#ダンケルク ラスト1秒のアレ。奇跡的なダンケルクの大撤退に連なる、いかにもなエモいストーリーの数々を一瞬で叩き潰したトミーの虚ろな瞳。たった1秒で。まさかこの戦禍が感動の物語だとでも?と言われたような心地。恐ろしい。
絶望的な戦況でも諦めず奇跡を信じて生き抜いた若者たち、救出に向けて立ち上がった民間の船乗り、民衆を奮い立たせる新聞記事、英雄として讃えられる市井の子ども、地平線まで続くかのごとく打ち捨てられた兵士のヘルメット、大活躍の後敵陣で捕らえられたファリア。そしてかの有名な、「We shall never surrender.」のメッセージ。
ダンケルクのラスト、物語の締めくくりとして申し分ない演出でしたよね、音楽も最高潮に盛り上がって。
で、轟々と燃え上がるスピットファイアを映してフェードアウト……
……からの、トミー!!!!
ダンケルクの大撤退をアツく語る新聞記事を読んで、顔を上げたトミーの、あの虚無の瞳!!!!!
そして暗転、エンドロール………。
話飛びますが、ランドリオールの作者のおがきちかさんがどこかで「物語は本来、”物語”として語られる前からずっと続いていて、語られた後もずっと続く。」というようなことを仰っていました。
話を戻しますと、あのトミーの映った1秒にわたしは、”物語”としての「ダンケルク」の、その後に続く彼らが”映り込んでしまった”ような、それまでのすべてを越えるほどの恐ろしいリアリティを感じてしまいました。
物語としての「ダンケルク」なら、燃え上がるスピットファイアの画で締めくくっていればそれでもう言うことはなかったはずです。そうすれば、そこにはとても力強い、奇跡を目の当たりにしたような魅力が生まれるはずだからです。戦争を間近で知らない人間が戦争に感じる、ある種の魅力。それこそ、「ダンケルク」の終盤に画面いっぱいに漂っていた、あの高揚感です。
そこにぱっと、思い出したように差し込まれたトミーの瞳。
自分が生き延びてきた地獄のような戦場が、祖国の人たちの間で何かの英雄譚のように語られ、神々しい戦闘機の燃え上がる様で幕を下ろす物語として消費される虚しさ。
そういうことに対する批判が、あの1秒に詰め込まれているように感じました。
エンドロールに書かれた「ダンケルクの救出劇に運命を左右されたすべての人たちへ」という一文も追い打ちをかけてませんか。
ダンケルクの英雄でも、犠牲者でもなく、運命を左右されたすべての人たち、ですよ。
劇中に名前の挙がった人なんて一握りもいませんでした。あそこには兵士だけでも40万人いたそうなのに。
結局、”物語”として語られうる「ダンケルク」は、ダンケルクのほんの一部の、ほんの一面でしかないんですよね。
「ダンケルク」はまぎれもない現実の歴史であるということを、こんな方法で最後の最後に叩きつけてくるノーラン監督、こわいひと!!