作家と担当編集者による短文
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カラン、氷の音がテーブルに漂う重い空気の間を涼やかに転がる。
レトロ風喫茶店でのよくある作家と担当の打ち合わせ。先に席にいたゆるいスウェット姿の先生をみつけ挨拶をして名刺を渡したのだが、なぜか先生は何も言わずにじっと座ったままでいる。そういえば先生って人見知りだっけ?席につきアイスコーヒーを注文する。その間も一切物音を立てず、視線も合わない。
重苦しく長い沈黙。ウェイターがすぐに持ってきてくれたアイスコーヒーは、もう随分と汗をかいて薄まってしまった。わざわざこんな沈黙を味わうために集まったのではない。重いのは私が背負っている使命だけで十分ですよ!
「せ、先生!あの!気が進まないかもしれませんが、私があなたの担当編集者になりました」
声が震えてしまわないよう必死で抑えながら、何も言わずに下を向いている先生に訴えかける。
「先生の御本が素晴らしいということは何より理解しているつもりです。私のことは気にしなくて構いません、ですが…読者はあなたを待っている。新作を、復活を、柳谷希典の産み出す物語を。待ち侘びている。あなたを待っている人たちがいるんです。どうか、新しいお話を……もう一度、筆を執ってはいただけませんか」
お願いします、深く頭を下げる。怒られるだろうことは覚悟の上だ。だけど私だってただでは帰れない。一度筆を折った柳谷希典にもう一度筆を取らせる、その勅命を受けてここまできた。手ぶらで帰るわけにはいかないのである!
覚悟の鎧の隙間にぽとりと思ってもいない声が落ちた。
「なあ、新しい編集さん。悪いがもう一度名前を教えてくれるか」
少し掠れた、凪いだ声音。散々偏屈だなんだと編集部で聞かされていたイメージとは程遠い落ち着いた声に、どきりとする。
「は、はい!川本、ですが…」
驚き裏返る声を気にする様子もなく、淡々と静かに彼は言葉を紡ぐ。
「そうか……なあ、川本さん、おれは必ずもう一度小説を書くよ。今度は死ぬまで。必ず書くから、そして、必ず小説家に戻るから。信じて待っていてほしい。少し時間はかかるかもしれないが、それでも、待っていてくれないか」
頼む。声色に、温度と焦りが滲む。柳谷先生は必死に訴えかけるように、机に額を擦り付ける。
「そんな、やめてください柳谷先生!私、絶対また新しい話を書いてくれるんだろうって勝手に信じていたんです。根拠なんかないけど、私、ずっと先生のファンで、先生の本に救われて。先生に会いたい一心でここまで来たんです。絶対に書けます!絶対に!!だめでも私が書かせますから、先生。どれだけでも待ちます。先生を信じています。だから、一緒に頑張らせてください!!」
ーーーおれは、必ず書く。
柳谷先生は垂れていた頭を上げ、そうまっすぐ私を見つめた。テーブル一つ挟んだ先へと送られた言葉は、私に届き、そして私の元を通り過ぎ、部屋を飛び出してはるか遠くの確かに私ではない誰かの側にぽとりと落ちた。なぜかは分からないが、そう直感した。
遠くの山で、春雷が低く唸り声を上げた。