ドクターストレンジMOM、ストレンジと今回の悪役ワンダが、その発想に至る理由は別でも、両方周囲をコントロールしたがる悪癖を持っているところに脚本の巧みさがあると思うんですね。別次元の自分を操る魔術はそのメタファーでもある
※これ書いてる人はワンダビジョン見てないよ
ですが、そのべつべつのコントロール欲求が、男女それぞれのステロタイプに投影されているところが、この映画の面白いところであり、まずいところでもあると思えました。
ストレンジ先生の場合劇中でも言われるように「メスを他人に握られることが許せない」人ですよね。自分の能力が一番優れていると確信しているし、自分の判断が一番「理性的」で正しいと思っているので、態度はやんわりとしていても結局他人の意思を「だがどう考えても私の判断のほうが正しいはずだ」と尊重しない。だからパートナーは「どうせ私にも何も任せてくれないんでしょ」とがっかりさせられて、心から彼を信用することができない。彼と付き合えるのは「お前が天才だと?バカ言え、ソーサラーシュプリームは俺だぞ」とストレンジにちっとも劣等感を抱かずライバルとして張り合えるウォンくらいなわけです。(アイアンマンとの違いは、あっちが自分の意見が通らない場では政治的にリーダーシップを取りに行くのに対して、こっちは「じゃあ好きにするさ」と動くところかな)これはまあ典型的なモラハラ彼氏像ですね。
ワンダの場合はいわゆる過保護ママです。我が子のためなら他人はいくら犠牲にしてもいい、そんな自分の醜さは我が子には決して見せないよう、何からも守り抜いて育てていく…別の世界の幸せなワンダ・マキシモフが常にリビングとベッドルームにいる姿しか描かれないのが示唆的ですが、彼女の理想の世界は常に家の中にあるんですね。子供は常に家の中に置いておきたいし、家の外は子供にとって有害だから存在しないものとして扱う。「理想の幸せな家」に子供を囲い込むためにあらゆる邪魔を排除するのが彼女の欲求になります。(この映画にはもうひとり「親を持つ子供」としてアメリカが登場しますが、事情こそあれ彼女が多様な異世界への冒険がへっちゃらなタフな子供として描かれるのは皮肉ですね)
この映画は後者のワンダを、自分の悲しみに耽溺するあまり他人の痛みがわからなくなった怪物として描きます。ですが、それは必ずしも強烈な母性愛と家庭内規範意識とを"一方的に"「理解不能でおぞましいもの」と描くものではなく、前者の恐ろしさも描くことでバランスを取ろうとはしていると思えます。
それが作中で訪れる2つの世界で、2つの世界ともに己のエゴイズムによって宇宙を滅ぼしている別宇宙のストレンジの描写です。1つめの宇宙では仲間を信じずに秘密裏に闇の魔術を用いて別宇宙と交信しサノスへの解決策を探った結果、宇宙同士の衝突による宇宙崩壊を引き起こしました。2つ目の宇宙ではもっと露骨で、この宇宙の彼は「自分はどうしても、どんな方法でも愛した人をパートナーに得ることができない」と絶望するあまり、別次元の自分をその絶望から解放するため殺して周り、そのために1つ目の宇宙同様宇宙崩壊を引き起こしています。
2つ目の方は明確に「ストレンジもワンダのようになっていたかもしれない」と悪役を主人公の鏡像に見せるために挿入された描写でしょう。愛する人を失った絶望で大量殺戮を犯してしまう、というさらなる共通項が二人の間に生まれています。その殺戮はもとを正せば彼の「自分が事態をコントロールしなければ気が済まない」欲求から来ており、これもワンダが世界を自分のうちのリビングのように扱うのと何が違うのか、という話なわけです。
これはお手本のような脚本術ですが、ここに一つ問題があります。「モラハラ気質でフラれた彼氏」と「(能力で生み出した想像妊娠のような子供とは言え)子供を失った母親」では明らかに後者のほうが事態が深刻なのです。
ストレンジはラストシーン、彼女からもらった思い出の、しかし壊れて時を刻まなくなってしまった時計を修理して引き出しにしまい込み、装いも新たに通りに繰り出します。これは非常にわかりやすい「過去の出来事を思い出にすることができたストレンジは心機一転、彼自身の時間も止まったあの時から進み出せるようになった」メタファーです。…ですが、ワンダが同じ立場だったらそんなことできるわけないでしょ!?!?ここに鏡像の無理が生じます。
私が疑念を抱いてしまったのはそこなのです。これは男女の典型的な性質を対照的にとりあげて少々の滑稽さとともに悲しみを誘う映画です。その対照には性差別的にならないようバランスを取る意図があったのではないかなとも思います。ですがそれがかえって、「男のしょうもない哀しさ」と「女の情念のおそろしさ」があんまり不公平ではないかな…と、そんな疑念を抱かせる効果を生んでしまったようにも思います。