「哀れなるものたち」、面白い映画だったが思うところも多かったので、やはり感想を書くことにする。以下超絶ネタバレ注意
物語の歪さを支えているのは主人公ベラの特異性である。
が、色々書く前に本作のストーリーをおさらいしたい。未視聴の人はどうか読まずに先に映画を見て欲しい。
マッドサイエンティストである医師ゴドウィンは、ある時から奇妙な女を屋敷で養うようになった。ゴドウィンに嘱目された医学生マックスは彼の研究を手伝うことになる。それはベラと呼ばれる、幼児のような振る舞いをする女性を観察し記録することだった。
やがてマックスはベラを愛するようになる。ゴドウィンは彼にベラとの婚約を勧める。ベラを一生ゴドウィンの屋敷に監禁することを条件に。それを飲んだマックスはベラの出自をゴドウィンに尋ねる。
ゴドウィンはある日、川に身を投げた女性の死体を発見する。死体は死後間もなく、妊娠しており、胎内の赤子は微かに息があった。ゴドウィンは胎児の脳を母親の頭に移植し、蘇生させる。死を免れなかった胎児が母親の体を貰い受けることで、この世に生を受けたことになる。ここだけなら歪な救出劇になるだけだが、ゴドウィンはベラの存在を秘匿し、彼女を観察し続け研究を行う。ゴドウィンはベラに自由を与えないが、彼女はそれに反発し始める。
そんな中、おそらく弁護士と思われる仲介人ダンカンがベラの境遇を奇妙に思い、探りを入れたところ、彼女の美貌に惹かれ、駆け落ちを提案する。ダンカンは放蕩者で有名で、ベラを誘惑して遊び棄てるつもりだった。
ゴドウィンはこれを黙認する。二人は上手くいかないに決まっており、やがてベラは帰ってくると。
自由を得たいベラは婚約直後にも関わらず、その提案に乗る。旅立ちとともにセピア色で描かれていた世界が突然色を帯びるようになる。ベラは外の世界を知るとともにダンカンとのセックスに溺れる。
各国を旅する中で、ベラは様々な人物と出会い、成長してゆく。やがてセックスよりも知的な刺激を求めるようになり、哲学にものめり込む。そんな中で世の中の貧富の差に衝撃を受けるシーンもある。
自分の価値観を持つようになったベラはダンカンを破滅させ、決別する。彼女はパリの娼館で働くようになる。
娼館で稼ぎながら、ベラは医学校に通う。そんな中、自分の腹に帝王切開の痕があることに気づき、帰郷を決意する。帰郷した彼女に待っていたのは死に頻したゴドウィンと出生の秘密、そして生前のしがらみであった。マックスとの婚儀の最中、ベラの夫を名乗る、将軍と呼ばれる男が闖入してくる。ベラは自分の母(彼女の体は母のものだが)が自殺した理由を知るために将軍の元に帰る。
暴君そのものの振る舞いをし、妻を物のように扱い監禁する将軍に逆らい、ベラは帰還する。物語の最後は銃を誤発射して負傷した将軍にベラとマックスがロボトミー手術を施し、ベラが自由を獲得するという奇妙なグロテスクさを内包したまま爽やかに終わる。
この映画のおそろしいところは、序盤のセックスシーンに対する倫理的嫌悪を想起させることに成功している点だ。ベラの出生の秘密は、普通の映画なら最終盤で明らかになる類のものだが、本作では助手マックスの疑問にゴドウィンが答える形で序盤にあっさり開陳される。
ベラとダンカンのセックスは全て生まれて間もない赤子と女をヤリ棄てる放蕩者とのセックスを意味する。ダンカンは大人の女性を誘惑したつもりだが、その構造が尚更グロテスクに見える。その上NTRだ。間男死すべし慈悲はないーーと言いたいのだが、観客は途中からダンカンに同情するようになる。だが、ベラが娼館で金を稼ぐようになると、セックスに対する見方が変わってくる。性加害から児童労働へ問題が変わるからだろうか。このあたりになるとベラの常軌を逸した問題行動に眉を顰め続けた観客(僕)も彼女のことを応援し始める。なお、ベラの頭に移植された胎児の性別は劇中で一切明らかにならない。
この映画の根幹は自己決定権の物語である。ベラは確かにゴドウィンが最初に予見した通りにダンカンと破局し帰郷した。だが、劇中のゴドウィンは「もうベラのことは忘れろ。あの子は帰らない」とマックスに向けて嘆いたように、ベラの制御に完全に失敗していた。それに、ベラは真相を知るためにゴドウィンの元を再度訪れたのであり、自らのルーツを知った後でそのくびきから逃れようとしていたように見える。彼女が終始ゴドウィンの制御下にあったという見方は誤りだろう。ベラがおぞましい出自を乗り越えて自由を手にする様は爽快であり、それがこの映画のグロテスクさと清々しさを両立させている。
虐待の観点も本作にはある。
ゴドウィンは息子を実験動物としか見ていない父親からの虐待サバイバーであり、ベラに対しても虐待を再生産する。だが、物語後半ではベラの成長に感化され、婚儀に闖入した将軍に向かって「出て行きなさい」と父親のように振る舞うようになる。
そうであるのに、見方によってはゴドウィンからのサバイバーになるベラは、せっかく手にした医術を将軍へのロボトミー手術という復讐の手段に枉げてしまう。この点、虐待の連鎖という意味では本作は暗さを捨てきれていない。
問題点もある。僕はこれを「フェミニスト映画」とは思えないのだが、その理由に彼女の振る舞いに知的障害や脳性麻痺を想起させるものがあるからだ。フォロワーは知っていると思うが、僕は「進撃の巨人」が大嫌いで、それは巨人が明らかに脳性麻痺患者を模して描かれており、彼らの尊厳に対して微塵も興味がないことがわかりすぎるからだが、類似の危うさがこの映画にはある。
最初、ベラは上手く歩けない。それは彼女の脳が胎児のものであるから仕方がない。歩き方は滑稽で、いつ転ぶかわからずハラハラする。が、ここでも「進撃の巨人」問題が出てくる。
ここで障害者の原義を思い出したい。障害学における障害は、疾患ではなく周囲の環境のことである。報道番組などでも、「障害を持つ人」ではなく、「障害のある人」という表現をするのは障害学の観点から正しい。例えば白杖を持つ視覚障害者にとっての障害は「目が見えないこと」ではなく、「目が見えない人間に適応できない周囲の人間や環境のこと」を指す。
その観点から見ると、ベラにとって周囲の世界は当初、障害そのものであり、彼女はそれを凄まじい成長速度で乗り越え続けるが、元夫である将軍という「前世」のしがらみに束縛される終盤にあってもその構造は変わらない。
この映画はベラが障害を乗り越え続ける物語でもある。特徴的な歩き方も幼児の成長過程ととらえられる。実際、ベラの歩き方は脳性麻痺患者よりも遥かに乳児に似ている。そこには製作者のこだわりを感じる。
いまひとつが、知的障害者と性産業の問題である。彼らが性産業に行き着き(世間と企業の両方に)搾取されるケースが多いのは周知の事実であるが、ベラのパリでの生き方は嫌でもそれを想起させる。それはベラの深慮によるもので、哀れみは彼女の自己決定権を軽んじていることになるだろう。実際、パリの娼館で働くうちに、ベラは他の大人達を圧倒するほどの経験と知識を手に入れる。そこで観客(僕)は考えることになる。「はたして、ベラは哀れなのか?」と。
本当に?
ベラは確かにたくましい。ベラのように気高く生きる娼婦もいる。だが、それは性の搾取という暴力を帯びやすい構造に対する免罪符にはならない。
いわゆる「男性のまなざし」問題がこの映画にはあるのではないかという疑念もある。障害者差別と性差別の二点において、この映画はグレーに近い。そこにある搾取と差別の問題は、僕が「進撃の巨人」と同じくらい(食わず)嫌いな「ゴールデンカムイ」のような表層的でわかりやすいものではない。観客(僕)がこの作品に感じる爽快感は、たとい作品そのものが帯びるグロテスクさに気づいていたとしても、「男性のまなざし」によってもたらされているかもしれないのだ。
この映画は素晴らしい。だが、それを手放しで褒める我々はいったい何なのか。どうしても後ろめたさが拭えない。