幸福よりもっと幸福であること――アルストロメリアの幸福論について
初出:2020年3月8日Privatterに投稿
◆幸福論
アルストロメリアというと「幸福」や「幸福論」という言葉が思い浮かぶ。最初のユニットイベントのシナリオのタイトルが「満開、アルストロメリア流幸福論」だったし、アルストロメリアのユニット曲「アルストロメリア」でも「幸福論」という言葉が出てくる。この幸福論とはいったいどのようなものなのか。「アルストロメリア」の歌に「悲劇的 最高」という言葉が出てくることからも、その幸福論がどのようなものなのかという謎がずっとそこにあった。ふつう幸せと悲劇は相いれないものだ。
ここでは、アルストロメリアの幸福論がどのようなものなのかを、「アルストロメリア」の歌詞と、アルストロメリアのイベントコミュ、とりわけ「薄桃色にこんがらがって」と【ドゥワッチャラブ!】桑山千雪のシナリオを横断的にみていくことで考えていきたい。イベントコミュで登場した反対ごっこと、アルストロメリアにつきまとう始まりと終わりのなさのイメージが糸口になると思う。そしてそれぞれでフロイトとニーチェの思想を参照する。そうして見えてくるのは、幸福よりももっと幸福であるというような、そんな幸福論である。
◆反対ごっこと割り切れない気持ち
・反対ごっこ
イベントコミュ「薄桃色にこんがらがって」の中で、とりわけ印象に残るのは反対ごっこではないかと思う。
イベントコミュのオープニングからそれは登場する。雑誌『アプリコット』のモデルオーディションに選ばれた甘奈が、面接の練習をする場面。甜花と千雪が審査員の役をするが、甘奈に対して厳しくなることができない。そこで千雪が提案する。「反対ごっこよ、甜花ちゃん……っ。反対だと思えば、嫌なことだって……!」そう言って千雪と甜花は厳しい面接官のように甘奈に言葉を向ける。ここでは、ごっこ遊びだということにすれば言いにくいことも言える、という風に提示される。
・こんがらがる気持ち
イベントコミュの中でアルストロメリアの3人は思い悩むことになる。千雪の昔からの憧れだった『アプリコット』のモデルに甘奈が内定しているという事実。なぜ選ばれたのが自分ではないのかという嫉妬。それでも甘奈がアプリコットガールになるのは嬉しいという気持ち。甘奈は甘奈で、今までの仕事が評価されたことは嬉しいと思いつつ、千雪さんの方がふさわしいのにどうして自分だったんだろうと思う。オーディションに出たいと言う千雪のことを恐れてもいる。甜花は、甘奈と千雪の両方を応援したいと思っているが、2人ともがオーディションに受かることはないということも、甘奈がすでに内定していることも知っている。
3人の心はイベントタイトルの言葉を借りれば「こんがらがっている」。3人それぞれの心がこんがらがっているということでもあるし、3人個人個人の心の中でも相反する想いがこんがらがっている。応援したい、応援したくない。オーディションに勝ってほしい、勝ってほしくない。それらは簡単に割り切ったり、シンプルに名前を付けられるような感情ではなさそうに見える。
・反対ごっこごっこ
そこで登場するのが反対ごっこだった。第6話。プロデューサーからオーディションの真実を打ち明けられたミーティングの後で、河原で偶然3人が再会する。千雪はよくここで発声練習をしているというのだが、声が出ないという。甘奈も甜花も声が出ない。声が出ないという甘奈に対して千雪が言う。「……ううん。出していいの。……ね。反対ごっこ……しよっか……」そうして千雪は川に向かって叫ぶのだ「甘奈ちゃん、オーディションに落ちたらいいのにーーーー!」甜花と甘奈も続ける。「ふたりともオーディションに落ちたらいいのに」「千雪さんオーディション落ちればいいのに」
最初面接の練習をしているときに導入された反対ごっこは、言いにくいこと(ただし思ってもみないこと)を言いやすくするためのごっこ遊びだった。けれどここではちょっと違っている。少なくとも千雪と甘奈の2人は、「オーディションに落ちればいいのに」という言葉は思ってもみないことではないはずだ。少なからずそのような考えがあったはずだ。だからここでの反対ごっこは最初に導入した反対ごっことはちょっと違っていて、それをふまえたいわば反対ごっこごっこのようなものでもあるのだ。
・フロイトの否定の話
フロイトは、人間の精神を意識と無意識(と前意識)とに区別した。無意識は、意識に置いておけないような考えやイメージなどがうずまいている部分である。意識においておけないような考えやイメージというのは、反社会的なことだったり、道徳に反するようなことだったりする。あるいは身近にいる愛しているような対象に対する憎悪だったりもする。そして何よりも、意識の上のある信念と強く対立したり矛盾したりする場合に、それらは意識に置いておけなくなる。
けれどそれらは意識からどかされる(抑圧される)だけで消えてしまうわけではない。そしてそれらが自分にとって重要なものであればあるほど、意識の外側でエネルギーを持ち、意識の外側でさまざまに力学的に作用することになる。それらが睡眠中の夢の形成だったり、症状の形成だったりする。
フロイトによれば、夢は無意識の願望である。意識に置いておけないような考えやイメージを、意識に置いておけるような形に変換して、意識へと持って行くのである。これは検閲をすり抜けて文書を送り届ける手順に似ている。その意識の検閲を通り抜ける方法としてフロイトが見出した無意識の技の一つが、「否定」だった。
無意識の中にある考えやイメージをそのまま意識の上に持って行くことはできない。それらは社会や道徳に反していたりするし、何より他の信念と対立したり矛盾していたりすると意識に強い負荷がかかる。そこで否定を使う。これこれそんなことなんて考えていませんよ、と言うのだ。お話などでよく聞く、何か悪いことをした犯人が「私じゃないですよ」と聞かれてもないのに言ってしまうアレである。
・反対ごっこの後で
イベントコミュ第6話で千雪たちが反対ごっこごっこで叫んだ言葉は、こういう否定の言葉だったのではないか、と私は思う。応援したいけど応援したくないという相矛盾した気持ち。応援したくないオーディションに落ちればいいなんて言えないし、自分がそんなことを思ってるなんて認めるのは難しいに違いない。実際、応援したいオーディションに受かってほしいという気持ちも確かにあったはずだ。相矛盾する気持ち。自分がそんなことを想っているなんてなかなか認められない気持ち。だから言えずにいた。けれどそれを言葉にすることができたのである。反対ごっこの力を借りて。否定の力を借りて。
フロイトの精神分析の基本は、無意識の思いに気がつくことだ。それは自分の意識が認めたくないような自分の思いを自分で受け止めることだ。人間の精神は無矛盾ではない。それは矛盾していて、相対立するようなさまざまな考えやイメージがあって、こんがらがっているものである。それらを意識から追い出してしまうので、もやもやしたり症状が形成されたりする。精神分析の治療は、そうした矛盾や対立を消すものではない。それらの矛盾したり対立したりしているそれぞれの考えやイメージに、意識のレベルで向き合うということなのである。
だから、反対ごっこ(ごっこ)をして大きな声を出すことができた3人は、すっきりしたような様子になれたのだと思う。だから甘奈と千雪はオーディションを戦うと言うことができたのだ。
◆始まりと終わりがないというイメージ――最高の肯定
・始まりと終わりのなさ
アルストロメリアには、なぜか始まりと終わりがないというイメージがつきまとっている。「アルストロメリア」の歌詞を見てみよう。「まっ赤なりんごは落ちてこない」「初めからエンドロール」「ジャッジメントがくだらない」という言葉が出てくる。「まっ赤なりんご」は万有引力の発見の逸話に登場するニュートンが見たというりんごのことだろう。りんごが落下しなければそのような発見もなかったかもしれない。「ジャッジメント」はキリスト教において考えられている最後の審判のことだと思われる。それが行われないということは終わりが訪れないということに違いない。「初めからエンドロール」という表現は、ふつうの意味での始まりと終わりがねじれてしまっている。
終わりがないというイメージについては、感謝祭のアルストロメリアのシナリオをあげることもできる。感謝祭ではアルストロメリアはいったん「ハッピーエンド」というテーマをかかげる。だが「夢の続きには何がある?」「ハッピーエンドの後には何がある?」という問いが持ち上がり、甘奈が未来に対する不安を抱いたためそのテーマは取りやめることになる。(ここにはハッピー”エンド”をやめるというポイントと、”ハッピー”エンドをやめるという二重のポイントがあるだろう。)
さらに、「薄桃色にこんがらがって」のエンディングコミュのタイトルは「エンドロールは流れない」である。これは【ドゥワッチャラブ!】の1番目のコミュとも繋がっている。
・円環のイメージ
始まりと終わりがないということから導かれる時間のイメージは2つある。1つは、「アルストロメリア」と「Bloomy!」の詞に登場する円環のイメージである。
「アルストロメリア」の歌詞に「ねじれた茎(バルブ)」「まわる まわる」とあるし、「Bloomy!」では「遠回り」「循環系」とある。これらが回るものを連想させる。またさらに、「気絶しそう」「サチュレーション」(酸素飽和度)「バルブ」という言葉から心臓と循環器系も連想させる。
そしてもう1つ連想する回るものがある。ニーチェの永遠回帰だ。
ニーチェを連想する理由は、「ニヒリズム」「悲劇」という言葉があることと、「フィロソフィ」という言葉があって哲学が背景にあることが示唆されていることによる。「Bloomy!」にも「プラトニズム」と「イデア」の語があるので、哲学を連想するのは間違いではないと思う。それでなぜニーチェなのかというと、ニーチェの最初の著作が『悲劇の誕生』というタイトルであったことと、キリスト教をニヒリズムであると強く批判した哲学者だったからだ。
ニーチェのキリスト教批判を参照しておこう。ニーチェによれば、キリスト教は死後の幸福ばかり考えさせていて、この現世においては人間を奴隷状態にしているという。そうやって幸福を死後のものとして、現世を価値の低いものにしてしまったという点で、キリスト教は現世に対するニヒリズムなのだと批判するのである。だからニーチェが目指すのは、死後における幸福ではなく現世における幸福である。
そしてその現世は、キリスト教の世界観のように世界の創造と最後の審判という始まりと終わりのあるような時間ではない。円環を描いていて、この現在時点が永遠に何度も繰り返されるような時間である。そしてその永遠に繰り返されるこの現在時点に対して肯定をする。それがニーチェの考える永遠回帰だ。だからこれは現在時点という時間に強く留めさせるものでもある。この現在時点への係留という時間制が、始まりと終わりがないという時間のイメージから導かれるもう1つの時間イメージである。
・最高の肯定
『悲劇の誕生』は、ギリシアの芸術には理性的で造形的なアポロン的なものと衝動的情動的で非造形的なディオニュソス的なものとの対立があるということを発見したという本である。ニーチェによれば、そのアポロン的なものとディオニュソス的なものとが合わさって作られる芸術作品が悲劇であった。そして「悲劇こそは、ギリシア人がペシミストでなかったことの証拠である」という(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳,岩波文庫,p.94)。だからここでの悲劇は、単に悲しいお話というだけのものではない。
こうしたギリシア悲劇が示すのは、「最高の肯定の方式」であるという(同上,p.96)。「つまり、苦悩や罪、生存におけるあらゆるいかがわしいものや異様なものに対してさえ「然り」という態度」であり、「窮極的な、この上なく喜びにあふれた、過剰なまで意気盛んな生命肯定」である(同上,pp.96-7)。
このように、ここで肯定されるのは普通の意味での幸福だけではない。嬉しいことや気持ちのいいことだけではなくて、悲しいことや気持ちの悪いことも共に肯定される。アポロン的なものとディオニュソス的なものの融合した悲劇は、人間の生命の衝動や情動、非造形的な美も含むものなのである。そういうものも含めて肯定するのだ。
これこそが、「アルストロメリア」の歌詞に登場する「悲劇的 最高」の意味ではないか、と私は考えている。「Bloomy!」にも「最高は瞬間的ノンフィクション だからこそ尊い」とある。現在時点をこの水準で肯定すること。これこそが最高の肯定である。
◆幸福よりもっと幸福であること
・幸福と不幸の向こう側
以上の話をまとめてみよう。
反対ごっこは、意識のレベルで言うことが困難なことを否定の方法を取ることで言いやすくするものだった。人間の心は矛盾したり対立しあうような考えやイメージがこんがらがっているものである。反対ごっこを行うことで、意識の中に置いておきづらいことも言うことができた。
アルストロメリアには始まりと終わりのなさのイメージが付きまとう。そこから円環を描く時間、現在時点がどこまでも続くような時間が浮かび上がる。そしてニーチェの現在時点の肯定の思想である。そこで肯定されるのは良いことだけではない。
前者は、言いにくいことや意識に置いておけないようなことにも向き合うことが精神にとって必要なことだという話であった。後者は、良いことだけでなく悲しいことも含めて肯定するのが最高の肯定であるという話であった。どちらにおいても、嬉しいことや楽しいこと、気持ちの良いことだけでなく、それと対立したり矛盾したりするようなものにも目を向けて、それらを受け止めようという点で共通していると言える。アルストロメリアの幸福論のポイントはここにあると思う。
イベントコミュ「薄桃色にこんがらがって」のエンディングコミュ、千雪の想起の中で甘奈はこう言った。「わかったの。3人でいる……っていうこと。いい時だけ一緒なんじゃなくて…… そうじゃない時も一緒なんだってこと」。嬉しいときや楽しいとき、気持ちの良いときや良いことがあったとき。このようなときのことが、ふつう「幸福」という言葉の内実となるものだろう。だがそれらのときにだけ一緒にいるのがアルストロメリアなのではない、と甘奈は言う。悲しいときや退屈なとき、気持ちの悪いときや良くないことがあったときも一緒にいること。これらはふつう、「不幸」の言葉の内実となるものだろう。こうしたときにも一緒にいるのがアルストロメリアなのだと、甘奈は言うのだ。そしてこれこそが、アルストロメリアの幸福論なのではないか。
この幸福論は、ふつうの意味での幸福や不幸を超えている。あるいはふつうの意味での幸福と不幸の両方を含み持っている。だからこれは、幸福よりももっと幸福であること、だと言えるだろう。
・シネマじゃなくても
そしてその幸福よりももっと幸福であることは、特定の何かの出来事にあるのでもない。【ドゥワッチャラブ!】1番目のコミュ「食べちゃうから、全部」にそれが表れている。
コミュの冒頭は、雑誌『アプリコット』からの引用(おそらく)で始まる。特集タイトルは「この春は、映画のような恋にフォーカス――シネマみたいに、想って」。ポイントは、「シネマみたいに」だ。引用される記事はこのように書く「エンドロールが夕焼けのように去って音楽が最後の吐息をもらした後も続いていたら素敵じゃない? シネマの中で見ていた恋が」。
私たちは現実世界に生きている。しかし私たちの営みの中には、フィクションの物語をモデルにして行われるものも少なくない。ふつうは現実の方が先にあって、フィクションの物語の方がその現実世界の諸事情などを反映すると思われるだろう。だがむしろフィクションの物語の方がモデルとなって現実世界の営みが行われることがある。その実例の一つが恋愛だ。
現代社会において恋愛をする人の多くは、自由に恋をする相手を決めてデートをしたりしていると思っているはずだ。だがその自由恋愛のスタイルの多くは、フィクションの物語がモデルになっている。それは恋愛漫画だったり恋愛ドラマだったり恋愛映画だったりするだろう。私たちはフィクションの物語を見て、こんな風に恋愛をしたいと憧れたり、恋愛というのはこういう風にするのかと学んだりするのだ。『アプリコット』の記事が言う「シネマみたいに」というのはこういうことの一種である。記事は、エンドロールの後にもシネマの中で見ていた恋が続いていたら素敵ではないかと問いかける。
このコミュは、『アプリコット』の映画特集の記事を千雪が思い出して引用しながらその内容について甘奈と話すというものだ。千雪は『アプリコット』の記事の描き出す世界観に強く憧れていて、それが描き出す世界の住人のようになっている。引用した記事が描き出したのは映画の中のため息についてだったが、千雪は本当に素敵なため息をして見せるのだ。
千雪の『アプリコット』への憧れは、思い出していた記事に登場したブルーベリーのタルトを無意識に注文してしまうほどであった。そのブルベリーのタルトはある映画に登場したもので、その映画では失恋してブルーベリーのタルトを食べる場面があるのだという。その人物は「すっぱい」「美味しくないよー」って言いながらブルーベリーのタルトを食べるのだ。千雪は「悲しいけど、食べちゃわないと終わらないのかも…… 悲しいことも、まるごと――」と言う。そして運ばれてきたブルーベリーのタルトを前にして「――食べちゃうから、全部」と言うのだ。良いことだけでなくて、悲しいことも、全部。これがアルストロメリアの幸福論。
そして最も重要なのはこのコミュのラストの千雪のモノローグ。「――エンドロールは流れないし、音楽も終わらない――私たちは、続いていく。でも。素敵だね。シネマじゃなくても……――」そう、素敵なのだ。「シネマじゃなくても」。ここで千雪は「シネマの中で見ていた恋」から一歩外へ出たのである。そこで待ち受けていたのは、エンドロールは流れず、音楽も終わらない、どこまでも続くこの現実の現在時点なのである。そしてそれはおそらく同時に、憧れの『アプリコット』の描く世界観からも一歩外へ出たということなのだろう。だから、その次のコミュで千雪は「卒業」し、雑誌を実家に送ろうとしたのだと思う。
・ハッピーを摘め
イベントコミュ「クエストロメリア」のエンディングコミュでのエピソードが思い出される。「ハッピーを摘め」という課題で3人がたどり着いたのはクローバー畑だった。千雪が「四つ葉のクローバーは、幸せのお守りっていうものね」と言ったのに対し、「でも3つの葉っぱで超幸せだよねっ!」と甘奈は返している。幸運のお守りとされる四つ葉のクローバーにたいし、ふつう三つ葉のクローバーはただのクローバーだ。けれど、アルストロメリアにとってはただ三つ葉も幸せなのだ。だからここは「すっごくすっごく幸せな畑」になる。特別な何かだけが幸せなわけではない。このことにアルストロメリアの3人はすでに気づいていた。
「ハッピーを摘め」というお題は、「Bloomy!」に繰り返し登場する「カルペディエム」という言葉とも呼応し合う。カルペディエム(Carpe diem)は、直訳すると「その日を摘め」「一日の花を摘め」という意味のラテン語で、「今この瞬間を楽しめ」という意味なのだという。だからまさにハッピーを摘めというのは、いまこの瞬間にハッピーであれということなのだ。クローバー畑にいたときには、アルストロメリアの3人はまだそこに悲しいことや思い悩むこともあるとは思っていなかったかもしれない。けれど薄桃色のこんがらがりを経た3人ならば、幸福も不幸もひっくるめて、その先の幸福を目指すことができるのではないかと思う。きっとそこに向かうことこそが、アルストロメリアの幸福論なのだ。
*Privatterの投稿は削除済み