岩下悠子さんの『漣の王国』読んだよ。序章+短編4篇+終章のオムニバス。「こう繋がってくるんだ!」っていう『水底は~』より話のミステリー色が濃くなった構成。修道院のお話が一番好き。以下、ふせったーネタバレあり。
あらすじとかに関しては、検索した方がいいということに気づいた。
【ネタバレ薄めの感想】
個人的に『水底は~』は、1つ1つの話がどうこうというよりは、全体的な雰囲気とか、最後の話の締めがよかったなぁという「5つの話ですべてで攻められた」感が好きだった。
『漣の王国』も序章+4つの短編+終章で構成されていて、オムニバス形式で話が繋がっている。ひとつひとつの話のミステリ成分も濃くなっていて、最終的には「話がこう繋がってくるんだ!」となる巧みな構成。
それだけに、4つの話をひとつの作品ととらえた時の、「『漣の王国』という作品がぶん殴ってきたぁー!」感は、『水底は~』に比べると薄かった。いや、『水底は~』が、個人的に衝撃だったってのはあると思うんだけどw
『水底は~』との共通点は、「人の心の謎」に迫るミステリーってこと。『水底は~』の場合それだけに、謎に確かな答えが存在しないことがひとつのメインテーマのようになっていたけど、『漣の王国』のお話は複雑に絡み合う要素はあれど、答えとなる真実がある。まぁ、根底にあるのがひとりの青年の自殺という事件性ありありの話だから、前提の雰囲気が全く別種のものってのはある。
どの話も事前に提示された描写からどんでん返しが描かれるんだけど、それが一番鮮やかだなぁと思ったのは修道院のお話かな。本当に盲点を突かれたって感じだ。「なんで気付かんのだ!」って自分を責めたくなる語り部の彼女に感情移入しちゃうぐらい。
全編通して描かれるテーマは、「信じることの強さ」なのかな。全ての話でモチーフ以上の存在感で描かれる宗教色もまた、「信じる」ことで力を増すもの。
異国の留学生と関わった女性のお話で強く描かれるとおり、信じることは日々の継続した反復行動であり、それが自分を強く正しく支える柱になり、いつしか自分を変身させる力になる。『漣の王国』の根底に存在する「綾部蓮」にはその柱が存在しなかった。だから美しくもうつろなまま、変身できずに終わってしまった。
作中では信じる故の盲目や、結ばれなかった愛も描かれるけども、そこでそれぞれの人たちの人生が終わるわけではない。その続いていく道のりこそが、何よりも尊いものだ。そんな作品でした。
小さな国の王様がうつろな王冠を抱えたまま命を終えたことが何より辛いんだけど、彼はどうすればよかったんだろうなぁ。
【各話メモ】
・スラマナの千の蓮
全編読み終わった後だと、瑛子さんの存在が尊い。猫堂くんがなんだかんだ心酔するのもわかる。日常的に継続した反復動作の尊さを一番わかりやすく描いているのは、この話なんだろうなぁ。
それだけに、この話の語り部であり親しみやすいキャラクターをしているはずの瑛子さんに対して、終章の頃には「それこそ仏のように尊く、遠い存在なのでは?」と感じられ、逆にエキセントリックな存在として出てきたはずの猫堂さんこそが、最終的には一番俗っぽく身近な存在なような気がしてくる逆転現象の不思議。まぁ、「尊い存在に恋している」と考えると、猫堂さんがエキセントリックなのは最後まで変わってないと思うけど。っつーか、最後の方でマトモな顔してもこの話でぶっ飛んだことやってんのは変わらないからな!
瑛子さんと猫堂くんのコンビの掛け合いがコミカルだったから、「おっ、この作品はこういうノリでいくのかな?」と思った。違った。でもこのコンビの掛け合いがこの作品における一服の清涼剤になっていた。瑛子先輩が内心で色々感じつつもカラッとした雰囲気でビシッとツッコんでくれるからかな。よかった。
・ヴェロニカの千の峰
上でも書いたけど、盲点をつかれた!ってなるミステリーの仕掛けだった。「言われてみれば……」っていうか。手がかりはほぼ事前に提示されてたのに、真相にたどり着けるかって言われるとできない。
「信じること」の表裏一体を一番描いていたのは、この話だったかもしれない。信じることは強く美しい。でも、使い方を間違えると自らを蝕む劇薬にもなる……っていう。本当、事件にならなくてよかったよな。危なかった。
・ジブリルの千の夏
一番平和な話だった。いや本人たちの心情としては平和じゃないんだけど、命がどうとかそういうのが一番薄かったからな……(ないとは言ってない)
あと、人の繋がりの儚さも、それ故の尊さも、この話が一番色濃かったと思う。既にある程度の幸福がある彼女が語り部であることが、安心感とともに寂しさもあって。
・きみは億兆の泡沫
一番、『水底は~』に雰囲気が近いような気がするこの話。そして今までの話の根底にいた「綾部蓮」をひっくり返す話。
人の欲や弱さ、脆さ。「じゃあどうすればよかったのさ」というやるせなさ。
時間は巻き戻せないし、やり直すのは簡単じゃないけど、じゃあ彼はどこでやり直せばよかったんだろう……と考えちゃう話だった。
あの、ひたひたと迫るような、妙に呼吸が重くなる不気味さは、京都舞台とか宗教的描写からだけじゃなく、人の脆さ故の狡猾さとか浅ましさ、それらを全て見透かした上で超然とある「もの」の存在感とかが作り上げているのかなぁ。
【ネタバレあり簡単メモ】
・仏師としての血が疼き、自らの医療知識で瑛子先輩を掘り出す猫堂くんの描写が仄かに官能的。これが……フェチズム……!?
でも瑛子先輩には男女としての感情がない(或いはごく薄い)から、いやらしさがあまりない。
しかし最後の話で、猫堂くんには(たとえ仄かでも)男女としての意識があることが判明。瑛子先輩の身体にときめいてんじゃねーよ。
なのにお前、あんなことやそんなことしたんか! 相手が瑛子先輩でよかったね! 末永く定期的にはっ倒され続けろ!
思えば『水底は~』の美山監督と鷺森さんも男女としての意識は男>>>>><<女くらい差があったし、「女性の方が異性の相手を意識しない」ってのは、男女コンビが上手くやっていくための秘訣かもしれない。
・美山さん。監督じゃないすか。
ぶっちゃけ、『水底は~』だけだと「作中では可愛がられてるけど、この人も大概やべーな」とか思ってたんだけど、今作でちらちら描かれてる分には、確かに人好きそうな可愛がられやすいタイプだと感じられた。あのヤバさはじゃあ、鷺森さんが揺さぶったせいってことで。
っつーか、童顔・小柄・巨乳に加えて色白で表情がころころ変わる甘え上手って、オタクを絶対殺すヤツじゃねーか! 鷺森さんの好みが大概陰キャのオッサンじゃない!?(風評被害)
・美山監督以外にも『水底は~』に出てきた人や場所、ものが。骨董品屋の主人とか。
で、やっぱり狐塚教授って、「鯉師」さんなのかな。どうなんじゃろ。端正な顔立ちで鯉を意味なく弄ぶみたいなところは共通点だけど。
まぁでも、同じようなポジションではあるのかな。人と人外の間に立ってそうみたいな意味で。人を誑かし、道を外れさせようと誘惑するもうひとつの化け物。「狐につままれた」って意味では、『漣の王国』の人たちも『水底は~』の鷺森さんも変わらん。だから、狐塚教授と「鯉師」さんが同一の存在なのかどうかってのは、野暮な話かもしれない。存在として相似であるという感じなのかも。