さっき言った、シオラン読んでる火村さん妄想を格納しておきます。
アリスがシオラン『生誕の災厄』もしくは『涙と聖者』を読んで、火村の無神論者ぶりと、それでいながらある意味では神の存在を甘受してもいるようなあの態度が脳裏にチラつきつつ、自分がそんな世界に居場所を持てない感にちくちく傷ついて、ウッとなりながらも別日に火村にシオランを勧め、火村は火村でシオランを読んだら、「アリスってこういうの許容してしまう訳?」みたいな部分でぐさっと来る、みたいな二次創作が読みたいんですね〜(ヲタクの妄言)
アリスがシオランを読んで共感する部分があるとしたら、社会でバリバリと活動的に働くことはできない、どこかアウトサイダーとして独立独歩、自分の道を行く他に良い生き方がない、っていうその社会不適合感ゆえだと思う。つまりシオランの怠惰の思想に共感するという感じなのかなーって。
で、アリスがシオランを読む際に火村を思い出すのは、無神論的でありつつ神を渇望するような語りが随所に見られるからではないかと思うんだよね。『マレー鉄道の謎』冒頭では神の存在を容易に仮設し、また対峙するし、『インド倶楽部の謎』では生死を包む宗教性や神秘性にどこか救われるような面を垣間見せる火村なので、そういう二律背反というのか、矛盾を抱えながら佇立する彼のありようを思い出すんじゃないかなあ、などと思う。
また或いは反出生主義的な言説を読んで、火村はこの辺りについてどう感じているのかなあ、なんて思って胸を痛めていそうだなあ、とも想像する。
一方で火村がシオランを読む時、最も刺さるのは「自分は怠惰ではないが故に殺人を犯す人間に(より)近い」ということなのではないか。そしてこの怠惰をそれなりに実行している存在としてのアリス(それはもしかしたら火村には柔らかさとか優しさとかの形で感じられていたかもね)、という可能性に立ち至って、彼我の差にウッ、となるかもしれない。自分の意志の強さ、社会性の高さなどがそのまま殺人と直結している、人間狩りだってそうだ、などと自嘲するのだろうなあ。
またあるいは、「切り裂きジャック〜」と『朱色の研究』の結末の違いが、自分とアリスの違いであり、その違いとはすなわちこの怠惰からの遠さなのではないか、などと考えるかもしれない。
それと、「菩提樹荘の殺人」を前提にして、自殺に関してアリスを思い出すかもしれない。火村は一度も自殺したいと思ったことがない訳だけれど、アリスはどうなのだろう。消えてしまいたいと失恋した時思いはしなかったか。彼はミステリを書いて痛みを乗り越えようとしたというけれど、その痛みとはすなわち「死にたい」で、書くことは自殺の延期ではなかったか、などと考えて、何て声かけたら良いんだよ、と思いそうだし、オプティミストの癖にどうしてこんな暗い思想に共感してしてしまえるアリスって何…となったりしていそう。いや、火村から見てアリスはその辺りどういう風に映っているんだろうな、分からないけどさ…。
何か、アリスにオプティミストだって言う火村のその言葉は、そうあってくれとか、そのことは得難いことだよ、というような気持ち混じりなのではないかという気もするんだよね…。