メモ:【水色感情】2番目のコミュで出てくる「どぅ、どぅ、らむぅれ、どぅ」は、引用元の歌「L'amour est bleu」の一番最初の歌詞「Doux, doux, l'amour est doux」。
ここで注目したいのは、「どぅ、どぅ、らむぅれ、どぅ」とひらがなに転写されていること。
l'amour est douxは、男性名詞につく定冠詞leがl'になったもの(エリジオン:母音前の定冠詞はl'になる)と愛を意味するamourの合わさったl'amour、いわゆるbe動詞のisにあたるest(エ)、そして甘いという意味のdoux。英語ならThe love is sweetと単語一つ一つを発音するが、フランス語では定冠詞が短くなったり、単語末尾の子音が次の単語の頭の母音と繋がったりする。だから、ル・アムール・エ・ドゥーではなく、ラムーレ・ドゥー。
凛世の言う(歌う)「らむぅれ、どぅ」は「l'amour est doux」を適切に音に転写していることがわかる。引用元の「L'amour est bleu」を聞いてみると、はっきりと「ラムーレ・ドゥー」と歌っているのが聞き取れると思う。
この音の転写には前例がある。【凛世花伝】のアイドルコミュのタイトルだ。カードタイトルの「花伝」は世阿弥の『風姿花伝』から来ているという。コミュのタイトルの「こひめ」や「くもらす」なども能の言葉であるとのこと。で、これらのタイトルには、ローマ字が添えられている。「こひめ -kohime-」「くもらす -kumorasu-」などのように。
これらローマ字が添えられているのは、「こひめ」や「くもらす」などの言葉を意味としてだけではなく、音としてとらえるという意味があるのではないかと思う。そうすることで、これらの言葉が引用であるということが表現として際立つ。どこかで聞いてきた言葉、という風に。
凛世の重要なテーマの一つは明らかに引用だ。いままで和歌や古文がいくつも引用されてきた。引用は、誰かが言った言葉を借りて自分でそれを言うことで何かを伝えたり表現したりする作法だが、実はその言葉の意味を知っていなくてもかまわない。音さえ分かれば引用することができる。
実際、凛世は聞いているレコードの曲名「L'amour est bleu」(おそらく)の意味を「知らない」と言う。「どぅ、どぅ、らむぅれ、どぅ」も、その意味を分かっているのかどうかはよく分からない。ここがひらがなになっているのは、言葉の意味は分からないとしても音を聞き取って伝えることができているということを表現していると思う。
日本語の記法として、外来語はカタカナで表記するという通例がある。「Doux, doux, l'amour est doux」を転写するなら普通はカタカナになるはずだ。だがこれをあえてひらがなで転写することによって、言葉の意味をよく分かっていないカタコトさや拙さを表現するという表現方法もある。ここはその類の表現に違いない。漫画などでロボットの言葉が表現されるとき、カタカナで文が書かれる中もともとカタカナの言葉はひらがなになるアレである。
で、凛世(とプロデューサー)はフランス語の曲名も歌詞の意味も明らかにしないまま、レコードを聴く。凛世はその歌を音で聞き取って口ずさむ。その音がプロデューサーの耳に残るのだ。これが4番目のコミュ。タイトルには(inst)と添えられている。(「L'amour est bleu」には、ポール・モーリアによる有名なインスト版(オーケストラ版)があるとのことで、このことを参照しているのかもしれない。コミュを読んだ後「L'amour est bleu」の歌を聞いたときには、実はあんまりいい歌だとは思わなかったんだけど、このインスト版を聞いてからめちゃめちゃ良い曲だなと思うようになった。)
意味も分からず聞き取って歌った凛世の歌がプロデューサーの耳に残る。言葉の意味以上の何かが凛世からプロデューサーに確かに伝わっていることを感じさせる。ところで、l'amour est douxは「恋は甘いもの」という意味で、この歌は「L'amour est bleu quand je suis à toi」(恋は水色、私があなたのものならば)と締めくくられる。これらが無意識に伝わっているのかは分からないけれども、この意味は念頭に置いておきたくなる。
念頭に置いておきたいというのは、凛世はこの歌の歌詞の意味を知っていたのかどうか、考えたくなってしまうからだ。レコードを聞きたいと言ったのは凛世の方のようだが、レコード自体を凛世が指定したものかどうかは分からない。レコードそのものに興味があったという風にも読める。でもこの曲をもともと知っていたことを否定する要素もないような気もする。もともと知っていたのではないか、と空想するのも面白いように思う。恋の歌を、その意味をプロデューサーに理解させないまま聞かせることができることになるからだ。
意味を理解させない(理解されない)というのは、引用がテーマである凛世が逃れられない運命でもある。【ふらここのうた】のTrueで、「隠さなくても見えぬもののようです。心(うら)とは」と言われているように、誰かの言葉を引用するということには、凛世自身の想いや伝えようとすることを取りこぼす可能性が常に付きまとうからだ。
だが凛世が引用するのは、その運命に負けるためではない。凛世が言葉を引用するのは、凛世自身の思いをそこに託して永遠にするためでもある。凛世が引用する言葉は、古くは小野小町や徒然草などに遡るほど古い。それだけの年月をこれらの言葉は生き抜いてきた。言葉は人間個人の寿命の長さを超えて生き延びることができる。凛世個人の命の長さを超えて、凛世自身の思いが長く続いていくということを、凛世は願っている。その願いを、古い言葉に託しているのだと思う。だから凛世は、言葉を引用するのだ。
この、永遠のような時間の長さが、凛世のもう一つのテーマだと言える。【水色感情】の2番目のコミュの中で、意味の分からないフランス語のレコードを聞きながら2人はこんな会話をする。
「聴いていれば……わかるような気がして……」
「そうか? それじゃ…… わかるまで聴こうか」
「……! プロデューサーさま……」
この会話で思い出すのが、【微熱風鈴】の1番目のコミュ「とことはに」。凛世が気に入った風鈴を買ってきて、事務所でその音色を聞きながら2人が会話する。
「硝子は…… 長い時をかけて……流れている……
とも申します……
凛世も……
つまびらかには……存じませんが……
ゆるぎないように見えて……
まことには……
千年も……万年もかけて……
流れ続けるのだと……」
「へぇー……!
ガラスは流れている、か……
じゃあ本当かどうか、一緒に見てみようか」
「……!
プロデューサーさま……
プロデューサーさまと……
風鈴が……流れていくのを……?」
硝子が流れていくのを見るのも、意味の分からないフランス語の意味を聞いているだけで分かるようになるのも、どちらも気の遠くなるような時間が必要になることに違いない(両者のスケールは全然違うとはいえ途方もない時間がかかるということは同じ)。それを一緒にしよう、とプロデューサーの方から言ってくる。
【微熱風鈴】のコミュの方では、「いえ…… 凛世は……貴方様がいれば……」と答えている。その途方もない時間を共に過ごすということが不可能だということは凛世も分かっている。でも、でもそれをプロデューサーが誘うということは、凛世にとって深く感じ入ることであるに違いない。
【水色感情】のコミュのすごいところは、歌の歌詞に出てくるdouxを「どぅ」と転写した上で、これを心臓の鼓動になぞらえているところだ。すでに指摘されているように、Trueコミュのタイトル「R&P」は、凛世とプロデューサーのことであり、RecordとPlayerでもある。「鳴れ」と念じられたのは、レコードであり、同時に凛世自身でもあるのだ。
レコードのフランス語の意味が分かるまで聴こうか、というプロデューサーの誘いは、そのまま凛世の心、凛世の心臓の鼓動、凛世の「うら」の意味が分かるまで聴こうかという誘いでもあったことになる。
「L'amour est bleu quand je suis à toi」(恋は水色、私があなたのものならば)という歌詞がここに響いてくる。quandは英語のwhenに相当し、「~するとき」とか「~ならば」といった意味がある。私があなたのものならば、恋は水色だ。あなた(プレーヤー)が私(レコード)を鳴らしてくれるなら、水色の恋の歌が流れ出す。そしてその歌をあなた(プロデューサー)に聞いてほしいのだ。