【小話5】
「すべて忘れるんだ、お前の世界に俺はいない」
心の臓の、最も軟弱な部分を容赦なく握りつぶされたようだった。
野営での最悪の寝覚めを、傍らで寝ていた相方の花粉で粉っぽくなった尻尾が、少しだけ癒やしてくれた。
気持ちの悪い鼓動を抑えるためになるべくゆっくりと深呼吸をする。
嫌な汗で背中は濡れていて、無意識のうちに奥歯を噛み締めていた。
イズベルガは眠っているようで、起こさなかったことにはほっとした。
(水)
放出した水分を補うため、そして夜風に当たるためにと野営地を少し離れる。
どのみちこのまま次の眠りにつく頃には夜が明けてしまいそうだ。
どんな夢を見ていたのかを思い出しかけると、感情が溢れて頭が熱くなる。
それに従ってどうやら2本の小さな角が光を灯していたようで、周囲の蚊が近寄ってきたので叩いた。
判定に失敗して、なんどかぱちぱちと顔の周りで拍手をするはめになった。
ため息。
冒険者が利用していると思われる飲水の取れる川のせせらぎをみつけ、布切れを端だけ浸して絞った。
ローブのフードから普段はしまっている髪の毛を引きずり出し、首周りを無造作に拭った。
拭うために顎をあげたとき、夜空の星が目に写った。
星とは、幾億ものヒカリが密集して、せかいを埋め尽くしているもの。
かつて自分が住んでいたらしい場所ではそういうものだった。
この世界での空は、それに比べたら多少間引きがされている。
やはり人が住んでいるからだろう。
そう思考を燻らせては、先程の悪夢がよぎって頭を振る。
「俺はお前のいる世界ならどこだって逃げる」
その時、この体ではなかったような気がするのに、その記憶だけは覚えているのか、
惨たらしくも脳には記憶の中にある大切だったはずの人の声が響いて離れない。
(まあ)
(しょうがないよ)
どこかで幸せでいてくれれば、なんてただの笑い話だと思う。
同じ空の下にいることさえ否定されるのなら、私は世界かあの子のどちらかを消すほかなかったのだ。
(なかった、…のかなあ。あまり思い出せない)
いま、人の息吹がある空の下にいるのなら、誰かと私はともにあることができるのだろうか。
自分の頬に触れる。腕を拭う。胸に手を当てる。
どうにもこうにも自分の輪郭があるらしいことを確認してから、沢を引き返した。
野営地に戻ると、イズベルガは先程よりいくらか背中を丸めていた。
その様子にくすりとわらって再び毛布にくるまる。
次の目的地、ミッドリールはすぐそこまで来ていた。