『デッドプール&ウルヴァリン』自由奔放なようで、「ああデッドプールですらこれが精一杯なのか……」と感じてしまう部分は正直あったなと思う
確かに、TVAをディズニー自身に見立てるメタファーは巧みだった。「ウルヴァリンが死んだんだからアース10005(=FOX)は終わり! デッドプールは人気出そうだから神聖時間軸(=MCU)に迎えてやるよ!」という帝国主義的なパラドックスのスタンスに対して、「『世界』に大きいも小さいもない、身近な誰かを救うことがそのまま世界を救うことに直結するのだ」と回答することで、ウェイドのドラマだけでなく、デッドプールのMCUにおけるポジションそのものを示し、ひいては過去のマーベル映画たちをも肯定するという構造になっている……一応は。
しかし、これらの構造がちゃんと機能する作りになっていたかというと、自分は厳しい部分があったと思う。
まずウェイドのドラマとして、つまりデッドプール3作目として捉えたときに、1、2作を通じてあれだけ作品の核に据えていたヴァネッサとの関係が破綻しているところから始まるのだから、ここはどう考えても腰を据えてドラマ的決着を描くべきだと思う。しかし最終的な印象としては、なんだか結局サブプロット的な扱いだったな、という感じだった。「やっぱり友達と食卓を囲めるこの世界があることって幸せだよね!」って、それは冒頭時点で分かりきっていた話ではないのか?
もちろん、自分が嫌いでなんとか自身の価値を証明したいと考えていたウェイドが、心の底から何かを救いたいという動機で動くこと、それだけで十分なのだと実感したというところに要点があるのは分かるが、そのあたりの話が「マドンナの曲がかかれば最強なんだよ!」というノリで流されてしまったように思う。少なくとも前2作は、ふざけたことやってるけど軸にはちゃんとしたドラマが一本通っている、という作りが美点だったはずなのだから、ここはスカさず真面目にやってほしい。たとえば、今回の働きによって、結果的にデッドプールがアース10005をはじめさまざまな「マーベル映画」アースのアンカーになったよ(=デッドプールを通じて、マーベル映画は忘れ去られない存在になったよ)というロジックをつけた上で、「ウェイドは結果的にヒーローたりえたのだ」ということを示すとか、それくらいはやってくれても良かったのではないか。ラストの、なんか知らんけど世界は修復されました! はい食卓囲んでイイ感じのナレーション! みたいな処理には雑さを感じた。
もっといえば、本作によってデッドプールのMCUに対するスタンスも示されたはずで、即ちそれは「MCUとか知るか! 俺は俺の世界でよろしくやる!」ということだったはず。実際、本作はMCUに属している一方でどのフェーズにも属していない、という考えを制作側が述べている。つまり、この無茶苦茶になったMCUを立て直す役なんて担う気はなく、冒頭でハッピーが述べていたように、彼には彼の「ちょうどいいポジション」があるのだと。しかし一方で、この作品は明らかにウルヴァリンをはじめとするFOX作品のキャラクターに依存する作りに(結果的に)なっているし、なんならFOX追悼映画という側面の方が強い。ここにチグハグさを感じるのだ。
その歪さが、デッドプール&ウルヴァリンというバディそのものに表れていたと思う。つまり、メタ視点から全てを相対化してしまうキャラクターであるデッドプールの横で、切実なドラマを真面目にやり続けるウルヴァリンがいるという構図だ。言うまでもなく、ウルヴァリンの「もしあのときこうできていたら」という想いは、そのまま「もしFOXが買収されていなかったら」という意識にも通じてくる。つまり、作品としてはウルヴァリンのドラマを通じて「選ばれなかった過去」に対するケジメをつけるという大いに切実なテーマをやろうとしているのに、その横には常にそれを俯瞰してときには茶化すデッドプールが居るのだ。
ここが結局うまくまとまらなかった印象だった。せっかくウルヴァリンがあの黄色いコスチュームに身を包むまでの理屈づけをしっかりやっろうとしてくれているのに、作品の大半がデッドプールとのイチャつきや、レガシーのキャラクターたちとの珍道中に消費されてしまうのが勿体ないと感じてしまうのだ。
結果、「過去を修正する必要はない、どんな形であれ過去が今を作る」というテーマがビシッと通った感じがしない。レガシーのキャラクターたちは、もちろん本人たちが演じて登場してくれたこと自体は嬉しいが、やはり彼らの「選ばれなかった過去」としての切実さを感じたかというと、ネタ的に消費された印象の方が強くなってしまっていると思う。もちろん、そもそも彼らを登場させられたのは、ネタっぽくイジれるデッドプールだからこそなので、ネタにすること自体は問題ない(なので『NWH』と比較する気はさらさらない)のだが、やはり最終的には「彼らは『選ばれなかった過去』などではないのだ」というところに最大のエモーションをぶつけて欲しい。しかし、結局は雑魚敵とアクションを繰り広げて終わってしまう(仮面ライダー映画のカメオ出演を想起させた)し、それすらその後のほぼ意味のないデッドプール軍団とのバトルなどの前振りでしかない。たとえば、ローラを出しておいてウルヴァリンと連携アクションを一切繰り広げないあたりなどはビックリした。そういう「ああこの人たちはちゃんと存在しているんだ」という実感を、キャラクター同士の交流やアクションで見せてくれてこそ、カメオは活きるのではないのか? その割にラストでしれっとローラが食卓にいるので、なんだかなぁとなる。
その観点でいうと、本作のヴィランがカサンドラであるというのもしっくり来ない。この構造なら、たとえば自身を忘れ去られてしまったヒーローであると思い込んで闇堕ちしてしまったレガシー作品のキャラクターをヴィランにするなどした方が自然だろうと思う。そこで「自分は忘れ去られたキャラクターなんかじゃなかった」と自覚したヒーローたちがそのヴィランをヒーローサイドに引き戻し、彼らを虚無空間に閉じ込めていた真のヴィラン(パラドックス)と対峙する……という筋の方がしっくり来る(そもそも、レガシー作品のキャラクターを勝手に虚無空間に捨てられたキャラクターとしているのも自分はあまりいい気持ちがしないので、「実はこれは虚無空間ではなく、パラドックスが計略のために用意した〇〇だった!」みたいな展開だと嬉しかったのだが)。しかし、本作はカサンドラという新キャラをヴィランに置いたことで、結果的にヴィランとしての切実さがかなり薄くなってしまうし、終盤ではデップーらに説得されたかと思いきやまた一波乱起こして……みたいなよく分からない動きをさせられてしまっている。この辺りのおかしな展開については、裏側のゴタゴタを感じたポイントの一つだった。
もっといえば、いくらデッドプール自身はMCUなんか知るかスタンスとはいえ、マルチバースモノに対する自己言及はしれっと入れていたりするわけだし、もうちょっとMCU自身について踏み込んでも良かったのではと思う。そもそも、レガシー作品よありがとうみたいなことを言ってる割に、『ワンダヴィジョン』では適当にクイックシルバー出してきたよなとか、『MoM』ではチャールズやら何やらをああいう扱いにしたよなとか、自分は色々と引っかかる点があった。その意味でも、やはりフェーズ4以降のMCU含めてデッドプールにイジってもらうことは必要だったのではと思う。何ならカーンのアレコレにも触れて、マルチバースサーガは一旦考え直すわ、くらいの宣言をしてしまっても良かった。そのあたりのゴタゴタしたMCUも拾って、「神聖時間軸だって決して完璧ではなく、それも含めてレガシーから続く過去の集積なのだ」としてくれた方が諸々丸く収まったのではと思うし、打ち出すテーマも補強されたと思う。もちろん、直近の出来事を作品にどこまで盛り込めるかというのは物理的な限界もあるだろうが、パンフレットで述べられているように、本作は編集段階でセリフの再収録をすることがよくあって、つまり映画の公開までの間にデッドプールのジョークの内容を差し替えることだってできたはずなのだ。しかし、「マルチバースモノは失敗作が多い」「いやエンドゲーム以降は調子いい!」の二言が限界なのである。ここに自分はむしろ制約を感じた。
斯様に、デッドプールの3作目としても、X-MENの橋渡しとしても、マーベル禊としても、MCUイジりとしても中途半端な印象を受けたというのが正直なところだ。結果的にそれは、単体の映画作品としての行き当たりばったりな冗長さとしても出力されてしまっていると思う。そうなると、映画としての自由さ奔放さ切実さよりも「MCUがリアルタイムでめちゃくちゃゴタついている中でなんとか形にしました」という器用貧乏感の方が出てしまっていて、それを本来、自由で奔放で切実なキャラクターであるはずのデッドプールの映画で感じることで、自分はむしろ背景にある諸々の制約を察してしまった。
そう考えると、ライアン・レイノルズは本当にとんでもなく難しいお題に挑んだと思うし、今このタイミングでデッドプール3作目をやることの意義をかなり考えたのだと思う。その点についてはお疲れ様でしたとしか言いようがないし、実際、満を持しての黄色いコスチュームのウルヴァリンをはじめ、「夢の企画実現」の側面は大いにあった。現時点ですでにとんでもないヒットになる予感も大いにある。しかし一方で、「裏側」をイジれるはずのデッドプールの映画を観ることで、むしろMCUの今の状況を作り出した要因を色々と感じてしまう作りだったのは、なんとも言えない気持ちになった。