#egopression #MISSION8 、今日2回目(Bチーム、夜公演)の参加をして、G-eoを追って、感じたこと。一筋の希望を見出そうとする世界の中で、ともに生きるイマーシブシアター。(ネタバレあり)
G-eoの物語は、もう筋書きとして絶対に情緒がダメダメになるもので、もはや改めて語る言葉もないのだけれども、それとは別に、というか、ディテールのところで、個人的に刺さった部分を熱いうちに書き留めておきたい。
まず、比較的前半、下の階のシャッター前でH-elenが愛のことを励ます圧巻のダンスシーンがあって(そこだけそちらを見ていた)、その直後に、シェルターに関する資料を確認した後のG-eoは2階に上がって調合を進める。
下の階では"All you need is love"のシーン。愛の歌が聴こえてくる。
G-eoは淡々と、でも少し焦りながら、真剣な眼差しで目の前のフラスコに向き合う。
その対比が心に迫った。
理不尽で困難な状況下にあって、
感情をもって励まし合う者。
持てる知によって理性的に立ち向かう者。
なぜかそのとき美術用語の「熱い抽象と冷たい抽象」という言葉が頭に浮かんでいたのだけれど、「熱い情熱と冷たい情熱」というべきか、どちらもそれぞれに懸命にこの局面を乗り越えようとしているのが伝わってきて、特に試験管越しに見たG-eoの眼差しには心打たれた。
それぞれにそれぞれの立ち向かい方があるのだ。
ロボットたちにはそれぞれ役割が割り振られているが、実は彼女ら彼ら自身がそれを知るのは、けっこう後の方になってから、だということに、今日改めて意識が向いた。
あの書類を見てはじめて、ロボットたちは「私はそういうロボットとして作られたのか」と知る。でもそれだけではなくて、「だから掃除をしていたんだよね」「だからあそこで調合していたの」とそれぞれに明るい顔でこれまでの行動を振り返っているようにも見えた。
その様子を見て、そうか、ロボットたちは、与えられた役割を自覚してそう行動していたのではなく、役割は行動に後付けされたものにすぎないんだ、と、はたと気づいた。
「なんかあのフラスコや試験管に惹かれる」
「なぜかあの美術品が大事だと思う」
「なぜだか知らないけど器用にいろいろ作れちゃう」
スイッチが入った後のロボットたちはそんなふうにして、行動していたのだろう。
人間も一緒だよなあ。と思う。
なぜだかこれに惹かれる、なぜだかあれが得意、好き。そういうことを大切にして生きる、ということ。「仕事」というレッテルや区切りは、本来いつだって後付けなのではないか。
同時に、ロボットたちに「後付け」された役割(現実にはプログラミングされているのだけど、あの物語を目撃した以上は、あえてあくまでも「後付け」だと言いたい)をよくよく眺めてみると、これらは人間が本当に「生きる」ために必要な営みたちだと思う。
今や現実世界では「仕事のための仕事」「お金のための仕事」が多くを占めていて、資本主義社会の中で「仕事」は肥大している。
でも肥大した風船に風穴を開けて、手のひらを太陽に透かして、「我々が生きるために本当に必要な仕事は」と問うならば、しぼんだ風船が象るのはきっとあの8体のロボットと1人の人間の輪郭なのではないかと思う。
そしてそこには、性別は関係がない。「生きる」ということには。
今日のG-eo追いでもう一つ強く心に残った光景、それは、後半、焦りを募らせながら2階で調合を続けるG-eoのもとへ、D-aryaとH-elenが相次いでやってくるシーン(順番はどちらが先だったかうろ覚え、仮にこの順として書く)。
まずたしかロボットたちの寿命が限られていることを知った後のG-eoのもとに、D-aryaがやってくる。
手伝いになっていない手伝いをしようとする彼女は胸の辺りを不思議そうに気にして、それはついさっき知った"love"なのだと悟る。
2人はやがて惹かれ合う。ちょっと抜けたところのあるD-aryaと、真面目でまっすぐなG-eoとの関係はとても素敵で、
絶望的な事実を知った直後のG-eoの、笑顔はそれでも輝いていた。性別は関係なく、そこにはただ人間と人間の愛があった。
その後、1階でロボットたちの寿命が限られていることを皆に知らせたG-eoが2階に上がり、それをH-elenが追いかけて元気づける。
躊躇いながらもG-eoのもとに行ったH-elenは、慈愛に満ちた表情でG-eoの心を鎮める。そのときのpirori-noさんの表情と、緩んでいくえみさんの表情がとても愛おしく、尊い光景だった。
男性のナニーロボットと、女性の生物学者ロボット。
子育ては女性の役割だとか、男性の方が理性的だとか、そういう旧弊な言説が本当に心底阿呆らしく思えるほどに、2人の作り出す光景は過不足なく満ち足りていて、輝いていて、美しかった。そこにはただ人間と人間がいた。
固定された価値観を疑い、それらを軽やかに飛び越える。そうして「生きる」ことからはじめる。
それができるのは、イマーシブシアターという形式だから、ではなく、そういう作り手が作った作品だから、ということに尽きると思う。作り手のego:pressionさんに全幅の信頼を置かせてもらえることに、受け手として感謝が絶えない。
固定観念を飛び越えられるその原因はイマーシブシアターではないけれど、結果はイマーシブシアターであることが、大きな大きな重みを持つ。
なぜなら、我々も同じ世界に入り込んで、そこに生きるから。舞台の上の他人事ではないのだ。
絶望の中に生まれる胸が締め付けられるような悲哀のドラマよりも、たとえ僅かであっても希望あるところに生まれる人間讃歌が好きだ。
前者のドラマ性は他者か、自分か、どちらかが傷付くことで成り立つものだから。同じ世界の中で生きているし生きていくんだから、なるべくならそうじゃない方が好きだ。
一筋の希望を見出そうとする世界の中で、ともに生きることのできるイマーシブシアター。だからこんなにも胸が熱くなる。