2022年に参加したイマーシブシアター振り返りメモ。DAZZLE、ムケイチョウコク、ego:pression、泊まれる演劇、など。
2022年最大の個人的トピックは何と言ってもイマーシブシアター、そしてDAZZLEとの出会いだった。
2022年と言わず、人生でこんなにも一つの世界にどっぷりとハマり込んだのは、子どものころの名探偵コナンとハリー・ポッターを置いて他にない、と言っても過言ではない。
どっぷり浸かった沼の底を現在進行形で徘徊しているのだし、未来の自分の傍らにも確実に在ると言いきってしまえるのだから、2022年のトピック、というよりは2022年が自分にとっての「イマーシブ元年」「DAZZLE元年」だった、と言った方が適切かもしれない。
こんな大人になってから、後先考えずに身も心も捧げられる(いや、後先はそれなりに考えている、つもり)ものに出会い、一心不乱にその世界に没入できることの幸福を、痛いほど感じた一年間だった。
と同時に、個人的な嗜好を超えて、イマーシブシアターの持つ巨大な可能性にも震撼させられた。
「イマーシブシアターは人間が作り出すエンターテイメントの未来である」という確信が、イマーシブシアターとの出会いの日以来、一貫して自分の中にある。
その未来をまさに切り拓かんとしているのが、DAZZLEであり、ムケイチョウコクである、と本気で思っている。
色々な団体がイマーシブシアターを標榜した公演を打ち始めた、イマーシブシアターの夜明けとも言えるこの時期に出会うことができた幸運、同じ時代を生きられる幸運、どう感謝したらいいのかわからない。
さて、そんなエポックメイキングな2022年に、幸運にも参加することのできた「イマーシブシアター」と名乗る公演の記録をまとめておきたい。
もっとあれもこれも行ってみたい気持ちもありつつ、諸々の条件が満たされなければ観劇返しは成立しない!ということもあり、特に興味を持ったものに絞って、調整をして観に行った。
ストーリーの核心に触れるようなネタバレは避け、どちらかというと作品の構造や特徴ですごいなあと思ったことを中心に書く。
個人的な記録ということもあるし、何年後に振り返って、そのときのイマーシブシアターたちと比べてみるのも面白そう、と思っている。
作り手でも批評家でもないただの一観客のメモですが、偉そうなことを言っていたらすみません。きっと言っている。ご寛恕ください。あと団体名は敬称略。
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1-3月
『Venus of TOKYO』(DAZZLE)
お台場・Venus Fort
6月
『MIDNIGHT MOTEL'22 “ROUGE VELOURS”』(泊まれる演劇)
京都・HOTEL SHE.
8月
『RANDOM18』(ego:pression)
横浜・ビジネスインニューシティー
8-9月
『百物語 -夜香花-』(DAZZLE)
下北沢・某所
9月
『Song For...』(ATM)
下北沢・ハーフムーンホール
10月
『反転するエンドロール』(ムケイチョウコク)
東中野・Space&Cafe ポレポレ坐
11-12月
『百物語 -夜香花-』(DAZZLE)
京都・五條会館
12月
『Dancing in the Nightmare – ユメとウツツのハザマ -』 (Dramatic Dining)
日本橋・BnA_WALL
12月
『エドワード8世からのラブレター〜マルゲリッツ・アリベールは有罪か、無罪か?〜』(Pro.Olea)
四谷・Gallery-O10/Le-Chateau
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『Venus of TOKYO』(DAZZLE)
ーーもはや何も言うことはない。伝説。レジェンド。とんでもない。
https://venus-of-tokyo.com/
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まずは何と言っても、イマーシブシアターとの出会いとなった『Venus of TOKYO』。
1/13(木)にはじめて訪れた時に受けた衝撃は計り知れない。
思わずアカウントを作って連投していた当時のツイートが脳内の混乱をよく示している。
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気がつくと「自分は何を見たんだろう」と記憶を探っている。「何を見せられた」ではなく「何を見た」と。映画も舞台も、形としては「見ている」けれど実際は「見せられている」のだが、イマーシブシアターは「見せられている」のに同時に「見ている」。よく考えてみると衝撃的なことが起こっている。
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↑何を言っているのかよくわからない
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しかし今回も情報量が多すぎて処理が追いつかねえ、、情報量の多さと所作や美術の美しさと近距離のドキドキ感みたいなものあんなに同時に処理できるわけない、人間
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↑言いたいことはわかる
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早めに沼った人々は半年以上もの間これを浴び続けてどのようにして生命力を保ってこられたのか、ということを考えると途方もない気持ちになる
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↑そのとおり
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土日行けることになった…嬉しい……しかしこのペースだとあっという間に破産するな
まあいいか
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↑
目を覚ませ
DAZZLEが作り出す濃密な世界、深まり続ける謎、至近で至高のダンスパフォーマンス、美しい舞台美術の山、毎夜の双方向オンライン配信という暴挙、そのすべてにズブズブとはまり、虜になった。こりゃとんでもない。とんでもないものに出会ってしまった。
1-3月のVoT以外の記憶がほとんどなく、日々生活をしながらも頭はVoTに支配されていた。
あのVOIDという場所の魅力の全貌を語り尽くすことは到底できない。本当に、言葉には余りまくる。
ただ様々な界隈から訪れたリピーターの多さ、現地やオンライン配信で見かける見知った顔の数からだけでも容易に推測できる、その「リピート回数の異常さ」が、人を惹きつけてやまない圧倒的な魅力のほどを端的に示している。
会場であるVenus Fortの閉館、大道具小道具の「リアルオークション」による「形見分け」によって、あの世界が完全に幕を閉じ、手の届かないところへ行ってしまった、という意味においても、【そしてVoTは伝説となった】。
Venus of TOKYOのこの殿堂入り的な存在感は、自分の中では今後も揺らぐことはないかもしれない。
VoTに出会った時には、イマーシブシアターという言葉さえも知らなかったのが、参加してきた公演を今振り返ってみると、大きく2つのタイプに分けられるように思う。
【A】演劇(リアルな言葉のやりとり)中心のもの
【B】ダンス(や身体表現)が中心のもの
バーバルとノンバーバル、と言ってもいいのかもしれないが、発話の有無なのか、言語表現全般の有無なのか、厳密な定義をよく知らないので、便宜上A、Bで分けておく。
もちろん互いにそれぞれの要素を含んではいて、一概には言えないものの、少なくとも母体となっている団体の性格によって、なんとなくどちらかに分けることができそう。
どうしてわざわざ型にはめるようなことをするのかというと、この2つで参加者が得る体験の性質が大きく異なると感じたから。分けること自体に意味はないけれど、より深く理解したり楽しさを言語化したりするための有効な補助線になると思う。
「ダンスカンパニー」DAZZLEのイマーシブシアターでは、演者も観客も基本的に声を発することはない。ダンスを中心に、演者は身体で表現し、観客も無言のままにその間を動く。その意味では【B】に近い。
※ただ大きな特徴として、「吹き込まれた台詞」がある。事前に吹き込まれた台詞が各所で流れ、それに合わせて演者が動く。吹き込まれた台詞は、物語をわかりやすく伝える手段であると同時に、緻密に設計されたタイムラインと動線の織物の目を整えるキューの役割を果たしている。
生声ではないとはいえ、言葉が多用されるという意味では、厳密には「ノンバーバル」ではないのかもしれない。でもやっぱり基本はダンスをベースとしているのだと思う。
DAZZLE以上に【B】の色を強く感じたのが、8月に参加した『RANDOM18』(ego:pression)だった。
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『RANDOM18』(ego:pression)
ーーカプセルという「入口」
ーー登場人物の多さと愛しさ
ーー言葉なき感情大爆発
https://www.egopression.com/latestinformation
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廃業したカプセルホテルといういかにもワクワクする空間。しかも参加した当日は台風が接近し、大雨と強風の夜。立ち入り禁止のエリアでは大量の雨漏りも発生していて、否が上にも気持ちが高まった。
そして一人一人がカプセルの中でスタンバイし、小さなモニターから注意事項と開演のアナウンスが流れるという演出に、ワクワクはMAXに達した。
物語の世界に没入するにあたって、入口というのはとても重要な部分だと思う。
当然ながら、誰もが外界の日常からシームレスに会場に入ってくるわけで、嫌でも外の空気を身にまとっている。それが剥ぎ取られたとき、深い没入が生まれる。
『RANDOM18』では、演者も含め全員が、一度カプセルの中に入る。この瞬間に、外界との接続が決定的に断ち切られる。外界の空気がリセットされる。
だからこそ、開演しておそるおそるカプセルの外に出たとき、もうさっきとは違う、知らない時空に迷い込んでしまったような感覚があった。そこからはもう、一気に世界へとダイブできてしまった。
この入口部分の演出が、参加したイマーシブシアターの中では後述の泊まれる演劇と並んで一番好きだった。
物語の設定も好み(割愛)だった。
それから特筆すべきは登場人物の多さ。タイトル通り、18人!
VoTはスタッフや看護師を入れて17人(監視者を入れたら18人)?だったけれど、完全にそれぞれ別のストーリーと名前を持つ人間が18人、それでホテル丸々一棟、完全自由回遊型、というのは相当なスケール。
一度しか参加できなかったので、全体を把握するのは不可能と思い、直感で一人の物語を追った。
登場人物は完全に一人で行動するということは少なく、メンバーを入れ替えながら何人かで行動するシーンが中心、それから全員が集合して踊るシーン(これが本当に圧巻で、震えた)があるなど、一人を追っていても他の17人のことも何となく知れるような設計がされていてありがたかった。
エンディングで全員が集合したとき、ほとんど見ていない人がいるにもかかわらず、全員のことを好きで応援したい気持ちに自然となっていたのには自分でも驚いた。
舞台では単純に「出番が少ない」登場人物は、余程インパクトのあるキャラでない限り、こうも印象に残らない。
自分で追う/追わないの選択をして、なおも知りたい、知りたかった、という渇望や切なさがあるからこそ、見ることのできた僅かなシーンが深く刻まれる。
だからこそ、みんなのことが愛おしかったのだと思う。
公演中は、演者(マスクをしていない)、観客とも完全に無言で、一言も声を発さずに(たぶん)、吹き込み音声も流れずに、ダンスとジェスチャーと表情だけで物語が進んでいく。
言葉が一切ないから物語を把握するのはさぞ難しい、と思いきや、意外とわかる。伝わる。演者のうまさもあるし、観客側の集中も物凄い。壮大なパントマイムを見ている感覚に近い。
でもそれだけではなくて、ダンスは超かっこいいし、表情からは感情がダダ漏れだし、一人を追っているだけでいろいろな感情が溢れた。言葉なしでここまで跳べるんだな、と改めて身体表現の凄さを目の当たりにした。
公式がネタバレOKのDiscordを立てているのも面白かった。
「謎解き」ならまだしも、謎が謎として設けられているわけでもないのに、見終わった後も知りたいことが溢れる。自分が切り取れた景色や自分なりの解釈を共有し合う。
そのための場を公式が用意して、参加者同士の緩やかな交流の中で、スレッドが立ったりしながら形ができていく。幸せな関係。
(参加当時の感想、追った人物のことを中心に、ネタバレあり)
https://fusetter.com/tw/tHQ3Pen0
【B】の極北がRANDOM18だったとすれば、【A】で一番印象に残っているのは『反転するエンドロール』(ムケイチョウコク)。
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『反転するエンドロール』(ムケイチョウコク)
ーーインプロ(即興)が覆い尽くす予測不能な物語
ーーオープン、フラット、人への信頼
ーー人間を救うかもしれないイマーシブ演劇
https://note.com/mukeichoukoku/n/n5c205153bc69
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VoTとRANDOM18で、やっぱり自分は登場人物も観客も喋らない形式が好きだな〜と何となく思っていたので、ムケイチョウコクの名前は知りつつも、演者も観客も喋るのか……喋るのが苦手な自分にはちょっと合わないかも、とやや敬遠していた。
日程的にも難しかったのだけれど、たまたま大千穐楽の日が空いてそこにキャンセルチケットが出ていたので、滑り込んだ。
ああ、すべては神の采配だったのだ。
「登場人物チケット」と「傍観者チケット」に分かれてそれぞれ異なる体験ができるシステム。
登場人物は開演前に設定資料を渡されていて、それをもとに即興で問いかけに反応したり、演技したりする。どう答えるかによってその後の展開やエンドが変わる、重要な問いかけもある。
黒いケープを身にまとった「空気」である傍観者は、そうでありながら物語世界に深みを持たせる重要な役割を担っている。
世界が「反転」していくクライマックスは圧巻で、現実と虚構の汽水域に「人間」が息づく素敵な時間だった。
再演もあるとかないとか…ということで、とっても楽しみ。次は登場人物で参加したい。
この公演、そして公演後に参加したスペースなどを通して何より衝撃を受けたのは、「反転するエンドロール」という作品、そしてムケイチョウコクというカンパニー自体が、「即興」を核として「即興」に駆動されているということ。
そもそも、反転エンドにはちゃんとした台本はないらしい。もちろんある程度設定やタイムラインや展開が決まってはいるものの、そこから先はもう演者それぞれの即興芝居に任されているのだと、終演後に開催された「打ち上げスペース」で知って驚いた。
「インプロ演劇」という独自のジャンルがあることも、今回初めて知った。
インプロの舞台も別でいくつか観に行ったのだけれど、お客さんからいくつかの言葉をもらって、それを起点にして展開していく形式もあったりして、これがめちゃくちゃに面白い。
物語がどう進んでいくのか誰にもわからない緊張感、思わぬつながりや思わず言葉の配置から生まれる面白さ、絶妙に言葉をつないでいく演者の技量や経験、そのすべてが独特のグルーヴ感のようなものを生み出して、その空間を包み込む。
物語の可能性が無限に開かれていて、真っ白な紙にその場で地図が描かれていくような「生み」の快感をシェアできるのがたまらない。
このワクワクが詰まったインプロが、同時多発的に繰り広げられているのがムケイチョウコクのイマーシブシアターだ、と言っても過言ではないと思う。
なんて贅沢なのだろうか。
そしてさらに驚くべきは、そこに一般の観客が半分も混ざっていること。
いや、台本があるならまだしも、単線のタイムラインならまだしも、台本もなくて、同時多発で、縦のラインを合わせなくてはいけなくて、かつエンドまで分岐するのに、一般人を半分混ぜ込むなんて、どう考えても危ない橋だ。叩いて渡ったらすぐに崩れ落ちてしまいかねない石橋だ。登場人物チケットの参加者の動き如何によっては収拾がつかなくなる可能性すらある。
しかも登場人物チケットの人の配役は、当日開演前にその場でアイスブレイクの応答をするなどしながら割り振っていたらしい。
でもムケイチョウコクはそれをやり、見事に成功していた。
成功していたというのは、見ていてそもそも台本がないことさえわからなかったし、しばらくは登場人物チケットの人と本当の演者の見分けさえあまりつかなかった。
ごく自然に言葉が交わされ、時が流れ、物語が展開していた。そして終演後に、本来の演者さんと同じくらい、輝いていた登場人物チケットの人たちにも拍手を送りたくなった。
これができるのは、一つには演者一人一人の技術、そして作り手から参加者に向けられた絶大な信頼があったからだと思う。中途半端に怖じずに丸ごとボールを投げた。だからしっかりとした重みで投げ返されていたのだと思った。
同じことは公演外でも感じた。
先に言及した「打ち上げスペース」は、ネタバレOK裏話込みでムケイチョウコクの3人や演者の人たちが入れ替わりながらお話ししたり質問に答えたりという場だったのだけれど、いやめちゃくちゃ面白かったのです。
こうやってごく近い距離で赤裸々に公演のことを振り返ってくれること自体が有難いし、お酒も入って途中から「イマーシブとは」「演劇とは」という大きな話になっていって、やや呂律が回らなくなってきた人もいながら、深夜3時まで5時間もの間続いた。本当にみなさんの打ち上げに参加しているみたいで楽しかった。
「打ち上げイマーシブシアター」に傍観者チケットで参加しているのかと思った。
その後に作られたムケイチョウコクのLINEオープンチャットでは、未来のためのブレストや未確定の構想をシェアしてもらえて、時には参加者側に制作というか構想段階からアイデア出しや意見を募ることもあるという稀有なプラットフォームができあがっている。
匿名の一般人をここまでオープンかつフラットに巻き込んでくれるのか、というのは本当に驚きで、まだ結成1年というのも信じられない。これからどうなっていくのかワクワクが止まらない。
……公演の振り返りというところからだいぶ離れてしまったけれど、実際のところ話は大きく繋がっている。
ムケイチョウコクの作品は、さっき書いたようにたぶんベースが徹底してインプロで、オープンかつフラット。それは制作や作品外の活動でも一貫したスタンスになっている(のが、追ってたったの数ヶ月でよくわかった)。
「台本や地図がアプリオリに無い」ということは、「誰でも参加可能」であることを意味する。
そこに前向きさや攻めの姿勢、そしと「人間への根本的な信頼」が加われば、無敵になる。
ムケイチョウコクに対して、反転エンドとこの数ヶ月で感じている物凄い可能性というのはこのあたりが揃っていることにある気がしている。
さらに言うと、これが他でもなくイマーシブシアターの団体であるということがすごい。
イマーシブ、没入はすなわち参加。実際に五感を伴って参加することで、その世界の住人になる。
演劇の魅力は「誰にでもなれること」とよく言うけれど、オープンでフラットなムケイチョウコクのやっているイマーシブ演劇は「誰もが誰にでもなれる」ということになる。しかも目の前に血の通った他人がいる状態で。
これって物凄い可能性で、『反転エンド』ではまさに傍観者としてそれを目の当たりにした。
名前も知らない初対面の一般人が、物語の中の誰かになってそこに存在していて、輝いていた。その人が普段どういう喋り方をするのかも知らないのに。
打ち上げスペースでも話題に出ていたけれど、VRにメタバースと仮想的な空間での体験や交流が技術面でも社会面でも実装されつつある一方、生身の人間と人間、その境界を感じられる経験みたいなものがますます希薄になっていくであろうこれからの社会。
イマーシブシアター自体がその未来に強烈に宣戦布告するもう一つの未来だと思うし、とりわけムケイチョウコクのつくるイマーシブ演劇は、「人々を救う」イマーシブシアターになると思う。
近いうちに子どもを対象にした作品を作りたいと言っていたのも、すごくよくわかる。
だいぶムケイチョウコクの話が長くなってきてしまった(自分が観測したムケイチョウコクのすごさはいくらでも語れてしまう。作品の持つ性格というか、理念というか、テーマみたいなものは諸団体の中で一番好き。あとみんな自己肯定感が爆高なのも大好きです)。
【A】のタイプのイマーシブシアターの持つ大きな可能性を、ムケイチョウコクからは感じるということ。【B】寄りのDAZZLEが生み出す、超がつくほど緻密で繊細で、美しく、謎に包まれていてディープで、という作品とはまさに真逆、好対照をなしていて、両方ともバチバチに明るい未来だ、という話。両者の対比が本当に面白い。
さて、同じく【A】のタイプでは、泊まれる演劇にも今年初めて参加した。
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『MIDNIGHT MOTEL'22 “ROUGE VELOURS”』(泊まれる演劇)
ーーいつのまにか始まっている物語
ーープライベート空間に立ち入る緊迫感
ーー泊まれる幸せ、極上の余韻
https://midnightmotel22.com/
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まず私語OKで、演者や他の参加者との会話がそこここに発生する、というのが他の作品にはなかった特徴。
台本がないインプロ的な部分もある、という意味では反転エンドに近いけれど、定められた登場人物の一人を演じる反転エンドに対して、参加者はあくまで無名の、というか本名の宿泊客としての、自分自身そのものだという点は大きな違い。
宿泊客という点では現実世界でも物語世界でも立場が同じなので、スッと没入できる。
コンシェルジュさんも演者で、本当にエントランスで案内してくれて、実はその時から物語は始まっている。
そして扉を開けた瞬間から、中の世界はどんどん動き出している、という演出に思わず心の中で感嘆の叫び声を上げたのをよく覚えている。
泊まれる演劇はさっきのRANDOM18と同じくらい「入口」の演出が良かった。ありがとうありがとう、と創造主に祈りたいくらい。
それから何と言っても、自分が実際に泊まる、本物のホテルまるまる一棟、というその舞台空間。
ホテルの部屋って極めてプライベートな空間で、他人の部屋に足を踏み入れること自体が相当な緊張感を生む。緊張感をなんとか飲み下しながら部屋に入り、おそるおそる手探りして、その登場人物のことを知っていく、という密やかな体験は、何とも言えない、ある意味では「甘美」なものだったように思う。
部屋ごとの香りの演出も大好きで、鼻から脳がダイレクトに狙撃されるような幸せがあった。
そのいくつもの部屋が、実際に自分たちが泊まる部屋の合間合間に散りばめられていて、終演後も(鍵はかけられるが)そこに在り続ける、という事実。
あの人たちはみんなそれぞれ部屋に戻って、あの部屋で過ごしているのだろうか。
そんな余韻というには濃すぎる思いとともに、興奮冷めやらぬ頭でベッドに入る。現実と虚構の境界の淵で、そのまま眠りにつく。あまりに得難い体験。
あとは「屋上」が記憶に残っている。
柔らかな照明に生ぬるい夜風、室外機の音とハープの音色。
子ども時代のキャンプ終盤の、キャンプファイヤーのような、思い出すと胸がきゅうっとなる時間。
エンディングも含め、「ささやかな多幸感」(語義矛盾?)という言葉が似合うような温かい後味の公演だった。
朝まで続く余韻に、グッズであの世界の一部を持ち帰ることができる、後日あの世界からレポートが届く、というのも、イマーシブシアター参加後の喪失感を埋めてくれる嬉しい演出だった。
2023年の泊まれる演劇も、とても楽しみ。
年度末に仕事を休む罪悪感などきっとすぐに吹き飛ばしてもらえるだろう。いや、元々そんなにないけれど。
時系列的に行けば次は8-9月の『百物語 -夜香花-』(DAZZLE)下北沢公演。
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『百物語 -夜香花-』(DAZZLE)下北沢公演
ーー場所に縛られないイマーシブシアター
ーー前後半の劇的転換と共犯関係による没入
ーー「見立て」の美学と究極の「語り」
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百物語のことは別でさんざん書いているのでなるべく簡潔に。
VoTが2フロアで秘密の小部屋まである入り組んだ構造、元レストランというストーリーの一部と呼応する物語を持つ場所だったのに対して、百物語下北沢の会場となった某所は何もないキューブ。
公演が終わってから訪れたとき、本当に何もない空間で驚いた。ここが、百物語の儀式が行われる妖しい屋敷だったとはとても思えなかったが、コンクリートの床に残るあるマークの跡が、たしかにその場所であることを示していた。
DAZZLEの皆さんもブログなどで書いていたように、何もない真四角の空間ににこれほどの世界観を作り上げつつ、かつ自由回遊を伴うイマーシブシアターができたというのは、つまり場所に縛られずどこでも上演可能な作品が作られたということ。
「サイトスペシフィック」で「同時多発」が基本になるイマーシブシアターと、あの物語性も複雑な空間構造もないキューブはむしろ水と油のような関係のはずで、それに真っ向から挑んで覆してしまったのが本当にすごい。
まだ出会って1年なのに、DAZZLEのそういう壁をどんどん突き破っていくところに圧倒されっぱなし。
それから個人的には、前半の儀式部分にこの作品の真髄と、イマーシブシアターの新境地を感じた。
空間自体が広くはなく、使える舞台装置も限られている中で物語を進める必要がある。その制約の中で、全く別個の物語が次々語られる。
語られる、というのは、まさに百物語の儀式として語り部を中心に「擬似的に演じられる」ということ。その意味で語り部を含めた登場人物たちと客は共犯関係にある。
後半に向けてこの構造がある劇的な転換を見せるのだけれど、それはさておき、前半部分の「皆で演じる」というところの作り込みが凄まじい。
一つの舞台機構を様々に利用し、かつ作品の核とも言える「光とカゲ」をふんだんに盛り込んだ演出。そこには「見立て」の美学が通底している。
この演出によって、一人の言わばナレーターが淡々と語り続けていても全く退屈しないどころか、どんどん世界観の深みに引きずり込まれていく。先述の共犯関係があるから違和感も生じない。こういう没入があり得るのか、と衝撃だった。
舞台空間の制約、イマーシブとの相性の悪さを逆手に取って「見立て」の槍で一点突破する。美しい以外の何物でもない。DAZZLEのイマーシブにはあらゆる階層に美しさがあると思う。
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『Song For...』(ATM)
ーーダンスという正解のない抽象表現
ーー人の内面世界への没入
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続いて9月。VoTの木曜日で大変お世話になったASUKAさんのグループが主催するイマーシブシアターに参加した。
開催に先立って行っていたクラウドファンディングのプロジェクト説明がすごく良くって、
生のダンスというものをもっと気軽に楽しんでもらいたい
→でもダンスは抽象的だから、一般の人からは「わからない」と距離を置かれがち
→イマーシブシアターという形式でなら、それを逆手にとれる。一人一人が正解を求めない楽しみ方でダンスが表す繊細な感情を間近に感じ取ってもらえる、ダンスの新しい可能性を引き出せる
というもの。
https://camp-fire.jp/projects/view/607964
これは【B】の形式でイマーシブシアターが上演されている必然性のようなものを端的に表していると思った。
実際、参加してみて、感情表現としてのダンスのすごさを目の当たりにした。事前の情報では男女の関係がテーマっぽくて、もしかしたら楽しめないかも、と思っていたけれど、表面的な関係というよりも個人の内面部分に丁寧にフォーカスしてくれていたので全然楽しめた。
ダンスはもちろんピアノや照明、美術など、クラウドファンディングでのコンセプト通りアート的にも楽しめて、あえて抽象的な表現が多く使われたりしていて、まるで「人の内面世界に没入している」ようにさえ感じた。
実在の楽曲が重要なアイテムとして使われていたのも印象的だった。
発話がなくダンスと身体表現中心で、人の内面、感情に深く寄り添えるという意味では『RANDOM18』に近く、狭い空間を目一杯に使って緻密に設計されており、場所を選ばないという意味では『百物語 -夜香花-』にも通ずるものがあると思った。
細かいところでは、荷物を預かってもらえたのがありがたかったです。
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『百物語 -夜香花-』(DAZZLE)京都公演
ーー場所の持つ圧倒的な力
ーー文化とダイレクトに接続される可能性
ーー遠征というイマーシブ
https://a100stories.com/
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11-12月の『百物語 -夜香花-』再演@京都・五條会館。こちらもさんざん書いたので簡潔に。
下北沢公演と同じ作品でありながら、全く異なる体験。
作品世界にこれでもかというくらいマッチした歴史ある建物に周辺の静かな街並み、京都という「魔界都市」それ自体、初冬の冷え冷えとした空気。
下北沢公演では両手両足に空間的制約という重しをつけていたとすれば、それがすべて一気に解放されて、DAZZLEのイマーシブシアターの圧倒的な迫力を見せつけられた、という感じ。
建物に足を踏み入れた瞬間から背筋がゾクゾクしっぱなしで、知っている物語のはずなのに怖くて怖くて常に鳥肌が立っていた。
やっぱりイマーシブシアターにおいて「場所」のもつ力には物凄いものがあるんだなあと再実感した。「Touch the Dark」や「SHELTER」を体験できなかったことがつくづく悔やまれる。
この公演を京都市長が見に来て、それをFacebookで発信してくれるという話題もあった。
そこまで話を通していたことへの驚きもさることながら、「場所」とイマーシブシアター作品が不可分に結びつくことによって、歴史の積み重なった「文化」とダイレクトに接続される可能性があるんだと気づいて戦慄した。
バーチャルなコンテンツだったら、いくら優れた作品だったとしてもなかなかこうはならないだろうと思う。イマーシブシアターがその必須条件として「場所」をリスペクトし、場所の持つ力を最大限に利用しているからこそ、この接続が起こる。
作品次第で、色々な場所で、こういう事態が起こりうる。
文化としてのイマーシブシアター。可能性は限りない。
下北沢から2ヶ月しかたっていないのに新しい要素や演出の変化がいくつも加えられていたことにも、その妥協のなさに感動と感謝が絶えない。
あとは、DAZZLEのイマーシブシアターとしては初めての地方公演ということで、関東民にとっては遠征という形になった。
公演前後や公演間の過ごし方、楽しみ方も様々。他の人の過ごし方をSNSで知りながら、京都という街の中でイマーシブシアターに参加して各々のルートを辿っているというか、全部含めて京都への没入というか、一つの体験のパッケージだったような感覚もあった。とても贅沢な体験だった。
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『Dancing in the Nightmare – ユメとウツツのハザマ -』 (Dramatic Dining)
ーー人ならざるキャラクターたち
ーーキャラ造形の強度
https://www.dramaticdiningasakusa.com/
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これもまた、ホテルが舞台のイマーシブシアター。ただ普通のホテルではなく、アートホテルで、各部屋の内装がそれぞれ違っていて綺麗。
物語は「浦島太郎」がモチーフで、「日本では珍しい」「本格的な誘導型イマーシブシアターを追求した作品」ということで、自由時間のない完全誘導型。入場時の割り振りによって体験できるルートは15通りあるらしい。自分も2回参加して、同じシーンはほとんど見なかった。背景がほとんどわからないままの登場人物もいた。
誘導型ではあるものの、ダンスが中心で発話はほとんどない、【B】のタイプ。
この作品では、キャラ造形と一人一人のパフォーマンスの強度が特に印象に残った。
浦島太郎ということで、多くの登場人物が人ではない。その「人ではない」感じが、強烈に個性的な衣装やメイク、そして表情と身体の動かし方からビンビンに伝わってきた。海亀は本当に海亀に見えたし、海神という抽象的なキャラも本当に、ああこれが海神なんだな、と自然に腑に落ちた。
イマーシブシアターってたぶん普通の人間を登場人物にするのが、違和感のなさという意味では一番自然に没入させやすいのではないかと思う。
普通の人間なのだけど、ちょっと住んでいる世界をずらしたり、設定をいじったり、という形。これまで挙げてきた作品たちも、基本はこの形だった。
逆に人ではない者がいると、そこには人それぞれのイメージの違いや、存在としての違和感のようなものが介入してくるので、没入を損なうリスクがあるのではないか、と推測する。
でもこの作品では、真正面からそれをやっていた。誰もが知っているおとぎ話のキャラクターたちを、独自のアレンジを加えながら一段抽象化したうえで、再度リアルに落とし込んで存在させている、というような印象を受けた。
これに演者一人一人のパフォーマンスの強度が加わって、物凄い強さを持ってそれぞれが存在していた。
この作品はこれまでに挙げた【B】タイプの作品の中で、一番観客と演者の距離が近かったと思う。ホテルの一室で、セミダブルのベッドが一つしかないような部屋でも踊ってしまうのだから、参加していなくてもその近さは想像できると思う。
まつ毛の一本一本が見えるほどのその近さにも関わらず、表情や動きは全くブレず、ある種ロボットのように正確に、でも臨機応変に柔らかに、ど迫力のパフォーマンスが繰り広げられていた。たぶん一人一人業界でも第一級のスキルや経験をお持ちの方ばかりだったのだと思う。
建物の階層構造を使って海の深さを表現する演出も印象的で、まさに「ユメとウツツ」の狭間にいるような幻想的な時間だった。
あとこの公演も荷物と上着を預かってくれた。
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『エドワード8世からのラブレター〜マルゲリッツ・アリベールは有罪か、無罪か?〜』(Pro.Olea)
ーー撮影スタジオという場所
ーー同時多発でない形式
ーー裁判とイマーシブシアター
https://edward8loveletter.pro-olea.com/?_fsi=RPYmD0Pj
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2022年最後に参加したイマーシブシアターが、こちら。
この公演が最後だったのは、来年に向けて示唆的というか、個人的に勉強になった。
というのは、色々な意味で「自分には合わなかった」から。
会場は四谷のLe-Chateauという「豪華絢爛な宮殿風新築撮影スタジオ」(会場HP)。内装や調度品がとっても煌びやかで、これほどの空間をイマーシブシアター用に使える場所はなかなかないだろうし、一から作るのも難しいだろう。
撮影スタジオ、というのは、なるほど、と思った。元々世界観が作り込まれている空間だから、世界観さえ合致すればイマーシブにはもってこいだ。スタジオが使えるなら可能性が広がりそう。
フロアは主に大部屋2つを行き来する形。
客は「裁判に参加する陪審員」という設定で、一つの部屋で裁判が行われ、もう一つの部屋で事件の現場検証が行われる。
この形、「誘導型」でも「自由回遊型」でもある。部屋間の移動は誘導で、部屋内のどこから見るかは自由。
ただ、「同時多発」ではなく、一つの劇が単線で進行していくだけなので、誘導は全員一緒の舞台転換のようなもの。また、どこから見ても見られる出来事は変わらないので、自分が行った回では結局は自由に移動する人もほとんどいなかった。
陪審員の動きを促すアドリブが入っていて面白かったのだけど、それでもやっぱりあの緊張感の中では途中で動きにくいし、そのインセンティブもなかった。
舞台上でしか見られない俳優の演技を間近で見ることができる、ということに大きな魅力を感じる人には刺さる形式だと思う。特に表情をどの角度から見るか、というのは、いくらでもリピートして追求できるかもしれない。
ただ自分にはあまり刺さらなかった。
それはやっぱり、これまでいくつか参加してきた中でイマーシブシアターの魅力として「自分の選択で物語を切り取れること」「一人の内面を深く追えること」「選べなかったために知り得なかった物語が存在すること」あたりを想定してしまっていたからだと思う。そのためには「同時多発」は最低条件らしい、とこれを見終えて気づいた。
裁判という形式は、イマーシブシアターには合っていると思う。
それこそ、各キャラクターがそれぞれ別行動をしていて、陪審員はそれぞれに見られた景色と見られなかった景色があって、という中で最後に判決を下す、という形なら個人的にはより面白そう。
自分が見られた景色の裏側を想像しながら、それでも判決を下さなければならない痛み(きっとそうなのかもしれないけど、それでもこうするしかない…)、
自分が見られた景色が考慮に入れられない判決が出てしまった場合の痛み(そうじゃない、そうじゃないんだ…)。いろんな感情が渦巻きそう。
あとは「高級娼婦の殺人を裁く」という事前のイントロダクション的情報である程度予想して行った通り、脚本が言葉遣いを含めややホモソーシャルみの強いもので、自分には合わなかった、というのもあるが、これは深入りしないでおく。
ただ強調しておきたいのは、あくまで自分に合わなかっただけということ。
五回以上リピートしていた人もいるようだったし、好きな人には好きなはず。イマーシブシアターというものの幅の広さと可能性を改めて感じた。
そしてそもそも一介の観客としてはイマーシブシアター作品を作り出すという行為には尊敬しかない。
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以上、それぞれの作品について語りたいことはまだ山ほどある、と思いつつ、簡潔にまとめたつもりがとても長くなってしまった。
それもそのはず、振り返りながら、どの作品も、細部に至るまで鮮明に記憶が残っていたことに驚いた。視覚の記憶だけでなく、感覚や感情までありありと思い出せる。
あの場所に戻りたい、あの人に会いたい、でも戻れない、という痛みまでがセットで蘇る。
世界に五体を投入して、すべての感覚で物語を体験したからこその濃さ。
2023年はどんな世界で生きられるのか、どんな人たちと出会えるのか、楽しみしかない。
財政面に関しては、不安しかない。