例のユアなストーリーについて、立場上ずっと黙ってたけど何週間も悶々としっぱなしなので吐き出すよ。
何ひとつ関わりはないので、あくまで、いちドラクエファンとしての感想です。深読みダメ。
続きは以下から。長いです。
アリかナシかで言うと、9割アリで1割ナシ。
普通なら1割のナシ要素なんて無視するところだけど、そのナシが強すぎて悶々としっぱなし。なんだこれは。梨に例えるならガリガリ君かよってくらい強い。ある意味、心をがっつり掴まれてこんな文章書いてるくらいなので、思うツボなのかもしれないけど。
ともかく。
ゲマを倒すところまでは、劇場で観ながら「これはアリだ!」「ドラクエファンはあれこれ言うと思うけど俺は擁護するぞユアストーリー!」なんて炎尾燃ばりに偉そうに考えてましたとも。もちろん気になるところはあったけど。妹とか音楽の扱いとか気になるところはあったけど、映像化にあたっての切り口や料理の仕方は、割と「そうきたかー」って感じで素直に楽しめたわけですよ。
いや、そもそも。
発表時の言い回しからも、「ああこれは決してドラクエVの映像化ではないんだな」と思ってまして。これでタイトルが「ドラゴンクエストV ザ・ムービー」だとか「劇場版 天空の花嫁」だったらまた違うのでしょうけども、これはあくまでドラクエVを原案にしたオリジナル作品で、言わば「魔女の宅急便」とか「ハウルの動く城」の原作と映画みたいな関係だろうと。であればそのつもりで鑑賞しようと。そんな心構えはありました。ありましたとも。
制作陣のインタビューを見ると、ドラクエVの映像化そのものに意味があるのかと懐疑的な様子もあったようですが、確かに、原作がドット絵見下ろし型のビジュアルで、せっかく想像力をかき立てて、ひとりひとりの想い描くディテールや辿る冒険が異なるものなのに、公式で映像化したらイメージがそれで固定化されちゃうとか、そのルートが“正解”になっちゃうといった懸念はあると思います。まして嫁選択の議論が未だに根強い題材ですし。
その点で言えば、世界観を鳥山明先生のタッチにしなかったのは良かったと思う。これはあくまでひとつの解釈ですよ、リュカの世界にアレンジした特殊な物語なんですよ、というのに納得しやすい。
タイトルにVを入れなかったのも、キャラを公式の名前にしなかったのも、そのための配慮なのでしょう。(小説版と同じ名前にしたのは焦点をボカすためだろうか…)
で。
ゲマを倒した後の、例のあの展開。
ああ、その“配慮”が、いきすぎちゃったのかなーと。
思うわけです。
「ほら見て見て、この話は正史でも正解でもないよ!」「あなたの思い出にあるドラクエVを尊重するよ!」という否定が強すぎるあまり、そのほかのいろんなものまで否定することになっちゃったのかなーと。
あそこまで緻密に積み上げた世界をぶっ壊すなんて制作側も辛いはずでしょうに…。
個人的には、そこまでがんばって否定しなくても「ひとつの解釈に過ぎない」作品であることは察していたし、その上でキチンと要素を消化していたので充分アリだったわけですが、確かにあのままの展開で最後までやっていたとしても多くの人は「違う!」と感じて納得しないであろうこともわかります。(自分自身でも「擁護する」という言い方してたし)
そう考えれば、ぶっ壊す狙いはまだわかるとしても。
あれは、さすがにうーん…ってなるわけで。
どうせメタに落とすならいっそ、ストレートに「夢オチ」にしたらどうだろうか…などと「思いついてしまった」ので、ここからは勝手に想いを綴る妄想俺ユアストーリー。
* * *
あわや魔界の門が開く、という場面でホワイトアウトして目が覚める。
そこは現実世界で、ある男(主人公)が過去に遊んだゲームからイメージして見ていた夢だったと気付く。
男には家庭があり、妻や小学校の息子が起こしに来て、現実に戻されたことを実感する。
昨日、会社の同僚と昔遊んだゲームの話で盛り上がったため、今さらこんな夢を見たのかと思うが、夢の続きが気になって仕方がない。すっかり忘れていたが、男は当時いろんな事情があってドラクエVをそこまでしかプレイしていなかったのだ。
「リュカの冒険はまだ終わってない」「僕はまだあの世界を救っていない!」男はそう決意して、物置にしまってあった古いゲーム機を引っぱり出す。物珍しそうにその様子を見てる息子。
夢で見た場面を思い出しつつ、カセットを挿して電源を入れるが、呪いのMEとともに冒険の書が消えているというメッセージが出る。
あの世界は、消えてしまった。
最初からプレイし直すことはできるが、あのとき辿ったあの物語に続きはない。もう思い出の中にしか残っていない。リュカがミルドラースを倒して世界を救うことは叶わなかったのだ。
ガッカリして肩を落とす男。
そこに話しかけてくる息子。
「これ、僕やってみていい?」
ハッとする男。そんな息子の姿と、ゲーム中のアルス少年の姿が重なる。
コントローラーを息子に託す。新たな冒険が始まる。
泣いたり笑ったり迷ったりしながらゲームを進めるふたり。男は横からアドバイスしたり、攻略サイトに頼る息子に呆れたりしながら、かつて、自分の父親がドラクエⅠをプレイしているのを隣で眺めて一緒に楽しんでいた光景を思い出す。剣は受け継がれてゆく。
やがて、息子の物語でもゲマを倒し、魔界に行って、ミルドラースのもとへ辿り着く。
ここで現実世界からゲーム内の映像に変わる。
そこでの主人公は息子の顔。嫁はフローラ。(ここ大事。キラーパンサーの名前も違う)
最後の決戦を前に父パパスを思い返す。男の顔をしている。幾世代に渡る悲願を受け継いで前に進む決意を再確認し、仲間たちと不死身の敵に挑む。
その後、平和になった世界。
町の人々のからの感謝の言葉を浴びて、満足そうな息子主人公。家族や仲間と幸せに暮らしていく様子を見せつつエンディングへ。
* * *
といった妄想。あえて現実世界には戻さないで終わらす。なぜならそっちこそユアストーリーだから。テーマも繋がるし嫁問題もこれで解決したぜやったね!(自分の中では)
最初の世界は消えるけど「クリアまで遊ばなかった思い出」もゲームのひとつの楽しみ方として肯定していきたいよねえ。
あと、何かひとつのゲームを取っても「苦労せずクリアしても意味がない」だの「解釈違い」だの、いろいろ言われたりする昨今。
いいのいいの! ゲームの楽しみ方も、そこに想い描く世界も、ひとりひとり違っていいんだよ、自由なんだよ、だってすべてユアストーリーなんだから。さあさあ!
ってテーマだったら、それを今、長年続く国民的RPGを題材にした作品で伝えるのは説得力があるんじゃなかろうか。少なくとも個人的には嬉しい。
そして、こんな妄想を語るのも自由。自由なんですってば。
ということで。
よし、満足した。長い。
こんな自己満足にお付き合いどうもです。