ホラー短編二つ目、前回よりは怖いと思います。日下部と日車が野球中継を聴きながら山で呪霊を探します。CP要素は無いですがやや仲が良いかも。決戦後日車術師IF、微妙に単行本未収録の要素があります。野球の部分は読み飛ばしても大丈夫です。
野球中継
車線もない狭い山道を、車が左右に揺れながら登って行く。街灯どころかガードレールもない道で、他に人の気配は無かった。ヘッドライトはひたすら鬱蒼とした木立だけを照らしている。冷房を入れているのに、なんとなく纏わりつく熱気と湿度をガラス越しに感じるような、夜の夏山である。
「そろそろだな。日車、ラジオつけてくれ」
ハンドルを握る日下部が言い、俺がカーラジオの電源を入れると、ステレオからクラシック音楽が流れて来た。
この辺りの山で、非術師が何人も行方不明になったが、表向きは登山で遭難したことになっている。呪霊や被害者の目撃情報は全く出ていないものの、それほど険しくもない山で、呪霊の仕業であるのは明らかだった。しかし薄っすらとした呪力の気配はあるものの、ずっと移動しているのか、隠れようとしているのか、本体は見つからない。帳を下ろすにしても範囲が広すぎる。高専での祓除前の打ち合わせで、地図を睨みながら補助監督からの報告を聞いた日下部は俺に向かって言った。
「こういうときは、霊障を利用する」
霊障。狭義には呪霊の存在によって人間の心身に出る悪影響を指すが、広義には建物の劣化や電波の遮断など、物体に及ぼす影響も含まれる。日下部が補助監督に渡された書類をぱらぱらとめくった。
「霊障は呪霊の敵対心や術式とは関係なく、近くにいるだけで機械の調子が悪くなったり、食い物が腐る場合がある。今回の呪霊も、山の麓の家でテレビの調子が悪い、とかアンテナを替えた、とか報告が来てる」
「…ああ、じゃあ携帯でも見ながら山歩きすれば、呪霊の場所が大体分かるのか」
「そうだけど、もうちょい効率よく行こうぜ」
日下部はカーラジオの付いた高専の車を選んで借り出し、出発した。ラジオが途切れる、あるいはノイズが混じるといった現象が起きれば、呪霊が近くにいる可能性がある、というのだ。確かに効率が良い。しかし日下部は、ステレオから響くホルンの深い音色に少しだけ顔を顰めた。
「クラシックじゃなくてさ、もうちょいうるさいやつねえか。霊障で止まってんだか余韻なんだか分からん」
「今のは『夏の夜の夢』の夜想曲だから余韻だ」
「俺も分かるやつにしてくれ」
仕方なく周波数を変える。いくつかの音楽番組を経た後で、突然賑やかな歓声と拍手が響いた。
『センター前ヒットになりました!一アウト二三塁、さあ、同点のランナー三塁まで進みました……』
「お、これいいな。ずっと喋ってる」
「じゃあこれにしよう」
確かに、野球中継は探知には最適かもしれない。曲の切れ目もないし、伝える情報が多いからほとんど喋り通しなのだ。アナウンサーも慣れたもので、時折解説者に話を振る以外は立板に水と絶え間なく話し続ける。静かだった山道が急に騒がしくなった。
『八番の相澤チャンスでバッターボックスに入ります、ピッチャー第一球を投げた、見送ってストライク…』
「お前野球分かるの?」
「応援している球団はないし選手もよく分からないが、ルールは分かる」
「珍し。なんで?」
ラジオを付けたのは用心のためで、行方不明者が出ている地点まではまだ大分距離がある。日下部も雑談をする余裕があるようだった。
「メジャーリーグで活躍してる二刀流の選手がいるだろう」
「ああ、はいはい。そういえば同郷か?それで観始めた?」
「いや、周りには結構熱心なファンもいたが、俺はあまり興味がなくて」
地元は強いて言えば仙台の球団のファンが多いのだが、二刀流熱はなかなか冷めず、ローカルニュースでもスーパースターの活躍はよく報じられた。同級生などには、彼の所属する北海道の球団を応援し始めたという者もいたように思う。今はメジャーリーグを見ているのだろうか。
「うん、お前がスポーツ観戦するところ想像出来ねえな」
「でも彼がメジャーデビューした後で、ルール改訂の切っ掛けになったと聞いて、ルールブックを通読した」
「俺が今まで聞いた中で一番変な野球の入り口だわ」
二刀流の活躍のお陰で、メジャーリーグでは先発投手が指名打者を兼任出来るようになった。このルールは日本の野球規則にも輸入されたが、今のところ使用した選手はいないらしい。
『…投手の森上、なんと今シーズン打率二割八分六厘、十五試合で二度の猛打賞、今日ここまではセンターフライとライトフライです……』
「実質的に一人のためにスポーツ全体のルールが変わるのは面白いだろう。ルールブックを読んで思ったんだが、どんなプレーも絶対に取りこぼさないような細かい取り決めがある。ルールさえ把握すれば、誰にでも草野球の審判が出来るんだ。平等と同時に普及を実現している。同じルールではあっても、法律とは全く異なる在り方だと感じた」
日下部が前を見たまま首を捻る。
「……それ楽しいの?」
「楽しい。最近はサッカーやアイスホッケーのルールも読んでいるが、細かさと柔軟さは野球が一番だな」
「まあ楽しいなら、いいけどよ」
変わり映えのない山道が緩やかに曲がりながら続いている。山頂付近まで続いている訳ではなく、途中で隣の山腹へと移動する筈だ。GPSを見ると、目的地まではあと二十分ほどあるらしかった。
『ピッチャー小竹、九番ピッチャー森上に対します、振りかぶって、第三球投げた!アウトコース低め、直球ボール!…警戒しています、二対一、七回表………』
「あー、来年の京都校との交流戦、お前審判やる?」
「審判が要るのか?あれは実戦の模擬試験みたいなものだろう」
「人数足りてれば野球やることもあるぞ。五条が……うおっ!」
突然、車道へと何かが飛び出してきて日下部が急ブレーキを踏んだ。車体が大きく揺れる。反射的に手の中にガベルを出現させたが、飛び出してきた何かは慌てたように道を横断して、藪の中へと消えていった。その後ろ姿の太い尾を見送る。
「……たぬき?」
「たぶん狸だ」
溜息を吐き、手を開いてガベルを消す。しかし、ラジオには幾らか雑音が混ざり始めたような気がした。
『もう完全に野手並の……ザザ…からインサイド……ザー…』
ここで降りるか、と言いかけた瞬間、雑音は止み、また平時の中継が再開された。
『……裏をかいた配球ですよね、…右バッターボックスの森上、バットを大きく振りかざして構える、ピッチャー石崎、ランナー一人を背負って…』
「戻ったな」
「近付いてはいそうだな。速度を落とす」
日下部が慎重にアクセルペダルを踏んで、車がまた山道をのろのろと動き始める。また湿度が上がったような気がする。雑談は終わり、緊張する車内で野球中継だけが異様な熱気を帯びている。
『……空振り三振!!森上悔しがり、石崎吼えた!甲子園のお客さんが、もう立ち上がって石崎に拍手を送ります、大歓声!……』
「おい、おいおい、駄目だ、降りるぞ」
日下部が再び急ブレーキを踏み、シートベルトをつけ損ねていた体が前のめりになった。日下部がドアを開けて道に出たのを追って、転がるように車を降りる。
「何故…」
「シッ」
説明を求めようとしたが、日下部が口の前で指を立てた。耳を澄ます。夏山の虫の声、遠くから蛙の声、それに混じって微かに人の声が聞こえた。
「たすけてー」
それは、どこか抑揚のない子供の声だった。
「たすけてー」
「おい」
「分かっている」
こんな夜の山中に、子供だけがいる筈はない。迷子の情報も出ていない。何より、禍々しく濃密な気配が森の奥から迫って来る。
「おかあさーん、あしがいたい」
日下部は俺と並んで木立の中へと入ろうとしたが、道の端で足を止めた。目を向けると、親指だけで鍔を押し上げ右手で俺、森、自分を順に指差した。視線を交わし、頷く。日下部を置いて一人だけで声の方へと向かう。
「いたいよぉ」
登山客が襲われているにも関わらず、呪霊や被害者が全く目撃されていない理由が分かった。助けを求める声を出して、人のいない場所まで誘導しているのだ。
夜の山は星明かりが樹木に遮られて暗い。呪力を目に凝らし、慎重に声の方へと近付く。
「いたい、いたい」
十メートルほど先、木立の奥に、巨大な陰影が蹲っている。虫の鳴き声がいつの間にか消えていて、周囲の温度が急激に低くなった気がした。
ずっ、ずっ、と陰影が湿った音を立てて蠢き、はっきりとこちらへ声を上げた。
「たすけてぇ」
それは巨大な人間の頭部がいくつも連なったもののように見えた。高さ三メートルほどもある顔が、女のもの、男のもの、子供のもの、幾つも連なっていて、どの顔も口が異常に大きく、気味の悪いほど白い歯を剥き出しにしていた。頭部の下には、人間の手足が不規則に、何十本と付いている。並んだ顔の一つ、少女のように見えるものが巨大な口を開くと、グロテスクな見た目にはそぐわない幼い声が出た。
「いたいよぉ、こわいよぉ」
そのまま口は大きく開かれ、こちらへと飛び掛かってきて食らいつこうとした。横に跳んで躱すと、俺を捉え損ねた頭部からガチン、と歯が強く噛み合わせられる音が聞こえた。呪霊は手足をがさがさと動かして素早くこちらへと向き直った。思いの外俊敏だ。今度は女の頭部の口が開く。
「三郷線の上りは八潮に車が止まっているため常磐道へ伸びて四キロの渋滞、中央環状線も…」
正確に交通情報を伝える、女の声色だった。この呪霊はおそらく、聞いた音をそのまま出している。ならば、先程の子供の声もどこかで聞いたものなのだ。嫌悪感に背筋が粟立った。
ガベルを振りかぶって横から殴る。呪霊の体には当たったが、低木に遮られて威力が落ちたせいでたたらを踏んだだけだった。この動線の悪い木立の中では、素早く動き回れる向こうの方が有利だろう。呪霊が体勢を立て直す隙に跳びすさり、来た方へと戻る。ガサガサと激しく藪を掻き分けて、呪霊が追いかけて来る。
「板橋ジャンクション方面に向かう内回りの、飛鳥山トンネルの先に車が止まっているため…」
木立の中では、長物は振り回しにくい。日下部の簡易領域も、出来なくはないだろうが、威力が落ちるだろう。だから、俺に誘導してこいと、あの指差しはそういう意味だ。
木々の隙間を縫って道へ戻ると、ヘッドライトの光を浴びながら日下部が待っていた。横へ跳んで簡易領域の邪魔にならないところまで逃げる。
「…東名高速の下りは、神奈川県の、大和トンネルで、事故のため五キロの渋滞…」
木立から勢いよく飛び出してきた呪霊が、日下部の腰を低く落とした姿に反応してなんとか方向を変えたが、領域が容赦なく広げられて呪霊を飲み込んだ。
「夕月」
呪霊の体に瞬時に何百もの赤い線が走り、ばらばらと崩れて、音もなく砂となって消えた。来た道を戻り車に辿り着く頃には、虫の声が再び聞こえてきて、夏山はまるで何事もなかったかのように星明かりを浴びていた。
周囲に他の呪霊がいないことを確認してから、車に乗り込むとまだラジオが野球中継を続けていた。
『…三番、サード、中園から攻撃が始まっています、八回表……』
「どうしてさっき、車を降りた?」
カーラジオの電源ボタンを押すと、車内がしんと静かになった。日下部が肩を竦めて笑う。
「お前本当にルールしか知らねえのな。今日って何日だっけ?」
「八月十一日」
「この時期に甲子園でプロの試合はねえんだよ」
「……ああ、成程」
言われてみれば、高校野球の時期だ。球児たちが甲子園を使う間、プロ野球の試合は追いやられて他の球場を巡業する。
「人真似…というか、聞いた音をそのまま流すような呪霊だったな。大方、ちょっと前の野球を再放送して霊障を誤魔化そうとしてたんだろ。呪霊にしちゃ頭は良かったが、録音した試合が悪かったな」
「……俺だけなら引っ掛かっていた」
「やっぱルールだけじゃ駄目だな」
今度試合観に行こうぜ、と言いながら日下部がアクセルを踏んだ。