幽谷霧子sSR【我・思・君・思】「かなかな」についてふたたび。思いついたことのメモ。
(1)「デカルトさんもおやすみ」
「デカルトさん」も霧子のいわゆるさん付けされた対象だと考えてみたい。霧子のさん付けは、たぶん霧子自身が無意識のうちに対象に心細さや寂しさのような感情が投影されて、召喚される。召喚されたその対象は、さん付けされて霧子の隣人となる。隣人がいれば、一人じゃなくなる。「かなかな」コミュ内の「咲耶さんがこの咲耶さんなら」の「咲耶さん」もたぶんそれに近い。(詳しくはprivatterに投稿した文章を読んでほしいのだけれども2万字も書いてしまったので気が向いたら読んでいただけたら…… https://fusetter.com/tw/Q9Y56Izv#all)
で、「デカルトさんもおやすみ」はたぶん、夢の懐疑を恐れることなく安心して眠っていいんだよ、と霧子は言っているのではないかと思う。これは夢かもしれない(夢じゃないって言えない)っていうのは、けっこう怖いことだ。本当の現実だと思っていたのに、この全てがまるっと現実じゃないかもしれない。世界の底が抜けるような、背中に嫌な汗が垂れるような、そんな恐怖におそわれる(ただし本来デカルトは確かな知識を得るために夢の懐疑を退けようとした)。けれど霧子は、「咲耶さんがこの咲耶さんなら」、夢でも現実でも構わないと言う。「咲耶さん」という隣人がいてくれるなら、たとえこれが夢だったとしても怖くはないということのように思う。
そしてそのことを「デカルトさん」に伝えようとしたのではないか。これが全てまるっと夢だったとしても、目の前にいる人と夢から覚めた後でまた会えるなら、夢でも現実でもどっちでも大丈夫なんだよ、何も怖いことはないんだよ、と。そうやって「デカルトさん」に伝えようとしているのではないか。
この「デカルトさん」に伝えようとしている言葉を、そのまま霧子に伝えたくなる。【白・白・白・祈】TRUEコミュ「雪、そこにいますか」で、「励まされたんだよ」と最初に降ってくる雪に伝えたいと言う霧子に向かって、「霧子もそうだよ」とプロデューサーが言ったみたいに。霧子に映る雪の姿がプロデューサーに映る雪の姿に重なるように、霧子に映るデカルトの姿が私たちに映る霧子の姿に重なるように思う。大丈夫、安心して眠っていいんだよ、霧子もおやすみ……
(2)「我思う」と「君思う」
【我・思・君・思】とタイトルにあるように、「我思う」と「君思う」が並列している。デカルトの有名な「我思う、ゆえに我あり」は、本来は独我論的なもので、それが「君思う」と並列化するにはもうワンクッション必要だ。「咲耶さんがこの咲耶さんなら」と霧子が言ったのに対して、咲耶は「私たちがこの私たちなら」と返しているが、それらは厳密に全く同じだということにはならない可能性がある。(このあたりのことについて以前ふせったーの投稿で書いたのでこちらも気が向いたら…… https://fusetter.com/tw/G71rx#all)
ここで改めて考えたいことは、霧子には霧子に中心化された世界があって(いわば霧子を認識の中心とした独我論的な霧子世界のようなもの)、それは他の誰かに中心化された世界と重なっているのかどうか分からなくなるところがあるということだ。
というのは、ここで思い出したいのが【天・天・白・布】TRUEコミュ「帰りましょう」での「わたしはわたしが知っているだけしかいないけど」という言葉。プロデューサーが知らない霧子が学校にいるということを霧子に話した後で霧子が言った言葉。プロデューサーが「たくさんの霧子の中の一部」と言った言葉を受けたものと思われるけれど、この「たくさんの」を人数的なニュアンスで取って、まるで霧子が複数人いるかのような言い方になっていてちょっと驚く。
霧子に中心化された世界の霧子と、プロデューサーに中心化された世界にいる霧子が完全なる同一人物というわけではないという可能性、別人であるという可能性が開かれているように読める。
でも同一人物じゃないんだよ、別人なんだよ、という感じで話が終わるわけではなく。霧子の続きの言葉を聞くと、「プロデューサーさんは知らない分のわたしのことも見つけてくれます」とある。たぶん霧子は、プロデューサーに中心化された世界で見つけられた、自分の知らなかった霧子という人間(像)を自分のものとして引き受けようとしているような気がする。ここで、2人それぞれに中心化された2つの世界が重なる。
霧子は自分をものの数に数え入れない癖がある。それは霧子が認識の中心にいて、他の人間とは存在のレベルとして違うからだ、というような雰囲気がある。ただそこで、他の人物からまなざされることで、霧子もまたそのまなざしのもとの客体になる。その客体を自分として引き受けることで、霧子はその人物と共通の世界に、その人物と同じ水準の存在者として存在することができるようになる、のだと思う。だから霧子は「見ていてください」と言う。
なので、咲耶が霧子に向かって「私たちがこの私たちならば」と答えたのはとても重要なことだと思う。霧子のおやすみに対して、咲耶も答えて「また会おう……すぐに」と言う。咲耶の応答が、雪の降る屋上で「霧子のそうだよ」といったプロデューサーの言葉と同じ役割を果たしていると思う。
リンクを貼ったふせったーの文章では、咲耶は認識の中心である霧子(≒神)に祈るしかないと書いたけど、霧子を認識の中心として認識するとこうなる(自分は霧子世界の一登場人物にすぎなくなるので……)。けれど、「見ていてください」と言う霧子は、プロデューサーやユニットメンバーなどの向き合った相手と認識の主体どうしで向かい合うことを望んでいるのかもしれない。そうやって向き合う(向き合ってもらう)ことで、自分(霧子)は相手と対等の水準の存在者としてこの世界に存在することができるようになる。……のではないか。