浅倉透はなぜ霧吹きをかけたのか――ノクチルのEXコミュを読む
初出:2020年3月25日Privatterに投稿
ノクチルがゲームに初登場したのは、春のピクニックイベントのEXコミュにおいてだった。コミュ内では、283プロの先輩アイドルたちが写された写真をプロデューサーがノクチルの4人(このときユニット名がすでにつけられているのかどうかは分かっていない)に見せている。透は霧吹きで虹を作っているのに興味を示し、ほかの3人も、たとえば小糸は写真の中のアイドルに見入っていたりしていて、自分たちがアイドルになったという自覚がまだ薄いようだ。写真に写っているアイドルたちは遠い存在で、自分たちはアイドルたちを見るお客さんであるかのように。
そこでプロデューサーは言う。「こら、みんなもうお客さんじゃないんだぞ? これは一緒に頑張っていく仲間たちなんだ」とアイドルとしての自覚を持つように促す。そしてこう付け加える、「たくさんの人の心に虹をかけられるようなアイドル活動を」と。
そのプロデューサーの言葉に対して、透は「できるかな」と言う。ほかの3人も確かな自信があるという感じではない(円香も「それっぽくならできる」と言う)。そしてプロデューサーは言う、「後ろ向きになる前に、やってみなきゃな」。そして透は「やってみよっか」と言って霧吹きで水をかけ始めるのだ。
少なくとも透以外の3人はここで、自分たちにアイドルが務まるのかどうかというこれまでの会話の文脈をふまえたことを考えていたはずである。しかし透だけは、最初からずっと霧吹きで虹が作れるのかどうかを気にしていたというのだろうか? そうかもしれない。だとすると、透はちょっと天然っぽいところがあるように見える。
だが、透が霧吹きをかけたことについて、それを天然といって片づけられないところがこのコミュにはある。それはプロデューサーの「心に虹をかける」という言葉だ。
ひょっとすると透は、ほかの3人と同様に、自分たちにアイドルが務まるかどうか、という文脈を理解した上で、プロデューサーの「心に虹をかける」という言葉をふまえてわざと霧吹きをふきかけたのかもしれない。ユーモラスに、文字通りの虹をかけてみようとした、ということである。
「心に虹をかける」という言葉は、アイドルとして人を魅了するということを意味する隠喩である。ここで透が「心に虹をかける」という言葉を隠喩として理解したかどうかはコミュ内部では書かれていない。コミュの演出的にも、透は隠喩を理解していないと捉えるほうが自然であるように思う。ならばやはり透はただの天然で霧吹きをかけたのだろうか?
しかしそれはちょっと違う、と私は思う。あるいは、それだけではない、と思う。透のここでの行為はユーモアのような行為ではなく文字通り霧吹きをかけただけであると思うのだが、それは単なる天然の面白おかしい場面ではない。これはシナリオ上において重要なことを示しているのではないかと思う。ポイントは〈文字通り〉というところにある。
プロデューサーが言った「心に虹をかける」という言葉は、アイドルとして人を魅了するということを意味する隠喩である。「心に虹をかける」が表現そのもの(文字通り)であり、「アイドルとして人を魅了する」というのが隠喩的意味である。つまりプロデューサーはここで隠喩的にアイドルとして人を魅了する方法を教えたことになる。したがって透が霧吹きを実際にかけてみたこの行為は、このコミュの文脈においては「心に虹をかける」という隠喩を隠喩としてではなく文字通りに実践したことになる。そしてそれは小糸も見入っていた写真に写されたアイドルが行っていた行為そのものだ。ここで透は、まさにアイドルと同じ行為をしていることになる。
つまり霧吹きで水をかけることによって、ここで透は隠喩的意味を知ってか知らずかその場にいたほかの人をアイドルとして魅了しようとしたという風に読むことができるのだ。透が最初に霧吹きをかけた相手はプロデューサーである。アイドルマスターにおいては、昔からプロデューサーが担当アイドルの最初のファンであるとされてきた。だから最初に霧吹きをかけた相手がプロデューサーであるというのはつじつまが合う。
透の行為を受けて、ほかの3人も霧吹きをかけ始める。互いが互いを魅了し合うかのようである。そうして互いが互いを魅了し、互いが互いに憧れて、アイドルになっていくことを示していくのかもしれない。ここから、4人の間の相互関係が重要だということが読み取れる。中でも、透の興味や実践が4人の中では特に重要だということが示されているのではないか。
またさらに、〈文字通り〉の実践において、透が隠喩的意味を理解していたかどうか明らかでないのだが、〈文字通り〉の実践においては隠喩的意味を理解していたかどうかはほとんど関係がない。〈文字通り〉実践すること、その実践そのものが重要なのである。だから透は本当に天然であってもかまわない。(最初写真に写された霧吹きの虹に興味を示すところからすでにして透はちょっと人と違った独特な興味の持ち方をすることが示されていた。)
隠喩的意味を理解していたか抜きの〈文字通り〉の実践が、なぜ重要なのか。これは私の直感的な憶測にすぎないのだが、その点こそがノクチルの独特の「透明さ」なのではないか、と感じられるからである。ノクチルには透明さが託されている。このことは確かだと思う。そしてその透明さは、透がここで実践するような、隠喩的意味を素通りした〈文字通り〉の実践に現れているように思うのである。それは、アイドルということを〈文字通り〉実践してみるようなこととして現れるのではないか。こういう風に感じられるのだ。繰り返すけれどもこれは私の直感的な憶測にすぎないので、この直感的な憶測は外れるかもしれない。
ただ少なくとも、EXコミュにおいて浅倉透は単なる天然として面白おかしいところを見せただけではないということは確かだと思うので、このことをここに記録しておこうと思う。
ノクチルの4人は見るものの心に虹をかけることができるか。これはアイドルマスターシャイニーカラーズというゲームであるのだから、その答えはイエスであるに違いない。けれどもこのEXコミュの段階においては、ラストの透の言葉「やってみなきゃでしょ? 虹がかかるかどうか」が重要であると思う。とにかくやってみる。〈文字通り〉やってみる。おそらくこのこと自体がこの4人には意味がある。ノクチルの4人は、このこと自体に意味があるような4人だということが、ここに示唆されているように思うのである。
※追記 人はいかにしてアイドルになるのかという問いへの答えと浅倉透の「透明さ」について
ノクチルのEXコミュについてもうひとつ気づいたことがある。このコミュは、人はいかにしてアイドルになるのかという問題への答えを示しているということだ。
プロデューサーは、アイドルとしての自覚や心構えを持つことが必要だとしてその答えを示す。だが浅倉透はその答えを素通りするのである。透は自覚や心構えを素通りし、さらに「心に虹をかける」という言葉の隠喩的意味を素通りして、虹をかけることを〈文字通り〉実践しようとした。この実践はまた、写真に写されていたアイドルたちがしていたことでもある。だからこの〈文字通り〉の実践は、いわば写真に写されていたアイドルの行為の引用でもある。
だから透はここで人はいかにしてアイドルになるのかという問題に対して、自覚や心構えによってではなく、アイドル的行為を実践することによって人はアイドルになる、と答えたと読むことができるのだ。いわば人は行為遂行的にアイドルになるのである。
透は自覚的にこの答えを示したのだろうか。私はあまり自覚的ではないと思う。自覚していないということはコミュの中には示されていないのだが、自覚しているということも示されていない。会話の間中ずっと霧吹きと虹に興味を持ち続けていたかのように描かれているという点から、私は透は無自覚だったのではないかと思う。
だから、透の〈文字通り〉の実践には、おそらく実践しかない。プロデューサーが示した自覚や心構えや隠喩的意味はここから抜け落ちている。この純粋な実践、純粋な行為こそ、私が透に感じた「透明さ」の正体だと思う。
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