村正と蜻蛉切って何度も生まれ変わってるんじゃないのって話。
※ツリー形式が見づらいのでふせったーにまとめました。内容はツリーと同じです!
内容というよりは、村正双騎が刀ミュの世界におけるどのポジション、どういう時間軸にあるのかを考えたいと思います。ちょっと何言ってるかわかんない、って思われる可能性が大なのですが、よろしければお付き合いください。
ひとつの考えでしかないのですが、村正双騎は、村正と蜻蛉切の、前世、現世、来世という三世を描いているのではないかと思っています。
前世がみほとせからのあおさく、現世が村正双騎、来世が生まれ変わったのちのふたり、というとわかりやすいかもしれません。
なお、村正双騎とみほとせ・あおさくで描かれた内容はほぼ同じように感じられるので、前世も現世も、恐らく来世も同じことを繰り返しているともとれます。
ふたりが役割を分けあい、共にあることを選ぶ話として描かれる前世。前世からの縁で半座を分かち生まれ、役割を分けあいながら、共にあることを選んだ現世。そして、また前世からの縁をまとい共に生まれる来世。どれも双騎じゃん!って話です。
つまりは、前世、現世、来世のどれであっても、ふたりは共にあることを選び生きていく。そしてその縁をもって、生まれ変わってもまた共にあることを選ぶ。何度生まれ変わっても、村正と蜻蛉切は同じ選択をするのだと思います。そしてそれが村正派なのだと私は感じました。
なぜ共にあることを選択するのかは、内容に関するものとして、また別途言及したいと思います。ここでは、世界線の話に戻しますね。
何度生まれ変わっても共にあるということはとても美しいことですが、ふたりが生まれ変わるのはなぜなのか。生まれ変わるということは、一度事切れているということ。なぜふたりの行く末に終わりがあるのか。
それは、共にあることを決めたふたりの未来は、打ちきられてしまう世界線にあるからなのではないかと思い至りました。
まずは、あおさくで分岐した世界線が、江水で放棄されるのではないか、という前提から。私はあおさくがひとつの分岐点だと思っています。詳しくは過去ツイのこちらで延々と述べてますので、よろしければ。
https://twitter.com/kmdwrohcielo/status/1663459529563205633?t=OVzwbVtlOSlDKzb7jFkQ3w&s=19
要約すると、あおさくでの愛を起点にして始まった世界は、のちの江水で打ち切られてしまったのではないかという話です。
あおさくで村正と蜻蛉切がどうなったかというと、「誰がために」を経て、ふたりは家族・ファミリーとして共に生きることを選択しました。村正双騎自体が「誰がために」を
体現しているように見えると前述しましたが、双騎の内容と同じように、あおさくの「誰がために」でも、村正と蜻蛉切は目に見えぬ絆を結び、体温を分かちあい、役割を分け合っている。いわば、ハッピーエンドを迎えた状態、「俺も村正だ!」を達成した状態です。
しかし、ハッピーエンドであるあおさくから続く歴史は、幕末時点、子守唄が終わる三百年の最後の時代に閉ざされ放棄されてしまいました。これの何が気になるかと言うと、あおさくから続く歴史は幕末で途切れるので、2205年に続いていないということ。言い換えれば、刀剣男士が顕現する2205年(正史)というのは、村正と蜻蛉切がハッピーエンドを迎えていない歴史の先に存在するのではないかと思ったわけです。少し飛躍するけれど、村正と蜻蛉切が共に生きることを選ぶと、その先に未来はないとも言えてしまう。
また、「俺も村正だ」と蜻蛉切が言う状態になることは、村正派にとってはハッピーエンドではあります。ただ、事象だけを見れば、「村正一派であることが立証されていない蜻蛉切が、村正作の槍であることを堂々と名乗る」という歴史改変が起きているわけです。このことも、世界線の分岐に影響を与えている可能性も考えられます。
村正双騎の森のようなセットには、倒壊した柱のようなものが何本もある。上部が刃物でスパッと切ったような形になっていることからも、私にはこれが途中で打ち切られた、放棄された歴史に見えたのです。
また双騎の中では、電子音や時間遡行軍の動きなどから、村正と蜻蛉切も通常の時空にいないような印象を受けました。もっと直接的に言えば、輪廻転生をしている、時間遡行をしているようにも感じられます。作品の中でも、宿世や巡る命に関する台詞・歌詞が盛り込まれていました。
何が言いたいかというと、双騎で描かれたように、村正と蜻蛉切がお互いを想い合い共にあることを選ぶ=あおさくの路線に入ると、その世界線はいずれ放棄され、閉じられてしまう。世界が終わってしまうことで途切れてしまった(事切れてしまった)村正と蜻蛉切は、また生まれ直す。そして次の生で、また共に生きることを選んでしまう。村正派のふたりは、この輪廻転生のような行為を繰り返しているようにも見えました。
また、双騎のラストシーンでは、作中唯一舞台が逆回転し、ふたりが進むのも上手から下手になります。この点からも、村正派は終焉を迎えたのち、時間を遡行して顕現時点に戻り、それを来世としてやり直しているようにも見えたんですよね。
こじつけのような話を加えます。
あおさくで「誰がために」が歌われる場面では、常に鶴丸がそばにいました。そして歌唱直後に、「そうだなあ…でも予想通りだ。驚きはしない」と発言する。ストーリーとしても台詞としてもおかしな点はありません。ただ、個人的に何となくひっかかっていたシーンではありました。
もし鶴丸が、世界線の分岐に気づいていて、さらにそれが村正と蜻蛉切の絆に端を発しているのだとわかっていたとしたら。常にそばに控えていたことと合わせて、この「そうだなあ…でも予想通りだ。驚きはしない」という台詞が意味深に聞こえてしまうのです。
村正と蜻蛉切が共に生きることを選んでしまう歴史が何度も繰り返されている。だからそれを知る鶴丸にとっては「予想通り」。もしかしたら、鶴丸はこの世界線がいずれ放棄されることすら予見しているのかもしれない、なんて思ってしまいました。
さらに言えば、何度も繰り返しているから、みほとせ・あおさく任務には検非違使が登場するとも考えることができてしまいます。
この説をもって見ると、繰り返しの原因でもあるふたりの絆を壊すことなく受け入れる鶴丸の格好良さに惚れ惚れしますね。
さて、前世、現世、来世でも、共にあることを選ぶ村正と蜻蛉切。しかしその愛によって世界は分岐して、のちに終わりを迎えてしまう。それは本当に、希望でもあり絶望でもあるのではないかと思えます。村正派のふたりは、この希望と絶望を延々と繰り返す、永遠の中にいるのかもしれません。
いずれ終わる世界なんて言うと、とんでもないバッドエンドに聞こえてしまうのですが。でもそんな「無窮の彼方に咲く花があるなら」、ふたりは生きていけるし、戦い続けられるのでしょう。共に生きることを選んだふたりは、お互いがいるから強くあれる。素晴らしい人生だと思います。
それに、こんな愛に満ちた世界を打ち切る時の政府が間違っているとなれば、きっと兼さんが「ぶっとばーす!」してくれるからね!!ね!!
横道にそれつつ長くなりましたが、村正派は生まれ変わりを繰り返してるんじゃないのって話はここまでとします。
あくまで私の妄想のひとつでしかないのですが、こういう見方もできるよね、という話として述べました。何度見ても違う見方ができるね、万華鏡だね、村正双騎。