『君たちはどう生きるか』の個人的読解。疎外感から他人に心を許さず打算的な策も平然と用いる主人公の少年が年相応の子供としての生を取り戻す物語であり「男が現実の上に理想を築く作品」と言える『風立ちぬ。』を批判的に補完する色も濃い作品
基本的な物語の骨子は「ゆきてかえりし物語」を採用しているが、一般的なイニシエーションの形態をとるのではなく、寧ろ、子供が子供らしくあることを取り戻す契機として設定されており、「理想や望みのために進まんとする男性的感性/その身を案じ引き留めようとする女性的感性」をはじめ、「和と洋」「木と石」「火と水」といったような複数の二項対立、対概念が緩やかに関連し合っていることが大きな特徴であると言える。先述したように、主人公は疎外感や孤独感に内心では苛まれつつも、誰にも心を許さず、強くクレバーに生きることを希求している少年である。
物語の当初、主人公は煩わしく厚かましい女性的感性・母性に庇護される環境に置かれ、鑑賞者もまた、女性的感性や母性のネガティブな側面を意識させられる。そして全編を通じて重要な役割を担うアオサギは、主人公を冒険へと誘うのと同時に、彼にとっての脅威でもある怪しげな存在として登場する。しかしこの「保守的で魅力のない女性的感性による庇護、スリリングで魅力的な男性的感性の誘い」という関係性は、主人公が継母を救うために大伯父によって作られたファンタジーの世界へ飲み込まれた後、緩やかに変化していく。
かつてのジブリ作品のキャラクターをどこかで踏襲したような人物たちが多く登場する異世界は、食うか食われるかの関係がいたるところに存在する、濃密な死の気配を帯びた過酷な世界であり、そこでは嵐のような体験が連続する。そのなかで鑑賞者は、煩わしく感じられていた女性的な力・母性によって、少年が何らかの形で守られていることをそれとなく理解させられる。
そして中盤の山場、主人公はそれまで心を許してこなかった継母を母と認める。鑑賞者はここで、主人公は崇高な理想を掲げて邁進する大人の男ではなく、まだ庇護を必要とする一人の子供であること、そして子供にとっての最大の庇護者である母親の存在の重要性を再認識させられる(『風立ちぬ』における「理想のための尊い犠牲」という在り方とは異なる形での女性性の肯定が示される)。
「子供であることを取り戻した」主人公は、終盤、構築された異世界の継承を大伯父から迫られるも、自身による過去の打算的な行為を白状し、自身が継承に値しない人間であると告げる。これは自身がまだ子供であると自覚したことに由来する誠実さへの回帰であり、男が占有する崇高さの上に立つ理想世界が終わる瞬間でもある(ここにおいてはやはり、ジブリという集団とのオーバーラップが少なからず意識されている)。
主人公を誘っていたアオサギとの関係も同様に、男性的な世界観が先行する序盤においては「禍福の両方をもたらし得る侮れない存在」だったはずが、中盤から後半にかけては「あくどいが、どこか憎めない友人」「主人公の身を案じているのか、しぶしぶ後をついてくる仲間」といった垢抜けない存在へと転じていく。
異世界から帰還し父親と継母と再開した主人公は、エピローグにおいて「空想の王国を継承し得た一人の男」ではなく「家族の都合によって東京へと帰っていく普通の少年」であることが示され、物語は穏やかに終わる。
このように、子供という第三の項と、そこから見える姿を挟むことによって、フェミニズム批評の領域に問題視された『風立ちぬ。』における「ひたすらに理想を追求する男性/時には犠牲ともなり支える女性」という構図とは異なる男女観を示している作品と言えるのではないか。
この作品における表題の問いはやはり子供たちへ向けられたものであり、そこに込められているのは「悪意や打算も背負い込んだ強かな大人になるのは後でいいから、子供は子供らしく正直に生きなさい」というメッセージであるように自分には感じられた。