凛世さんのGRADの「あ」についての思いつきメモ。
凛世のテーマは引用だとずっと思ってて、実際凛世は何度も和歌とかを引用したりしてるんだけど、テーマが引用っていうのは、凛世が発する言葉が凛世自身の言葉なのか誰かの言葉の引用なのか分からなくなるところがあって、そのために凛世自身の思いが伝わらなくなることがある、ということを考えてる。【想ひいろは】のコミュが顕著で、「お慕いしております」と言ったのにプロデューサーには漫画の引用と聞かれた(プロデューサーはわざとそうしたのかもしれない)。
凛世はだから、自分の思いを見せていても見てもらえない、という問題にぶつかる。それをはっきりと描いたのが【ふらここのうた】TRUEの「はちぶく」で、凛世は「隠さなくとも見えぬようです、心(うら)とは」と(不満げに?)言っている。心は人から見えない部分で、隠そうと思えば隠すことができる。けれど凛世には隠す意思がない。隠す意思がないにもかかわらず、プロデューサーには見えていないのである。(そういう見せようと思ってなお見えないものこそが「心」というものなのだと私は思う。)
言葉を発していても伝わらない、という状況を、GRADシナリオでもつくり出していた。
凛世は、少女αと少女βの2役のドラマに臨む。少女αは、「あ」しか発することができない少女。少女βは、「あ」だけが発せられない機械の少女。少女βは少女αに似せて作られた。少女αは、博士を慕っていたが、博士はそれに気づかず誤解している。少女αは博士に思いを伝えられない。二重の意味で伝えられない。そもそも、少女αが「会いたい」と独り言ちていた言葉を、少女αには誰か別に慕っている人間がいると博士が誤解して聞いていた。少女αが自分を愛しているのではないと思った博士は、少女αから言葉を奪う。少女αに残されたのは「あ」という音だけだった。「あ」だけでは思っていることを伝えるのは困難だ。だから二重に伝えられない。
凛世はこうした難しいドラマの役を演じる。役作りのために、プロデューサーと一緒のときは少女αのように「あ」だけで話し、ダンスレッスンやボイスレッスンのときは少女βのように「あ」だけを除いた言葉遣いをする。
GRADシナリオの中で、少女αと少女βに自分を重ねながら、凛世は自分のアイドルとしての表現力や表現に対する欲望について思い悩む。トレーナーは凛世のことを機械のようだ、と評価する。機械のようでは、まだ人の心を動かすには足りない。機械のようであるなら、自分は人の心を動かすことができないのだろうか。プロデューサーの心も?
凛世は悩む。プロデューサーは、凛世が仕事や役作りに疲れているのだろうと思って、凛世を休ませようとする。凛世は本当は休みたくない。休めばプロデューサーに会えなくなるからだ。ここで「会いたい」という言葉が誤解された少女αと凛世が重なる。
結局凛世は仕事を休むことになる。凛世はプロデューサーに会えない。凛世はプロデューサーとの連絡を絶つ。プロデューサーに会いたい。浜辺にいる凛世は、「_いたい」と吐露し、われわれ読者が誰も聞いたことがないような悲鳴を上げる。プロデューサーは凛世を心配している。やっと電話がつながった。浜辺にいるらしい。プロデューサーは凛世に会いに行く。再開する2人。思っていることを話してくれとプロデューサーは言う。
凛世は言う。「いたい」「いたかった」。この「いたかった」の意味は二重になっている。1つ目は、少女βのように「あ」の欠落した「いたかった」であり、すなわち「会いたかった」の意味。プロデューサーに会いたかった。2つ目は、文字通り「いたかった」であり、「痛かった」の意味。心の痛み。その直後「プロデューサーさまに会いたかった」と凛世は言う。だが、決勝前のコミュでプロデューサーは、浜辺の凛世について「海でひとりで発声練習しちゃう」と言っている。つまり、浜辺で言った凛世の言葉は、凛世自身の言葉とドラマの役の言葉が重ねられているのである。だから「いたかった」は本当は三重になっている。引用の問題が付きまとっている。
でも実際は、プロデューサーも浜辺でのやり取り全てを「発声練習」だとは思っていないと思う。「発声練習」だと言ったのは浜辺にいた凛世のことを思いやってフォローして言ったことではないかとも思う。でもそれでも「発声練習」だとしてしまうと、それでこぼれ落ちてしまうものも出てくる……
われわれ読者が誰も聞いたことのないような「あ」の悲鳴や「いたかった」「会いたかった」というはっきり述べられた言葉によって凛世は己の感情を吐露させたにもかかわらず、それらをプロデューサーは「発声練習」だと言っている。そして役作りという理由でプロデューサー相手に「あ」だけの会話をするというのが、凛世がいままで引用を用いるなどして自分の思いを言葉に乗せて伝えられなかったことの再現になっている。だからこれは凛世自身のテーマの再現であるのだが、その再現自体はまた同時にドラマの役作りでもあるのだ。つまり、ここにも引用の問題が凛世に付きまとっているのである。……すごすぎる。
【水色感情】以来、プロデューサーは凛世をちゃんと理解したいと思っている。レコードを聞く際に、隠喩的に凛世の心を理解したいとプロデューサーは言っていたのだが、プロデューサーはおそらくそう言った自覚はなく、凛世がそう聞き取っただけだろうと思う。【十二月短篇】では、凛世を理解したいあまりちょっと空回りしていた。それらをふまえて、GRADでははっきり凛世に向かって凛世のことを理解したいとプロデューサーは言った。ここにまたさらなる進展がある。けれども引用の問題を振り切るまではいかなかった、ということなのかもしれない。これが凛世の運命なのか。GRADをこういうシナリオにしたのについて、運営はちょっといじわるだなと思ったりもした。3年目にして変わるところと変わらないところがあるというGRAD(ATION)とはこういうことなのかとも思う。
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ところでもう一つすごいと思うのは、「あ」を除かれた機械の少女βが、少女αの発した「あいたい」を発しようとすると「_いたい」となるところである。機械の少女が「_いたい」と言う。「会いたい」だけでなく「痛い」という言葉も聞こえる。「痛み」というのは、哲学においては自己の内面の固有性や、他我問題(他人には心があるのか、他人の心をどうやって知るのか)について考えるときにほぼ必ず出てくる感覚である。機械の少女が「_いたい」と言うということは、機械(人形)の心という問題を連想させる。「あ」という音が欠落しているところに、その欠落ゆえに「痛み」という感覚の存在が立ち上がるのである。(霧子のなぞなぞの答えの「そんなのいるか」を想起させる。)
ここでは、少女βが「_いたい」と〈言っている〉というところが非常にポイントで、非常に上手いところだと思う。他人が「痛い」というのを私たちが聞くとき、私たちはたぶんその人が「痛い」と言っているだけでなく、その人には「痛み」という感覚が生じていることを疑わないだろう。ではAIが「痛い」と言ったときは? たとえばスマートスピ―カーとかSiriが「痛いです」と言ったとき、スマートスピーカーやSiriに「痛み」の感覚が現象しているのだろうか。それでは少女βが「_いたい」と言ったときは?
しかしそもそも目の前にいる人間の「痛み」を私は直接的には感じることができない。ただ「痛い」という言葉と、痛そうなふるまいが聞こえたり見えたりするだけである。人間も考えようによっては物資でできた機械である。ならば人間と機械人形は何が違う?