教授と俺の、初めてのやりとり ひとまずここまで
失敗したと思った。
研究室のドアをノックした時の、感情の籠っていない「入ってよろしい」の言葉を聞いたその時点で既に、俺はまるきり全てを間違えたと悟っていた。
実際に今俺の前で椅子に座り書類に目を落としているこの男は、俺が『単位が足りない時に手土産を持って頼み込めば口聞きしてくれる』と噂で聞いた方の倫理学の教授ではなかったらしい。
「……それで。君は、落としかけている単位のために私におべっかを使ってどうにかして貰おうとしている、と」
「は、はい……」
テーブルに置かれた少しお高めのワインボトルには目もくれず、なおかつ目の前で立ち尽くし単位が足りなくてどうしようもないです、と情けない説明をしどろもどろに連ねる俺にさえ視線をやることなく、やつれ顔が特徴的なこの柊客員教授は厳しい現実を俺にきっぱりと突き付けたのだった。
「確かに、だ。君たち学生の間では…小田教授が物で釣られ単位を与える愚かな教員であるといった話がまことしやかに囁かれているのも事実。無論、根も葉もない噂話ではあるが…」
噂といえば。今に口が回り始めくどくど理屈っぽく話し出した柊教授も話がつまらなくて長くて眠くなるともっぱらの噂だ。どうやらこれは事実のようで、小田教授の悪口なのか褒め言葉なのか分からない謎の話も交えながら、彼が担当している倫理学の説明から大学のシステムにまで風呂敷を広げ出した。面倒にも程がある。
話半分に聞いたりそれっぽい真剣な返事のふりでやり過ごし始め、どうやってこの留年の危機を楽して脱そうかと思案を巡らせ出した、ちょうどその時だった。
ふと、さりげなく目をやった教授の首元。高い襟の内側ギリギリから覗く、インナーのような……鈍いツヤの……レザーの首輪、?
「……君。おい、君」
何度目かの呼びかけで、ようやく俺はハイ、と返事をする。厳密には呼びかけではなく、ついに教授が俺の方に顔を向けてきたために視線の先のそれが見えなくなったから気が付いた、と言える。
教授と目が合う。凍てつく焦茶の瞳が俺の身をまっすぐ貫き射抜く。無言の時間が流れて少し、やがてゆっくりと彼は優しく目を細めた。
厭世的で枯れ木のような、しかしどこか影のある美しい顔だと思った。
この官能なる魔性の一瞥は、俺の何か、あるいは何もかもを瓦解させてしまったのだった。