかります。わざわざ「人間ではない、コンピューターだ」とセリフで念押ししてるので脚本の意図としても明らか。名前にゼウスとプロメテウスという神の名前がもじりとして使われており、それが「コンピューターだ」とすることでより『機械仕掛けの神』を強調するダブルミーニングになっています。
しかし【プロメア】は基本的に人間と人間の物語。純粋悪でもなく純粋善にもなれなかった人間のクレイにはじまり、バーニッシュであっても人間であるリオたち、それを肯定しプロメアにも寄り添う道を選んだガロもまた人間でなければ意味の通らないテーマになってしまいます。人間が隣人の生き方を肯定するのではなく、大いなる力をもった都合のいい神様が人間の価値観を決める『縛り』の物語になってしまう。
なのでデウス・X・マキナという解決のための力だけはガロとリオに託され、具体的な解決策はこの時点では出されません。そしてデウス・エクス・マキナの体現者であるデウス博士は「役割は終わった」として退場。このセリフもニクイですね。あとのことは人間のガロとリオに委ねられ、人間のクレイを止めてくれ、と再び『人間』の話に戻る。
ここで必要なのがこれをガロとリオが真に『都合のいい神様の力』ではなく『人間の力』に変換すること。なのでデウス・X・マキナではなくリオデガロンに作り替えることで、これを『自分たちのもの』にします。あのガロの突然のモチベ変動も『脚本上必要だった』わけですね。ここもまた突然出てきたガロのわがままというご都合主義だった、というメタ的な多重構造になっています。
では、そもそもなぜここでご都合主義という概念が介入してきたかといえばその目的は『理不尽の肯定』です。
ご都合主義、機械仕掛けの神様という大いなる力は言い換えると降って湧いた理不尽。それを肯定するというのは、そもそもこの物語の発端であるプロメアが、正確に言うとプロメアの宇宙と偶然繋がってしまったという事実が『降って湧いた理不尽』だからです。
理不尽には理不尽をぶつけんだよ。
これ比喩表現として、あくまで比喩としてなんですが『降って湧いた理不尽』とは現実に起こる自然災害、事故、その他突発的な不幸にも概念としては当てはまるんですよね。原因はあったとしても止めようがない、起こってしまったことをナシにはできない、具体的にいつ来るかは予測できない、本質的には誰も悪いわけじゃないし想像もつかなかった理不尽というものがこの世にはあります。それこそ神様でもなければ止められない『偶然』です。
『理不尽な災害』のメタファーであるプロメアを人だけの手でなんとかするのはそもそも無理だったんですね。そこには物語特有の、機械仕掛けの神様による『人を救う理不尽』の力が必要だった。これは現実にはできないことです。【プロメア】が『物語』だからこそできた『降って湧いた奇跡』です。
同じように災害のメタファーを扱ったシン・ゴジラはゴジラという理不尽を人の知恵と工夫という『必然の力』で『踏破する』物語でした。しかし【プロメア】はガロがプロメアに寄り添うことによって『存在を肯定する』物語になった。
だからデウス博士のところにガロとリオが来るのも『たまたま』でないといけない。それもまた理不尽な偶然、降って湧いた奇跡。
もっと言えばリオがただのバーニッシュではなく「炎は燃やすが人だけは燃やさない」という信念をたまたま持っていればこそ。そしてガロがただの人間ではなく「火消しの魂」をたまたま信条にしていればこそ。アイナがガロと一緒にたまたまこの湖を訪れればこそ。その湖をたまたまガロが見つけてればこそ…。
そんでもって、そもそもガロがそういう魂をもったのは「たまたまクレイがガロの家の前でバーニッシュに覚醒してしまったから」こそなんですよ。
つまり【プロメア】は『偶然』を『奇跡』や『運命』と呼べるものに無理やり変えてしまうことで世界の理不尽を肯定する、という超絶力業の結果論的物語なんです。
もはや理不尽の暴力ですよこんなの。こんなんメチャクチャ気持ちいいに決まってんじゃないですか。
これら全部の偶然という名の理不尽、最後の『燃えて消す』がなければ本当にただの偶然、ご都合主義で終わります。ですが偶然に偶然が重なり、だからこそあの結果に至ったという『超気持ちいい理不尽』を『物語』で描いてしまうことによって『負をもたらす理不尽』の上で生きるこの現実の世界、理不尽をもたらす人間そのものまでをもまるっと肯定してしまう、『奇跡を願うなら逆の奇跡も肯定しないとウソだよね』ていうすさまじい暴力性をもった皮肉を描いてるんですよ。
さらにこの理不尽の肯定という角度からの人間の肯定に加え、『矛盾の肯定』というテーマもあります。
自覚が半端な罪悪感と微妙にズレてる責任感とその他もろもろの感情で負の矛盾を抱えまくっていたクレイ・フォーサイト。これに対しリオとガロもまた「矛盾をかかえた人間」です。
ガロがリオを助けるとき心臓マッサージしながら言う言葉。あれ「死ぬな」じゃなくて「『消えるな』」なんですよね。そして「俺生まれて初めて火をつけちまった」。火消しが火をつけることで人を助けるという『矛盾』なんです。
さらにリオも全てを燃やしたいという炎の声は受け入れているのに『人だけは燃やさない』という自己肯定の信念によりガロをクレイの炎から守った。これも『燃えるのに燃やさないことによって人を助ける矛盾』。この『人間だけは燃やさない炎』というのはプロメアの声を真摯に受け入れることで共鳴するリオだからこそできた神業なんだと思います。
プロメアを拒絶するストレスからくる苦しみで結果的に「全てを燃やしたい(現実の全てを消して楽になりたい)」共鳴率を上げてしまっていたとも考えられるクレイ、さらに前日譚のガロ編でバーニッシュに覚醒し、ガロに火傷を負わせてしまったシーマもやはり「そんな…嫌よ…」というセリフからバーニッシュとプロメアを(あの時点では)拒絶していたのがわかる。本編でも「なぜこんな目に」と呟いていたのでやはり身に降りかかった理不尽という不幸を受け入れられなかったんでしょう。最期の笑顔で何を想ったのかは想像することしかできないですね。ともかくそういう『拒絶の炎』ではガロの火傷を見てもわかるとおり、人を傷つけることしかできないんですよね。「たまたま」受け入れていたリオが「たまたま」正解だった。
そしてそんな矛盾するリオを自分と矛盾する方法でガロが助けたからこそ「結果的に」大団円を迎えることになった。結果的に良かったから、それまでの全部を『間違いじゃなかった』と肯定してしまうんですよね。
この『矛盾』というのも現実に落とし込める話で。人間、やっぱりどうしたって矛盾するものだと私は考えているんですよ。これはクレイ語りの中でもちょいちょいしてきたとおり。人を傷つけるのは良くないと我慢すれば自分という人間を傷つける。殺生を否定するのでサラダだけ食うと決めた人が食べてる野菜はそもそも何かや誰かの殺生の上に実現したものではないのか、犬や猫の殺処分に心は痛めるけどそれはそれとして焼肉はうめぇ。そういうことを考え始めると人間とはむしろ『矛盾を許容しなければ生きていけない』生物なんじゃないかと。
それは人間の弱さやしたたかさと言い換えられるかもしれません。言動に矛盾なく生きてる人はカッコイイし私もできるだけそうありたいと思ってます。でもそんなこと言ってたら極論なにも食べられなくなるし自死するにも矛盾が生まれてしまう。だからそういうところの矛盾からは目をそらすしかないんです。家族や友達のこと大切ですけど嫌なことがあったら「世界、滅びればいいのにな」てすぐ思います。でもなんやかんや自殺する勇気はないんですよね。
こういうのはあくまで個人の考えですよ。具体的に誰かとか何かを指してるわけじゃないしみんながそう考えて生きろと説教する話でもないです。ちなみに私は馬刺しを生姜醤油でいただくのが大好き。
『矛盾を肯定する』という物語、これこそがグレンラガンのやり方ではできなかったことなんです。
グレンラガンでやったのは一方を否定することによる逆説の肯定。とくれば必然的に、絶対に助からないものが出てきます。
それがニア。
個が無限の力を持つことによる神様の世界を否定し、神様の世界を拒絶した安寧の別人類を踏破し、神様を作らない人間としての世界を肯定するということは『死を受け入れる物語』であるということ。たとえ愛する人でもその目の前に待つ死を肯定するということ。死んでいった仲間やカミナの死があったからこそここまで来られた、その道筋を肯定するということです。
私はこのグレンラガンの結末は「筋が通っていて」メチャクチャに好きなんですけど、逆に言えばこれ『矛盾を許さない』筋道なんですよね。それが人間の強さである、という形での人間肯定。であれば逆にそれでも弱い人間の気持ちというのは、否定されないまでもそのまま昇華されず残るんです。
すなわち、「それでも生きていてほしかった」という矛盾した願い。
【プロメア】がやってくれたのはここです。
理不尽から始まった悲劇を理不尽の肯定によって解消し、矛盾した人間がそれも間違ってなかったと結果論で示す横暴な物語。これは『ロジック仕掛でなんの矛盾もない筋が通った物語』では絶対にできなかった話なんです。
だから何においても「たまたま」というある種の歪さをもっていなければならなかった。
今石さんか中島さんか失念してしまいましたが公式の発言で「ニアが死なない物語にしたかった」というのはつまりそういうことなんですよね。
キルラキルも当然「片方を否定することによる誰かとの別れ」は来ます。グレンラガンはより人間の原初的な「生きる」という欲求だったので生死という直球の表現でしたが、キルラキルは思春期からの成長による『卒業』。描き方は違えどやはりこれも文脈としては同じ『筋の通った』必然の結末です。
クレイというのが矛盾の象徴的な人物ですが、これを倒すではなく救うでもなく「助ける」としたのもこういうところだと思います。
命を助けても心が救われるかは本人次第。でもニアたち命を散らした者は「自分の死があるから人の道筋になれる」という『救い』はあっても「助かる」ことはない。あくまでグレンラガンの手法ではそこは絶対に矛盾させてはいけないポイントなんです。だからこその人間讃歌。
【プロメア】は燃えて消す、二人の魂がなければ出来ない結末ではありましたが、そもそもそんなガロが今ここにいるのもクレイがバーニッシュになってしまったからこそ。そしてデウス博士というデウス・エクス・マキナが完成させたプロメテックエンジンだけでは叶わなかったことでもあります。その前にまず「クレイの作った未完成のプロメテックエンジンに押し込められて」プロメアの真の声を聞くという段階があればこそ。結局デウス博士の『苦痛を伴わないプロメテックエンジン』とクレイの『苦痛を与える未完成のプロメテックエンジン』その両方が必要だったんです。
だから、クレイが大きな大きな罪悪感を抱え罪としたこれまでのクレイの人生、全部『間違ってなかった』んですよね。
決して正しいやり方ではなかったかもしれないけど、『無駄なものは何一つなかった』んです。
クレイだけでは間違いでした。ガロだけでもダメでした。リオ一人でも実現しなかった。個人個人がやってきた要素全てが合わさって「たまたま」全部が噛み合い、「結果的に」人類救済に向かい、またプロメアをも救うという『何も否定しない』大団円の結果になったんです。
これによってクレイの矛盾と理不尽に満ちた人生の肯定、人間性の肯定が成され、だからこそ人間は生きていけるという『人間讃歌』の文脈が成り立つ、とこういう構造なんですよね【プロメア】って。
だからこんなに気持ちいい。
だから私はこんなにこの物語が大好きなんだなぁと。
これを示すための構造が本当に複雑すぎて、ここを語るためにこんなにも文字数を使ってしまいました。前提を語るための前提だったりテーマを語るためのテーマとかそれが現実の概念込みだとかもんのすごい多重構造をしているのですが、本当に基本的には『人間讃歌』に集約されるのだと思います。その根底はグレンラガンからずっとずっと変わりませんが、やり方をさらに変えてグレンラガンでは取りこぼし、あるいは切り捨てた弱さ、矛盾をもまるっと肯定し昇華してくれた多幸感で涙が溢れそうです。ニアの結末に大いに納得しつつも掬い上げることが許されなかった感情もようやく成仏した気がします。言葉にできて本当にスッキリした。
こんな自分用の駄文を読んでくださった物好きな方がどこまでいるのかわかりませんが、読んでくださりありがとうございました。最終的な結論としては【プロメア】めちゃくちゃ大好きってことです。
おわり。