テイルズオブアライズ、メナンシア編:カラグリアでの暴君による搾取、シスロディアでの監視・密告社会を見た後メナンシアに来るとレナとダナが仲良く「共存」してるだけでプレイヤーは疑ってしまうし
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住民に話しかけると行方不明者がいたり「病気」になってる人がいたりと妙に怪しい面あるから、どう見ても裏を勘ぐってしまう。でもそれ以外だと、レナの兵士が子どもと遊んでたり、昼間からレナの兵士がダナと酒飲んでたり、採石場では労働する側の健康にも気を使われてるし、体調不良なら休める。なにせ作中、レナの兵士がダナを監視するのではなくむしろ守っているように見えると言われるくらい。
それでテュオハリムと会うと、不当な搾取や鞭や苦役の代わりに、「正当な報酬を提示」しただけと言う。民政局の人もこの国のダナは皆望んで働いていると言う。テュオハリムいわく、「互いを尊重する主従関係」。
だがプレイヤー的には、これまでのゲームプレイでの経験もあってその光景を本心から信じれず疑ってしまう。リンウェルなどは何度も「罠」「何か裏が」と言う。ロウはリンウェルほど露骨に言わないものの、半信半疑で何とも言えない感じ。城を探索したりすると「外部との怪しげな取引」を示す書物とかあるし、図書館行くと「レナの本だけど文字は全部ダナな本」とかあったりする一方で、ダナに文字や勉強を教えるレナ、テュオハリムに仕えることに心から喜びを覚えているダナ、ダナの仕事(近衛隊とか造園とか)を素直に評価してたり(ダナにしてはとかダナにしておくには勿体ないという言い方ではあるが)するレナ人もいる。それでも、これまでの「レナからのダナの解放」という理屈を正当化してた「不当な搾取」「奪われた自由」からすると合致しないメナンシアの状況。正しさ・真実が何かわからなくなるように思えてくるのも確か。
このいかにも何かありそうだし、かといって全てが嘘でもなさそうな「ダナとレナの共存」の居心地の悪さ。
それはここまでの作中の描写を経て生じた効果でもあるが、もう一つテュオハリムの言う「互いを尊重する主従関係」が、現実の我々に訴求するものがあるためでもないか。
例えば、奴隷制とか聞いて典型的にイメージするようなものがそのまま出てくるカラグリア。その次がむしろ現代風の監視・密告社会のシスロディア。その次に来るのが、互いの階級や立場を前提にした上で、その範囲内での自由や平等が与えられたメナンシア。この妙な生々しさが一番現実の我々に実感しやすいというのはあると思う。
私などは、メナンシアの様子は(正確さとか実際のそれとの齟齬はあるにせよ)さながら我々の時代に一番近い時期の支配ー非支配関係を想起した。
例えば、大英帝国時代の雇い主と使用人、あるいは帝国主義下の植民地支配における支配者と現地住民。メナンシアでのダナの扱いは一応”奴隷”だったようだが、個人の努力次第で領将(スルド)の近衛隊にもなれるというのは、現実における奴隷制というより、植民地支配とか奉公人のそれにむしろ近そうな印象だった。
それゆえに生々しい。レナもダナも互いに相手を尊重してるし、平和で穏やかで豊かな生活がある。住民は領将を慕っているし、少なくともテュオハリムも視察や陳情といった”義務”は果たしている。主人公組との謁見や食事会の際も、穏やかで諭すような調子で理念を説く。おまけにそこで過去の回想らしきものが挟まれるから、テュオハリムがプレイヤーからすると「立場や認識こそ主人公たちとは異なるものの、確固たる信念を持っているし、個人としても善人に見える」と映る。調和のとれた関係であるがゆえに、立場とか階級といった根本的な差異の暴力性が覆い隠されているというのは、やはり一番空恐ろしかった。だが、それもテュオハリムを前にして薄れそうになる(それでも寒々しさは消えないが、奥底に隠れて沈んでいけばそれは感じにくくなる)。
ただこれだけならまだ”リアリティー”があるで済んだと思う。それこそテイルズの過去作にはそういう描写はあっただろう。
だが、一番心に来たのは、メナンシアの真実。〈虚水〉とテュオハリムの本当の姿。
まず、意味ありげに示されていた採石場の奥。そこにあるのは重傷者の治療のための病床ではなく湖。それが湖ではなく〈虚水〉が進行した結果、かつて「そこにあったもの」と化した人の山であること。目の前でグスグズになりながら溶けて消えていくキサラの兄。それを見て絶叫するキサラ。この時点で、個人的に結構来るものがあった。3次元のグロテスクさではなく作りもののはずなのだが、それが却って気色悪さとおどろおどろしさを掻き立てる。ジルファみたく死体が残るわけでもなく、溶けて透明になった水銀みたいな物体が残るだけ。そこにキサラの絶叫とテュオハリムの回想内での絶叫が両方来るわで。
そしてテュオハリムの本当の姿。実は「ただ争い事が嫌でそれが見たくなかっただけ」。鞭とか苦役とかもそれに類するもので見たくないからそうした。「共存」とかの理念は全部後からついてきたもの。本人も信じようと思ったこともあったが、結局信じることはできなかった。要は穏やかで理知的で鷹揚な理念に生きるテュオハリムの姿は、プレイヤーを始めとしてメナンシアのレナ・ダナみんなが結果から投影したに過ぎないもの。テュオハリム本人はそれらしく振る舞っていた
だけのこと。本人の中には何もなかった。
作中、アルフェンが言うように結果的に、そして事実としてテュオハリムのつくった「共存共栄」はレナ・ダナ双方にとって既に現実のものとなっていた。作中では7年ほど続いていたと語られているが、10年ほど続けばもはやそれが当たり前になっているし「それ以前」に戻りたくないと感じる人も少なくなかった。
一方でテュオハリムが領将の義務である〈王〉に興味がないことから「レナ人の義務」を果たさないと考えて叛乱したケルザルクがいた。他方で、街中の会話をつぶさに聞いていると、ダナ人に暴行働こうとした叛乱側に対し、身を挺してダナ人を守ろうとしたレナも大勢いたし、叛乱側に拘束されたレナの身を案ずるダナもいた。
全てが終わった後のこれからについて「またこんなことが起きるかもしれない」と心配する者もいるが、それも含めて大部分の住民が濃淡はあれど今後も「共存」は前提にしていく気であった。例えば、「レナとダナの間の問題が明らかになった。今後はそれを乗り越えなくてはならない」etcという風に。
キサラが信じたいものを信じていただけで、本質を見ようとしていなかったという場面がある。メナンシア編は「誰もが
見たいものを見ていた話」でもあると同時に、「誰もが信じたものが守られた話」でもある。
それにしても、このメナンシア編はアルフェンとロウの良さが出ていた。ジルファの影響を受け、落ち着いて物事を見極めようとしていたアルフェンは決断を焦らず、必要な場面で自分の言葉で語ろうとしていた。激昂したキサラがテュオハリムに憎しみを向ける場面で何も言わず、全てが終わった後テュオハリムの行いがそれでも何かを残していたと語る。成長を感じさせるとともに、相手や場面に応じて行動していることが分かる(リンウェルやシオンに対してにしろアルフェンは必要場場面で自分の意見を語るようになっている)。
それに対してロウは、その場その場での出来事に対して是々非々にある種「傍観者」的な立場に立っていた。元〈蛇の目〉として裏のキナ臭い話にも通じてるけど、正しく生きることを考えてるから、その場で安易に判断を下さず、結果的に長い目で物事を見ることになっている。これは言うべきことを言わないということではなく、アルフェン同様必要な場面で喋る。それでいて二人の性格の違いも出ている。
今後の展開次第だが、今の所メナンシア編終了時までの評価は高い。シナリオと描写・演出は好評価。キャラはアルフェンとロウが特にいい。これ以降が微妙な可能性はあるが、ここまでで良作の範疇から抜けることはないだろう。