カルメン、カレンダー、書かれたもの:【十二月短篇】杜野凛世コミュについて感想とメモ
初出:2019年12月19日Privatterに投稿
◆カルメン
最初に公開された凛世のムービーは、花火が打ちあがる屋上に赤いドレスを着飾った凛世がいて、去っていくプロデューサーを背に「カルメン」とつぶやくものだった。
カルメンといえばビゼー(原作はメリメ)の有名なオペラで、ファムファタルの女性と彼女に恋した男たちの物語ということが知られている(私が知っていたのはそのくらい)。移り気な女性で、カルメンは自分を愛したホセの元を去ってしまう。ここから、凛世のムービーは、去っていく方のプロデューサーがカルメンなのではないか、という見方が生まれた。あのムービーだけを見るならばそう読み取ることができる。
【十二月短篇】3番目のコミュ「紅の踊り子の主題・変」を実際に見てみると、プロデューサーが仕事のために凛世のもとを去って行くとき、凛世は「貴女なら引き留めたのでしょうか」と言う。「貴女」とはここではカルメンのことだ。するとここでは去っていくプロデューサーの方ではなく、凛世の方がカルメンの立場にあることが分かる。
コミュを見終わった後に、せっかくなので実際にオペラのカルメンを見てみようと思って映像で見てみたら、この「紅の踊り子の主題・変」について気づいたことが一つあった。(https://tsvocalschool.com/classic/carmen/ このサイトがカルメンのあらすじについてウィキペディアよりも詳しく紹介してくれていて、参考になった。)
取り上げたいのは、カルメンの第2幕の後半。捕まったカルメンを逃がしたために逮捕、投獄された衛兵のホセが、出所してカルメンに会いに来たところ。カルメンは会いに来たホセに助けてくれたことへのお礼の踊りを披露する。だがその最中にラッパが鳴り響き、ホセは帰らなければならないと言う。帰らなければならないと言ったホセにカルメンは怒る。そこでホセは、カルメンに愛の歌を歌う。だがそんな情熱的な歌に対してカルメンは、「違う、あんたは私を愛していない」とはねのけてしまうのだ。
ここでポイントとなるのは、カルメンは「私はあんたを愛していない」と答えたのではなく、「あんたは私を愛していない」と相手の(自分への)愛を否定したということである。ホセは「愛している」と何度も言い、歌っているのに、そのホセ自身の想いをまるで嘘であるかのように否定する。この否定は、「私はあんたを愛していない」と答えるよりも、重い否定である。カルメンは、ホセの「愛している」という言葉を信じることができない。
おそらくここでのカルメンの立場が、屋上での凛世に重なってくる。「貴女なら引き留めたのでしょうか」。このとき凛世は去っていくプロデューサーの心の遠さを感じていたのかもしれない。ホセの心を疑ったカルメンのように。
けれど、すぐにプロデューサーは凛世にメッセージを送る。「たまやー。見えてるか?」。それを見た凛世が漏らす、「なんと…… ばかな凛世……」「お引き留めせずとも…… ひとつ空のもとに…… 貴方さまは……――」。まるで、カルメンのように相手の心に遠さを感じてしまった自分を諫めるかのように。
愛の問題には、相手を愛し続けることができるかという問題のほかに、相手の愛を受け止めることができるかという問題がある。相手がどんなに「愛してるよ」と言ってくれたとしても、それを信じて受け止めることができないことがあるからだ。これではその愛はなかなかうまくいかないに違いない。
カルメンはホセを信じることができなかった。凛世は、もしかすると一瞬このカルメンの立場に立ってしまったのではないかと思う。けれどその後のプロデューサーからのメッセージで気がついたのだ。プロデューサーの心は遠いところにあるわけではない、と。プロデューサーの凛世を思う思いを信じることが、たぶん凛世はできたのだと思う。
◆カレンダー
4番目のコミュ「歳末些事」は、事務所の片づけをする凛世とプロデューサーの模様が描かれる掌編のようなコミュだが、とても味わい深い。2人は捨てるものと残しておくものを選んでいたのだが、そこで日めくりカレンダーを見つける。12月に見つけたカレンダー、それはもはや無用のものに違いない。けれど2人がそこから想いを馳せたのは、積み重ねてきた時間だった。
「考える間に破ろう」の選択肢を選ぶと、すぐにプロデューサーはカレンダーを破り始める。破られたカレンダーは古紙に出すとプロデューサーは言ったのだが、凛世はそれを大事そうに取っておくことにした。
「この日は…… プロデューサーさまと……初めてお会いした日……」「この日は…… プロデューサーさまと……即席麺を食した日……」。それを聞いたプロデューサーは「……ありがとな。俺もそれ、全部大事な日だって思う」と答える。
2人はいろんなことを経験して、時間を積み重ねてきた。いわゆるサザエさん時空であるアイマスの世界の中で、時間の積み重ねを感じさせるのに年末というイベントを持ってきた演出が上手い。たとえば5月頃にこういうイベントをすることはできない(いつの間に時間を重ねてきたの?去年?みたいになってしまう)。
また、時間を積み重ねることは、凛世の重要なテーマの一つである。
【微熱風鈴】「とことはに」では、風鈴をテーマにしてガラスが長い時間をかけて流れているという話をしたし、風鈴の柄である桔梗の花言葉は「久遠の愛」であった。【凛世花伝】のTRUEコミュ「序破急 -jo ha kyu-」では、短歌を引用しながら「言葉とは強いもの」「想いはそれに乗って時を超える」と語られる。凛世の想いが不変であることを、時を超えて残る(人の一生よりも長く残る)言葉に託していると言える。
ところで【十二月短篇】2番目のコミュ「夜、と呼べばはいと言ふ」の選択肢で、くしゃみをするものがあるが、【想ひいろは】「雨宿り」でもくしゃみをするエピソードがあった。【想ひいろは】ではくしゃみをした凛世にプロデューサーが上着を貸そうとするのだが、「プロデューサーさまに、ご迷惑はかけられません」と断っているのに対し、【十二月短篇】では「風邪を引いたら…… 貴方さまのせいです……」と独り言を言っていて、プロデューサーに対する想いは変わらないとしても、距離感が変化していることがうかがえる。かわいい。もっと甘えていいんだよ。
こうやって【十二月短篇】で時間の積み重ねを感じさせるコミュがカルメンという固有名詞とともに提示されると、移り気なカルメンに対する凛世の想いの不変さということを考えたくなってしまう。あるいは、こうやってカルメンという名前が登場することによって、凛世自身の意思とは裏腹に、凛世のプロデューサーへの思いもまた永遠ではないということを暗示するかのようでもある。
◆書かれたもの
TRUEコミュの「紅の踊り子の主題・跋」は、年賀状に関するエピソ―ドである。すでに印刷されている「明けましておめでとうございます」の他に、手書きで一言添えるならなんて書けばいいか、いろいろ考えるのだが定型文みたいになってしまう。そんな話をする。凛世は年賀状は全て手書きで書くと答えた。
コミュの後半、凛世がプロデューサー宛ての年賀状を書いているところが描かれる。「プロデューサーさま。大変お世話になっております。来年も凛世をよろしくお願いいたします」。「定型文のようになってしまいました」と凛世は笑う。だがこの後が重要だ。
「けれど…… 足すものもなく…… 引くものもなく…… 心のまま……」
定型文のようになってしまうというところが、凛世のもう一つのテーマである引用の問題と重なってくることがうかがえる。年賀状に添える言葉が定型文みたくなってしまうのをプロデューサーが避けようとしたのは、定型文では特別な相手への特別な心を伝えることができないからだ。定型文はよくある言葉であって、それは誰もがいろんなところで用いるものであって特別なものではない。元の意味を失ってただ交わされるだけの挨拶の言葉のようなものである。それでは特別な心を伝えることはできない。
これが引用の問題と重なる。凛世の引用の問題とは、言葉を引用することによって凛世自身の想いが伝わりにくくなってしまう問題である。【想ひいろは】「想いぬれど」では、凛世の言葉は漫画の引用としてプロデューサーに聞き取られてしまったし、【ふらここのうた】TRUEの「はちぶく」では、隠さなくても心(うら)が伝わっていないということが語られている。
凛世のしたためた年賀状は、果たして定型文のようになってしまった。これでは凛世の特別な想いは伝わらないのではないか? けれど、凛世はそれでいいようである。「足すものもなく、引くものもなく、心のまま」と。ここでの凛世の想いは、言葉の裏に隠されているのでもなく、何か過剰に取り繕って書いているのでもなく、まさに書かれている通りのことなのだと、凛世自身が思っているようだ。そしておそらく重要なのは、それでいいと凛世自身が思っているということだ。
【ふらここのうた】TRUEでは、心(うら)について、「隠さずとも見えぬもののようです」と語られている。これは【想ひいろは】「想いぬれど」で言葉が漫画の引用として聞き取られてしまったことと繋がっている。今までの凛世なら、書かれたものが書かれたとおりに伝わらないと思っていたのではないかと思う。
でもたぶん今はそうではない。
【十二月短篇】TRUEの前半部に、1番目のコミュ「紅の踊り子の主題・序」でのエピソ―ドへの言及がある。1番目のコミュは、カルメンと名付けられた新しい口紅をメイクさんに塗ってもらうエピソードなのだが、その選択肢には、凛世の雰囲気の変化に気づくものと気づかないものがある。
気づかないもの(「準備ばっちりみたいだな」)を選ぶと、凛世は口紅を変えたことを言いさすところが描かれる。プロデューサーは何も気づかないまま大急ぎで去ってしまう。カルメンの一節(「ハバネラ」の歌詞)を引用して、聞いていたメイクさんが「素敵なのねぇ!」と感心する。何かを思いつつ、メイクさんの言葉をそのまま繰り返すように「素敵でございます…… カルメン……は……――」と言って終わる。
「なんか雰囲気が違うな」が気づく選択肢で、SPINEのアニメーションで視線を外してちょっと恥ずかしがるかわいい凛世が見られる。「大人っぽい感じだな」を選ぶと聞ける、「あたしのカスタネットはどこ。あんたのために踊るわ。見たいんだったら、あんただけのために」の引用は、おそらくカルメン第2幕で、出所したホセがカルメンに会いに行ったときのものではないかと思う(日本語で見ていないので間違ってるかもしれません)。
で、TRUEコミュではこの1番目のコミュのエピソードが思い起こされている。年賀状に添える言葉について、定型文は避けたいとプロデューサーが思った相手は、企業宛ではなく個人宛のものなのだが、そこで登場してくるのはあのカルメンの口紅を塗ったメイクさんだった。このメイクさんに特別に伝えたいことをプロデューサーは考えるのだが、思いついたのは「俺も化粧品のこと、勉強します!」だった。カルメンの口紅を塗ったときの凛世について、「ちょっといつもと違う感じだっただろ」と言う。そして、「ちゃんとさ、そういうこと、わかるようになるから」と。
口紅は、荒井由実の「ルージュの伝言」のように書くものとしても使える。化粧はだから、書かれたものであるとも言える。そしてそれを、「ちゃんとわかるようになるから」とプロデューサーは言ったのだ。それはつまり、凛世の書くものを、ひいては凛世の心を「ちゃんとわかるようになるから」と約束したようなものである。言葉を漫画の引用として聞き取られたり、「隠さずとも見えぬもののようです」と言っていた頃とは、もう違うのだ。
【水色感情】のコミュを思い出したくなる。2番目のコミュ「A2.恋は何色(R.Morino)」では、フランス語のシャンソンのレコードを聞きながら、プロデューサーは「わかるまで聴こうか」と提案する。ここで凛世はレコードを自分の心になぞらえているから、プロデューサーが「わかるまで聴こうか」と言ったのは、実はフランス語のレコードのことだけではなく凛世の心のことでもあった。
けれどここでは、プロデューサーは凛世の心について「わかるまで聴こうか」と言ったわけではない。凛世のことをもっとちゃんと知ろうとプロデューサーが決意するのはTRUEコミュ「R&P」だ。撮影スタッフに「大人っぽい顔するんだなって、意外で」と言われて、プロデューサーは内心狼狽する。プロデューサーは「大人っぽい顔」に気づいていなかった。「凛世のいいところ、俺が一番、知ってなきゃいけないのにな」。プロデューサーは「自慢できるプロデューサー」になるよう頑張ること決意する。
ところで、【十二月短篇】の1番目のコミュの選択肢、「大人っぽい感じだな」のルートで引用される「あんたのために踊るわ。見たいんだったら、あんただけのために」に、【水色感情】TRUEの「プロデューサーさまが…… 聴いてくださる……かぎり……」の反響を聞き取りたくなる。ここでもカルメンと凛世を対比したくなる。
プロデューサーは凛世のことをちゃんとわかるようになろうと決意したのだ。そしてその決意が「ちゃんとわかるようになるから」という言葉として凛世に伝えられる。おそらく、だから凛世は「定型文のよう」でもかまわないと思ったのではないかと思う。「定型文のよう」であったとしても、きっとプロデューサーは分かってくれる。分かろうとしてくれる。凛世はそう思うことができたのではないか。
花火の見える屋上で、去って行ったプロデューサーに対してカルメンのように心の遠さを感じた凛世に、プロデューサーはメッセージを送った。凛世はそれを受け止り、自分を諫めた。プロデューサーの心は遠くにあるわけではない。同じ空の下にいる。カルメンのように相手の想いを疑ったりしない。だから、プロデューサーの言った「ちゃんとわかるようになるから」を、凛世は信じることができたのだと思う。これは、凛世とプロデューサーにとって、大きな一歩ではないかと私は思うのである。
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