「アンカーボルトソング」がすごかったという話。
アルストロメリアの「アンカーボルトソング」すごかったです。いつもいつも感想とか書くときあんまり長く書かないで簡潔に書きたいって思うのに長くなってしまうので、今回こそはあんまり長くならないように書きたい……と思います。ただ感想書くのってやっぱり苦手で、心の中ですごい感動したりしても、それを文章にするとなんだか別のものに変換してしまっているような、なんだか粉飾してるような気持になって、出来上がった文章が抱いた感動そのものとは全く違うものに変わっちゃってるような変な居心地の悪さを感じることが多いです。感想が面白く書ける人、本当に尊敬しています。
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「アンカーボルトソング」、一番感動したのは、「匂わせ」のところでした。「匂わせ」って、一般的にはあんまり良いものとされていないわけです。付き合ってるのを「匂わせ」てるとか、不倫を「匂わせ」てるとか。「こいつ匂わせてる」って言われたら、それは非難の言葉です。
今回アルストロメリアの3人はかなり売れ始めてソロの仕事が忙しくなってきてる。そこでアルストロメリアのメンバー以外の人との仕事が多くなってきてて、アルストロメリアのメンバー以外の人との関係が「匂わせ」られている、とファンの人たちは不安を抱いてしまうわけです。ところで今回もこういうSNSのファンの人たちの言葉がずらずらと取り上げられる場面があって、シャニマスのユーザーである私たち自身の姿を改めて鏡映しに見せられているかのような気持ちになります。シャニマスはこういうことをする。
で、3人は互いの忙しさに気を使ったり、自分自身の時間のやりくりをうまくできずに、互いの気持ちのやり取りをすることができない。3人が3人、自分たちのことを思い、アルストロメリアのことを思い、アルストロメリアに期待と不安を抱いているファンの人たちを思い、悩みます。
ファンの人たちが望んでいるのは、アルストロメリアの3人の活躍を見ること、だけでなく、アルストロメリアという3人そろった姿でもありました。3人ともそれを理解しています。それは自分たち自身もまた、それを望んでいるからかもしれません。その悩みを知ったプロデューサーは3人のために仕事を用意してくれた上、その準備の時間として3人だけの自由な時間も与えてくれました。3人が好きに使っていい時間です。そこで3人が出した答えが、「匂わせ」でした。3人が一緒にいるということを、ツイスタに投稿して「匂わせ」よう、と。同じ場所の写真を撮って、同時に投稿する。そうすることで、見ているファンは、アルストロメリアの3人が一緒であるということを推察することができる。私が一番感動したポイントはここでした。
なぜ感動したのか。うまく言葉で説明できないのですが、3人がそれぞれ写真を撮って投稿して、その投稿された写真を重ねて見ることによって、3人が一緒にいるということが示される、というその示し方に一番感動したのだと思います。
3人が一緒にいるということを示すのなら、3人の集合写真を自撮りで撮ってそれを投稿するっていう方法もあったはずですが、そうはしなかった。3人がそれぞれ自分で写真を撮り、しかしそれは同じ場所の写真であるということによって、3人が一緒にいるということが浮かび上がる。3人が一緒の写真に写るということに対して、空隙がある手法であると言えます。そこがすごい。
3人は一緒の写真には写っていない。1人の写真を見るだけでも、1人の投稿を見るだけでも、3人が一緒であるということは読み取れない。3人それぞれの写真を、3人それぞれの投稿を見ることによって、初めて3人が一緒であるということが示される。しかもそれは、「示される」とか「浮かび上がる」でしかない。3人の投稿は同じ時間になされたものであり、その写真は同じ場所を写しているのだから、3人は一緒にいるに違いない、というところまでしか言えません。しかし3人の投稿も写真も、どこを見ても、3人が一緒であるということは事実としては書かれていない。これこそが「匂わせ」。
もちろん一般的に「匂わせ」は、投稿者によって意図的になされたものも少なくないと思われます。写真に何を写りこませるか。どんな時間に投稿するか。写真にどんな言葉を添えるか。これらは投稿者によってコントロールできる部分です。ですが、だからといってそれらのどこを見ても、そうであるという事実は書かれていません。だからこれはある意味では受け手の受け取り方次第でもあります。だから「匂わせだ!」というファン受け取り方自体が、誤りである可能性もあるし、「匂わせだ!」というファンの投稿が非難になってしまう場合もある。
実際こうしたファンの投稿が、アルストロメリアの3人の心を悩ませた一因となりました。しかし3人が出した答えは、この「匂わせ」を逆手に取るという方法だったのです。自分たちを困らせたものを逆手に取ることによって、その問題を打開する答えとする、というやり方もまた、感動的なポイントです。
感動感動と言っていますが、「感動」という言葉ではやっぱりなんかそぐわなくて、適切な言葉を見つけたいのですがうまく言えません。思考が追い越されるような速度というかドライブ感というか、そういうすごさがあります。「明るい部屋」で感じたものもこういう類のものでした。
どうして3人一緒の集合写真ではなく、「匂わせ」でなければならなかったのか。それはやはり空間的に別々の場所にいたとしても3人は「一緒」であるということを表現できるから、ではないかと思います。3人一緒に1枚の写真に写るというのは、時間的空間的に1つの場所に3人がいるということを示すことはできますが、逆にそれ以外の時間や空間にはいることはできません。しかし「匂わせ」ならば、(時間的)空間的に別の場所にそれぞれがいても、「一緒」であるということを示すことができるわけです。
「匂わせ」をしたときは、実際には3人は同じ時間に同じ場所にいたわけですが、写真はそれぞれが撮影したものですし、投稿もそれぞれがしたものです。投稿時間も、写真に写された場所も同じですが、でもそれらのことは、同じ時間にアルストロメリアの3人が同じ場所にいる(いた)こと、同じ時間に3人が同じ場所を撮影したこと、を示すわけではありません。でも、それでも、この投稿と写真は、3人が一緒であるということを「匂わせ」る。それはつまり、3人が空間的に別々の場所にいたとしても、「一緒」だということが可能になるということです。それゆえこの「匂わせ」は、ファンのためのものでもあり、アルストロメリアの3人のためのものでもあった、と言うことができると思います。
この「匂わせ」のところが個人的に最も感動したところでしたが、他の多くの人も同じようにここに感動したのかどうかは私には分かりません。この「匂わせ」の演出は、「明るい部屋」にける時空間を超えた部屋の繋がりという話に連なるところであると思います。「明るい部屋」で一番感動したところもこの部屋の繋がりという話だったのですが、「明るい部屋」に関しては多くの人の関心は天井社長の過去やはづきさんの方にあったようでした。「アンカーボルトソング」に関してはどうなのでしょうか。でもどこに感動するかは人それぞれで全然いいと思っています。
しかしとはいえ、「アンカーボルトソング」の「匂わせ」の部分はこのシナリオの要なのではないか、ということをイベントSSRの【ever-】を読んで感じました。3つ目のコミュ「ポーチできたの☆」です。このコミュでは、千雪と甜花がコミュのメインとして登場します。2人とも仕事がうまく行っていません。その中で、化粧を直そうとして化粧ポーチを開きます。それは甘奈がプロデュースしたポーチです。ポーチには仕掛けがありました。底に文字が書かれています。それは3人が「匂わせ」をしたときに、3人それぞれが投稿した言葉でした。3人は空間的に離れていても、「一緒」であるということが、ここにも現れているのです。
~ 追記 ~
この「匂わせ」の手法、重要に思われるのは、(1)1枚の写真に3人揃って写っているわけではないこと、(2)写真と投稿を単独で見ても3人が時空間的に一緒の場所にいるという事実はどこにも書かれていないこと、(3)それでも3人の写真と投稿を重ねて見ることでそこに3人が一緒にいるということが示されるということ、ではないかと思います。3人が一緒にいるというのは「事実」ではなく、「匂わせ」られるだけ。
こういう風にして「匂わせ」られる「一緒」さは、時空間的に同じ場所にいるということではなく、それぞれが空間的に別の場所にいたとしても繋がっているということです。そしてその「一緒」さは「事実」として書かれているものではなく、目に見える確かなものとはちょっと違う何かであると思います。
アルストロメリアのファンが作成して投稿したスライド(おそらくインスタのストーリー的なもの?)は、確かにアルストロメリアの3人にとっても、ファンにとっても、素晴らしい思い出です。これは推測が混じるのですが、コミュの演出から考えると、このスライドに用いられた写真(あるいは画像)に写っているのは、おそらく3人が一緒の仕事の場面や、ツイスタなどに投稿された3人揃ったプライベートの写真ではないかと思います。
スライドに写された姿はアルストロメリアにとってもファンにとっても素晴らしい思い出であり、ファンはこの姿の継続を望みますが、これは過去の姿。しかし今はソロの仕事が活発になっています。これも3人にとってとても大事なこと。そしてその先に出された答えが「匂わせ」でした。「匂わせ」で示された「一緒」さは、皆が思い出として大事にしている3人揃った姿からはみ出しています。ファンが望んでいるのはおそらく、3人が同一のフレームに納まることではないかと思われるからです。
シナリオの最後では、3人揃った仕事が用意され、3人揃った姿をファンの人たちにも見せることができました。これはアルストロメリア3人にとっても、ファンにとっても、とても嬉しいことに違いありません。ですが、これは「やっぱりソロの仕事よりも3人揃った仕事の方が良い」みたいなことを示すのではない、と思います。それは何よりも、「匂わせ」によって、時空間的に同じ場所にいなくても3人は繋がっているということが可能になったからです。ソロの仕事をしていても、同一のフレームに納まっていなくても、3人は「一緒」であることができる。
そして、この「匂わせ」それ自体もまた、1枚の写真に納まるものではありません。「匂わせ」は、同じ場所を写した写真を同時に投稿するというその行為そのものが発することです。これもコミュの演出からの推測ですが、投稿された写真はただの風景写真ではないかという気がしています。そうであるとするとこの「匂わせ」それ自体は、シナリオ最後の3人の仕事の際にファンが撮影したような写真や、ファンが作るスライドに用いられる写真のように、目に見えるひとつのものとして残るものでもないと言えます。その点においても、今が写真によって思い出になってしまうということに対してはみ出していく、先へと進んで行くということを示し得ている、と考えられます。
面白いのは、写真によって今が思い出になってしまうという問題がある所に対して、写真を投稿するという行為によってその問題を打開しようとしているように見えるところです。写真の問題を写真によって、その投稿行為によって打開するという、問題を逆手に取る打開手法がここにも見えるような気がして、とても面白いのです。
~ 追記終わり ~
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「匂わせ」とは違う話題でもう1つ。今回の「アンカーボルトソング」は、変わっていくことがテーマになっていました。一般的に言ってファンにとって、アイドルやアーティストが変わってしまうということは必ずしもポジティブなこととは受け取られていません。アイドルやアーティストに対して変わらないでほしいと願うファンは少なくないですし、アイドルやアーティストが変わってしまったということによってファンを辞めてしまうということもあります。「アンカーボルトソング」はそうした難しいテーマを取り上げたシナリオでした。
提出された答えとしては、変わらないでいるためには変わっていくことが必要、という逆説的な答えです。変わらないでいるためというのは、アイドルとしてユニットを維持するということであり、そのために変わっていくということはさまざまなことを経験してそれを糧にして進んでいく(安易に「成長」とは言いたくないところです)ということではないかと思います。
シャニマスは、作中にファンやオタクを登場させることが多いですが、その解像度が高いというか実在感が高いというか、そういうところに特徴があります。いわば作中に登場するファンやオタクの姿において私たち自身の姿を鏡映しに見せられているような気持ちにさせられるわけです。そう考えると、変化していくアルストロメリアに対していろいろと思ったり言ったりしてしまうファンの姿は、そのままコンテンツに対していろいろと思ったり言ったりしてしまうファンたちの姿として見えてきてしまいます。
「アンカーボルトソング」では、アルストロメリアというユニットは思い出の中でなければ永遠には存在しないだろうということが示されています。おばあちゃんになってもアルストロメリアでいたいと千雪は言いますが、そう願うだけではそれは叶わない。アルストロメリアというユニットはいつか終わるかもしれない。可能性としてだけでも、終わりの存在が示されるということは大きいことです。
ユニットの変化と終わりの可能性に加えてそれに対するファンたちの態度が描かれるというところから、コンテンツそのものの変化と終わりのことを考えたくなります。こういうことを描くというところに、ファン(ユーザー)に向けた挑戦的な問いかけを感じます。
個人的には、シャニマスはコンテンツとして盛り上がりのピークを越したような雰囲気を感じています。それは3周年を迎え4年目に突入してもはや新規コンテンツではなくなったということや、ウマ娘などの新しいコンテンツが登場してユーザーの興味が移るなどによっていることです。これはどうしても仕方がないことですし、シャニマス自体でどうこうできることではありません。
こうした状況の中で、終わりの可能性が存在するということ、変化していくことを描いた「アンカーボルトソング」を提示したということはかなり意義のあることだと感じています。シャニマスは変わっていく。そしていつか終わる。一番盛り上がっていたときの自分たちの姿に固執したりはしない。「アンカーボルトソング」を読んで、作っている人たちもそういうことを意識しているのかなということが感じられて、私もまだシャニマスを追いかけていきたいという気持ちになったのでした。