『虎に翼』第3週#15までの植民地表象について
主人公の猪爪寅子は実在した人物(三淵嘉子)を基にしていますが、韓国人「留学生」の崔香淑は実在のモデルがいないキャラクターです。
メインキャラクターの5人のうち、山田よねと桜川涼子にはモデルとなった実在の人物がそれぞれ存在しているようで、大庭梅子は特定のモデルはいないものの明大女子部に主婦の在学者たちがいたという当時の情報に基づいた設定です。崔香淑も、モデルはいないものの大庭梅子と同じように、日本統治下の朝鮮から来た「留学生」がいた史実から着想を得たキャラクターであり、社会学者の方が考証に入っています。
メインキャラクターたちは、第2〜3週にかけてそれぞれ月経困難症、家制度、性被害、主婦業など、抱える困難が明かされてきました。
それが第15話の全員で弱音を叫ぶシーンで強調されますが、メインキャラクター5人の一人である崔香淑においては、その弱音は「日本語を間違えると笑われるのが嫌! 女子部のみんなは違うけど、とっても意地悪な人もとっても多い!」というものでした。
この崔香淑の直面する困難は、まだ作中で描かれていないものです。
崔香淑は女性であること(女性とみなされること)に加え、他の日本人キャラとはまた異なる、植民地民/外国人であるという、交差性のある困難を抱えています。
発音から日本人ではないと識別された人たちが虐殺された事件が直近(関東大震災虐殺事件は1923年、裁判終了は1924年)に起きているのにも関わらず、それを想起させる崔香淑の「弱音」に対するメインキャラたち(法律を学んでいる!)たちの反応は、どうにも不自然でした。
韓国人の話す日本語を揶揄う行為が、当時の日本に蔓延していた「虐殺を引き起こすほどの植民地主義/民族差別」の一端であることは作中で触れられません(差別された側の崔香淑でさえその行為を「意地悪」と表現する)。
あそこで崔香淑が、日本語の拙さを指摘されることに恐怖(当時の当事者ならば虐殺事件を思い出すでしょう)を感じていたり、それがどれほど根深い差別なのかを指摘したりすると、物語で当時の植民地主義/民族差別に(話数を割いて)触れざるを得ないため、深くは描写しないが視聴者に目配せはしておく。このシーンはそういう形になっています。
過酷な日々を生き抜いてきたメインキャラの一人、よね(よねさん)は、崔香淑を「この人は国を離れて言葉の壁もある(のに頑張っている)」と評価しますが、「働かなくても留学されてくれる家族がいる」と責めたこともあります。
これは「留学生」としては事実であり、植民地からの「留学生」は、主にごく限られた層(主に中流〜上流の富裕層)の出身者で構成され、そのため当時の日本本土に合計して数千人(そのうち女性はさらに少数)程度しかいなかったのです。
そうした、ほぼ特例的な「留学生」身分の、当時の植民地民においては(よねさんの言葉を借りるなら)「かなりマシ」な境遇にある崔香淑の困難の描写さえ満足になく、主人公の友達として側にいるだけの描写が続いていることには問題があります。
一応、今後とくに作中時間が戦時に突入して以降に崔香淑にフォーカスしたエピソードが描かれるようですが、それまでは存在する苛烈な差別を「ないこと」あるいは「マイルド」にした物語がこのまま続くのだろうと推察されます。
また、主人公である寅子の父は帝都銀行勤務であることが複数人からセリフで述べられますが、寅子のモデルである三淵嘉子の父は台湾銀行勤務です。
三淵嘉子は台湾銀行職員の父のもと、シンガポールで誕生します。この植民地に関連した出自は三淵嘉子の信念や活動に影響を与えたと考えられていますが、それらは三淵嘉子を基にしたキャラクターである寅子に引き継がれていません。
ここでも過去の朝ドラ作品(『まんぷく』)と同じく、実在する人物とその史実を基にしているのに植民地に関連する事柄は主人公に紐付く設定から消去され、主人公の出自は「日本」で完結するよう操作されています。
植民地主義/民族差別の描写をマイルドにする選択は、本作があくまで当時の女性差別とそれを乗り越えた偉人をベースにした物語であることから、製作陣による取捨選択の結果であることはわかります。
しかし、それは作中の女性差別の描写の「リアル」(と視聴者に感じさせる)に比べて、植民地への差別は矮小化されているということでもあります。
日本人女性の被害は多様に取り上げているが、植民地ルーツ女性の被害は不可視化されたままです。
本作を視聴して「"植民地の待遇はそんなに悪くなかった"と勘違いする人が増える」あるいは、植民地への差別は国号を大日本帝国を使用する過程からずっと存在していたのに「"この頃(今後作中で描写されたとき)から起き始めた"と勘違いするが増える」という懸念を私は持っています。
まだ放送開始から3週しか経っていないのに、という意見も当然わかりますが、そのたった3週で本作は今に通じるものがあるとしてフェミニズム作品としての注目度を高めています。
作中の女性表象が共感を呼び、考証が評価されています。私も胸が熱くなったシーンがありますし、作品の面白さには同意です。
しかし、この共感と評価には、植民地への視点が抜け落ちているのです。
本作は植民地表象を崔香淑が担っており、その崔香淑のリアルが描かれていないということは、本作は現段階において「(画面に/歴史に)存在するのに描かない」という形で植民地の周縁化を再生産している状態にあり、その状態を含めて視聴者に共感・評価されていることになります。
作中、学長が毒饅頭事件の事実を改変(歴史改竄)して作中人物に共感しやすい筋書きを作っていたことと同じく、あった事実を「物語の都合」のために「ないこと」にした物語が支持されてしまうことには抗う必要があります。
ナレーションは史実の改変とそれによる効果に対し「私たちはいつの時代もこんなふうに都合良く使われることがある」と苦言を呈しましたが、ここまでの一連の物語において『虎に翼』自体が植民地主義/民族差別の蔓延という当時の史実を改変してより共感を得る効果を出している状態にあるのです。
もちろん、今後、物語で良質な植民地表象がなされる可能性はあります(崔香淑にフォーカスしたエピソードがあるようなので可能性は高いです)が、現状こうであることと、そしてその現状への評価には、旧植民地の周縁化と表象の欠落を感じているのが私の感想です。
女性差別を史実に即した「リアルな描写」で訴えかける一方で、人種・民族的マイノリティが受ける(受けてきた)差別を不可視化する作品とは、それはフェミニズム作品なのか。自民族中心主義的、すなわち所謂「ホワイトフェミニズム」の日本版(「やまとフェミニズム」とでも言いましょうか)的な作品になってしまいはしないか。
観る側が絶えず考え続ける必要があると考えています。
・訂正と謝罪
すでに削除した投稿において、私は『虎に翼』を「植民地民は公職に就けなかったのに、就けていたことにしている」と批判しましたが、この批判は誤りでした。作中で「植民地民が公職に就いている」描写は行われていません。
私は崔香淑の描写から、有力な家庭の出身であることはほぼ確定だろうと推測しました。そして、東京帝大で法律を学んだ兄の勧めで崔香淑も法の道に進学したという情報と、崔香淑が弁護士になるつもりであること、そして現状では崔香淑の直面する困難がまるで女性であることのみのように描かれていることを踏まえ、兄がすでに弁護士など法律に関する職業についている設定なのだろうと誤認し、「当時は植民地民は(日本本土で)公職に就くことができなかったのに、就けたことにしている」と投稿しました。
これについては、兄の職業などは明らかにされておらず、当時の韓国人を含む植民地民が公職に就いている描写や設定は作中に確認出来なかったので、「公職に就けたことにしている」という批判は誤りでした。該当の投稿は削除しています。
NHKの朝ドラ過去作において歴史修正的な植民地表象(『らんまん』:同化政策の不可視化、『まんぷく』:登場人物の植民地ルーツの消去、『ちむどんどん』:多重なステレオタイプ表現)に失望してきたことから、本作に対しても「またか」という先入観から誤認してしまいました。
ご指摘いただいた方に感謝します。「植民地民が公職に就けたことにしている」という表記は私の誤りです。不確かな記述をしてしまい申し訳ありません。