設定資料集のウォロショウ話なのですが、イチョウ商会verに『パトソール制服着用ver』と添えてあるのが開発段階での名前なのか本名なのかはともかく、デザイン段階でひまわり、ないしは陽のもとに在るもの、であることは
明らかなわけですよね。
ところで『余所者』が跋扈し、自分たち生粋のシンオウ人は不当に扱われている、と感じている彼にとって、主人公はどのような存在だったのでしょう。
作中の描写から少なくとも、明らかに妬んではいますし、途中までは完全に利用していたわけですが、悪しからずも思っていたことでしょう。
最もわかりやすいのは彼との戦闘後のラベン博士との会話で、なぜかギラティナの意向を翻訳してくれてやったり、図鑑が完成することを楽しみにしてやったりしていることで、主人公がアルセウスと対面することを嫌うのならこれらは完全にその思考と矛盾した、意味のわからない行動・言動です。多少なりとも情が乗っていなければありえないと考えます。
その情はどこで?と考えれば、彼以外の登場人物が『知的好奇心』より『恐れ』を優先させる世界に於いて、『ポケモンに対する間違ったバイアスや恐れ』のない主人公と共に、赤い鎖やプレート集めにかこつけて神話を追うことはやっぱり楽しかったのかな……とも思うし、そんな『知ることへの恐れ』を持たない主人公が、『知ることを恐れる』愚かな余所者どもに、あろうことか未知を恐れるがゆえに排斥されかけたことに、自分を重ねて同情したのかもしれません。先の矛盾した言動や行動は、そうやって積み重ねられた情によるものなのかな、と。
そう考えるからこそ、ウォロさんへ抱いた信頼や親愛が大枠としてはマッチポンプであったと判明したあとも、個人的には彼を憎めないし、救ってあげたいとさえ思うし、ショウちゃんが眉下げて泣きそうな顔で彼を見送るのを見て、ま〜〜めちゃめちゃ心が痛みましたよね。髪型ダサいぞこのヤロー!
で、この話、実はアルセウスによってある程度は仕組まれたものなんじゃないかと考えていたりします。
アルセウスと来たら終始『すべてのポケモンに出会え』とばかりのたまうわけですが、そもそもなんでそんなことやらせるんですかね?
見渡してみると、今の認識よりずっとずっと攻撃的なポケモンたちにしろ、ずっとずっと恐れ過ぎな人間たちにしろ、前者の非科学的な力に、そして後者の科学的な力に、互いに恐れをなして距離を広げていて、すべての生きとし生けるものに共生を図らせるためにはその距離を縮める必要がある状態です。そして、それを実践する第1段階としてラベン博士という『人間』が図鑑の完成を通して『ポケモン』を知ろうとしているのは非常に良い試みなわけです。
一方で、図鑑の完成を実現させる力が足りなかったので、アルセウスは恐れのバイアスがなく、それを実現させうる力として主人公を招き、『すべてのポケモンに出会え』と言いまくった、のでは、と思う、のですが、そこんとこはっきりしてください神様。
となると神様視点で、主人公そのものがその時代の人間に恐れられてしまうことなんて、始まる前から予見出来うることじゃないですか?だとすれば、そのときに救いの手を差し伸べられるのは誰だろう?
答えは自明で、同じようにポケモンそのものや『知ること』に対する恐れを持たない人間、ウォロさんなんですよね。
ウォロさんはずっと独りだったと吐露しています──実際にはポケモンにも懐かれているのに目が曇っています──が、その独りの世界に、情を覚える存在が一つ出来たとしたら?
ウォロさんはギラティナを打破されたとき、『アルセウスはこのときのために主人公を喚んだのか』といったニュアンスの発言をしており、それも半分はそのとおりだと思います。
けれどもアルセウスという神にとって、ウォロさんも救うべき生きとし生けるものの一つなのです。主人公が喚ばれたもう半分の理由として、ウォロさんを救うという目的があったのではないかと、考察します。
クールダウンし、主人公に対する自分の矛盾した行動や気持ちに整理が付いたとき、アルセウスを信奉し、その御心を正しく推察してみせさえする彼がその可能性に行き当たっても全く不思議ではありません。その時こそ彼は救われるのでは……。願望込みですが。
すなわち、『陽のもとに在る』彼が救いを見出すことが出来るとしたら、まさに『照らす』者であるところのショウちゃんテルくんになるのだ、と考えたとき、命名が上手すぎて驚きます。
などと自分の好きなcpをくっつける大義名分を得るためにキョダイカイシャクを展開する早口オタクでした。ここまで17秒で喋っていますし好物はダイスープです。結局ほとんど支部に投下した文字列の再放送だし語彙はワンパターンです。