『ゴジラ-1.0』主人公が特攻ではなく生還の道を選ぶという筋になっているのに、演出や構成だけみると「特攻する覚悟を決める」点にドラマの比重が置かれているように見えるという点に本作のチグハグさを感じてしまったな
冒頭から強調されるように、主人公には「死に損なった」という自責の念がある。当然、それは自らのアイデンティティを自身の生そものに見出せてない状態ということなので非常にまずいわけで、実際、特攻をせずに生きることを選ぶという話にはなっている。なっているのだが、わりと終盤ギリギリまでゴジラと共に死ぬことを自己実現として考えている状態が続いている(ように見える)作劇になっているのが気になった。
これはその他の特設災害対策本部の面々に関しても同様のことが言えると思う。話としては「国が当てにならないから自分たちでなんとかしよう」という流れになっているので、「お国のために」という危うい全体主義的な散華の精神に陥らないバランスになっていたはずが、なぜか作戦準備の場面で「役に立てなかった(と自分では思っている)人が役に立てて嬉しい」という描写を強調したりする。
あるいは、中盤で批判されたはずの「貧乏くじ」に果敢に挑む人々を賛美する演出にしていたりして、ここでも作品のスタンスがよく分からなくなる。本来であれば、その「貧乏くじ」を生み出すシステムにこそ批判の目が向かうべきだろう。
まとめると、「言わんとしていることとその見せ方がチグハグなのでは?」と感じてしまった。この話は本来、役に立てたかどうか、そのために誰が自己犠牲的行動に走るか、みたいな価値観で生の価値をジャッジするのではなく、ただみんなでしぶとく生きていこう、ということが重要な物語のはずだ。だからこそ、ボロボロになっても特攻みたいなヤケに走らず、たとえ貧しくても今あるモノとヒトで知恵を出し合って理性的になんとかしよう、という精神の体現であるワダツミ作戦が感動的に映るはずなのだし、それはコロナ禍を経た(もっと言えば貧しくなりゆく日本に暮らす)今の我々にとって、とても響きうる物語になったはずなのだ。だったら、そういうまさに「生きて、抗え。」精神をこそ強調する作劇にして欲しかったなと思う。
たとえば主人公にしても、もっと明確に「ここで生の捉え方が変わった」というポイントが欲しかった。そもそも、「これがダメだったときの予備作戦がこれで、それでもダメだったらこうして、でも主人公は生還の道を選ぶんだろうな」という筋が最初から全て明かされてしまっているので、あまり作劇として機能していないようにも感じるし。なので個人的には展開の順序を逆にして、まず主人公が「特攻でいくしかない」と先走った行動をしようとするが失敗し、その後自分と同じように「死に損なった(と思っている)」人たちとの交流を経て生の価値観に変化が起こり、満を持して民間の知恵を結集させたワダツミ作戦でゴジラを倒す方向に向かう……みたいな筋の方が(若干シンゴジに寄ってしまうものの)まだしっくりきたかもしれない。